第49話 どんでん返し

真之介「これは…」

 

 ある夜、いつものように寝間着に手を通した時の事だった。


ふみ 「あの、私が縫いましたの…」

 

 と、はにかみながら、ふみが言う。真之介が気付いてくれた事がうれしいようだ。


真之介「さようか…」

 

 だが、真之介はそれ以上は何も言わず眠ってしまった。せっかく気付いたのだから、もう少し何とか言ってくれてくれてもいいのではと思わずにはいられなかった。

 真之介はふみのいない時に、その寝間着を取り出し、先ず背縫いを見た。そして、襟先から裾を合わせ、身幅も合わせて見る。最後に襟付けを見た。

 着物を生かすも殺すも仕立てである。どれほど素晴らしい反物を、世にも美しい女が纏おうとも、仕立てが悪ければ何の価値もない。

 現代では着物を一人で着れる人の方が少ないが、この時代、生まれた時から着物を着ている。どうすれば着崩れないかと言うことは子供の頃から身についている。そして、針仕事は女のたしなみであり、ほとんどの女は自分の着る物くらいは縫えた。

 それでも高価な着物や裕福な家ともなれば、反物を買った呉服屋で仕立ても頼む。また、腕のいい仕立師には指名客が付いた。それほどに、着物の仕立てと言うのは重要であり、また、いい仕立ての着物は余程の大立ち回りでもしない限り、着崩れなどしない。

 単衣の着物の場合、二本の背縫いを見れば先ずその腕の程がわかる。二枚の布を針と糸で合わせて行く。その糸と針の運びを運針と言う。さらに、運針の後のしごきをきちんとしないと縫い合わされた布は攣れてしまう。糸は少し余裕を持たせる。

 そして、身幅や襟先の揃いも重要だが、一番肝心なのは襟付けである。この襟付けで本当の腕がわかる。袖を通し前を合わせれば襟が自然に体に吸いつく。それが本当に仕立てのいい着物である。故に着崩れなどしない。


 余談だが、これが洋裁となるとその基本は製図である。着物と違って、そのデザインは多種多様にあり、いくら素晴らしいデザインであっても、製図が悪ければ全く意味をなさない。製図に沿って生地を裁断し、縫って行くのだ。いくら仮縫で修正が出来ると言っても、元の製図が悪ければとんでもないものになってしまう。仮縫いとは平面から立体に仕上げるためのあくまでも補正でしかない。

 また、裁断も重要である。裁断師という職業もある様に裁断ミスは致命的である。男性の礼装であるモーニングの裁断は非常に難しく、製図が描けて縫える腕を持った職人でも裁断は専門の裁断師に依頼すると言う。そして、洋裁も本当に仕立てが良ければ、洗濯機で洗っても型崩れしない。

 

 生まれて間もなくから、真之介の着る物は下着に至るまでお初が縫っていた。と言っても、それは日常着で袴や紋付などの礼服は専門の職人の手によるものだったが、ある時、真之介は腕のいい仕立て職人にお初が縫った着物を見てもらった。この男の職人が縫うと襟に独特の風合いが出ると評判で、仕立ても常に順番待ちの状態だった。


仕立師「これは素人とは言え、中々の腕です」

 

 そんな職人が褒めるほど、お初の仕立て技術は高かった。そして、今見るに決してふみが下手と言う訳ではない。だが、違うのだ。袖を通した時から何かしらの違和感があった。それはずっとお初の縫った物ばかり着て来たせいもあるが、やはり、手が違うのだ。同じ女であっても手は違う。針の運びが微妙に違うのだ。

 それにしても、旗本の姫がこんな町人上がりの男の物を縫ってくれたのだ。それだけでも感謝せねばいけないのに、昨夜はちょっと素っ気なかった。

 これからはふみの仕立てにも慣れなければ…。

 そんなふみは今日も縫物をしていた。


ふみ 「母の寝間着です」

真之介「さようか、母上もお元気そうで何より。孫がお生まれになるので張り合い

   もおありだろう」

ふみ 「ええ、でも…」

真之介「何か?」

ふみ 「兵馬の事です。最近酒量が増えたとか。医師にも飲みすぎを注意されてま

   すのに先日も白田屋と飲んで帰り、その夜腹痛を起こしたとか…。もうすぐ

   父になると言うに、何より嫁に見向きもしないのだそうです」

真之介「その話は拮平から?」

 

 真之介は拮平から、兵馬と蕎麦屋で飲んだ話は聞いた。その時、酒のピッチが早く、天ぷらは食べたが蕎麦には手を付けなかったと言っていた。


拮平 「あれでは体、悪くするよ。元々あまり丈夫じゃないって聞いてたし」


 拮平ですら心配していたが、その話をふみにはしてない。


ふみ 「久です、今日も久を実家に様子を見に行かせました」

真之介「どうして、一緒に行かない」

ふみ 「私は嫁に行った身ですから、そんなに実家にばかり帰ると言う訳には行き

   ませんし、今は兵馬の嫁がいますので…」

真之介「ああ、あまり、小姑が実家に入り浸ってもな」

 

 その久も当初は真之介のお目付けとして、ふみの輿入れに付いて来た。そして、真之介とふみの様子をことあるごとに実家に報告していたが、今は実家の様子をふみに告げる役目に代わっているようだった。

 それだけ、真之介とふみの仲が落ち着いて来ていると言う事だが、逆に三浦家の方が兵馬のでき婚によってあわただしくなっている。

 やがて、久が戻って来た。


久  「姫、いえ、奥方様…」

ふみ 「どうしたのです。母上に何かあったのですか」 

久  「いいえ、お母上様はお元気です」

ふみ 「それはよかった。では」

久  「はい…」

 

 やはり、兵馬夫婦のことだった。妻の園枝にも実家から女中が付いて来ている。ましてや、園枝は懐妊しているのだ。当然のことながら、女中は園枝や三浦家の事を逐一実家に報告する。そして、園枝の実家が怒ってると言うのだ。婿の兵馬が全く妻を顧みない。いくら、懐妊に対して男は何も出来ないとはいえ、今は部屋も別でろくに口も聞かず、酒ばかり飲んでいる。

 その怒りはもっともな話で、母の加代が諫めたくらいでは聞く耳を持たず、父の播馬に意見されればしばらくは大人しくしているものの、すぐに元の黙阿弥。

 憂慮した園枝の両親が近くやってくると言う。そこで、その前に色々と相談したいので明日にでも来てほしいとのことだった。出来れば、真之介も一緒に。


ふみ 「旦那様、どうか意見してやってくださいませ」

真之介「いや、父上でも無理なものを私が…」

ふみ 「その様におっしゃらず…」

 

 兵馬の苛々の原因は分かっている。女を知ったことへの自信が暴走してしまった。そして、いきなり付きつけられた妊娠という現実。兵馬にとってはまさに青天の霹靂でしかない。それは婚姻と言う形で納まったものの、兵馬にとっては妊娠など気持ち悪いものでしかなかった。そこで、予てから目を付けていたお伸に近づく。お伸なら色と欲の両方を満たしてくれる最高の側室となる筈だった。だが、あわただしくお伸の婿取りが決まり、やり場のない欲望を酒で紛らわせているのだろう。

 こうなったからには別の側室を持たせた方がいいと思うが、そのことを迂闊に口にすれば、またあらぬ誤解を受けぬとも限らない…。


久  「奥方様、何がそんなに楽しいのですか」


 久が訝しがっても、にこやかなふみだった。


ふみ 「こんな日が来るなんて…」

 

 一年前には想像すらできなかったことだ。何一つ希望もなく、その日の暮らしに追われるばかりだった。そんな中での真之介との縁談。あの時は家の窮乏を救うために、町人上がりのにわか武士に嫁ぐ、まさに悲劇のヒロインだった。

 結納後の顔合わせで、真之介と言う人物を垣間見ることは出来たけど、それでも不安だった。

 嫁げば嫁いだで、真之介の側に行くだけでなぜかどきまぎしてしまう。やさしくしてくれるのに、どうしていいかわからない。そんな中、早速偵察にやって来た意地の悪い二人の従姉。家の中を引っかき回されては大変とその時は擬勢を張った。

 何より、嬉しかったのは親友の佐和夫婦を招待したことだった。相思相愛で結ばれたこの夫婦がずっと羨ましく、佐和が妬ましくさえあった。それでも真之介が思った以上に包容力のある男だったので、自信を持って引き合わせる事が出来た。そして、実家の方も今は毎日米飯の食事がとれている。ふみも時々、久に食べ物を持たせ実家に使いにやっている。

 また、真之介との暮らしは刺激のあるものだった。家には舶来の品があり、義実家の商家の様子も珍しく、真之介を通じての町人たちとの交わりも楽しく、あの幽霊騒動も後になって、ちょっと甘えすぎたと心の中で反省している。

 また、感謝している仲人の坂田夫妻の夫婦喧嘩にも立ち会う事が出来た。

 そして、今日は兵馬の事で相談されるのだ。真之介もとの言伝だが、それは、母が真之介を頼りにしていると言うことだ。これを喜ばずして…。

 しかし、惜しむらくはまだ子が出来ない。弟の兵馬に先を越されてしまったが、悲劇のヒロインが一年足らずでここまで来たのだから、それはこれから…。


久  「本当によろしゅうございましたわね」


 久も喜んでいる。


久  「でも、旦那様、遅いですね。どちらまで行かれたのでしょう。もう、そろ

   そろ出かけませんと」

 

 真之介は朝食後に出かけたままだった。その真之介が帰って来た。


真之介「さあ、参ろう」

ふみ 「それは何でございますか」

真之介「珍しいものが手に入った」


 その珍しいものは、きれいな桐の箱だった。

 三浦家に到着すれば、挨拶の後、箱を持ったまま、真之介は台所へ向かう。


播馬 「男子が厨房に入るとは…。女中に任せれば良いものを」

ふみ 「何か、珍しいものだそうです」

 

 播馬は苦虫を噛みつつあったが、運ばれて来た皿の上の物を見て驚く。


播馬 「これは?」

 

 皿の上には、四角い黄色と茶色の菓子のようなものに、黒文字が添えられていた。それは播馬だけでなく、誰も見た事のないものだった。

 

真之介「これはカステラと申す、異国の菓子にて。どうぞお召し上がりくださいま

   せ」

兵馬 「えっ、これが、あのカステラですか」

播馬 「したが、婿殿。この様な毛唐が食すようなものを、懐妊中の嫁に触りはな

   いのか」


 カステラに蜂蜜が使用されるようになったのは明治に入ってからであり、当時のカステラはそれほどしっとりした食感ではないが、卵も砂糖も貴重な時代。カステラはまさに珍品だった。その間にも兵馬はカステラを口にする。


兵馬 「美味です…。いえ、私は毒味をしたまでです」

 

 この時、部屋には園枝付きの女中もいた。その顔付きからして、これから始まる親族話を一言一句聞き洩らすものかと構えていたが、その女中の前にもカステラの皿が置かれた。初めは播馬同様、見慣れぬ異国の菓子に、園枝に手を付けぬようにと目で訴えていたが、兵馬に続き、ふみも加代もそのおいしさに感嘆の声を上げれば、もう我慢出来なかった。

 それまでのキツイ顔つきはどこへやら、おいしい物の前では誰もが口数少なく、穏やかになると言うものである。


加代 「まあ、長生きはするものですね。この様に珍しいものが頂けるのですか

   ら」

真之介「まだまだこれからではないですか。お孫様がお生まれになるのです。さら

   に、長生きして頂かねば。そうですね、兵馬殿」

兵馬 「はい、それはもう…。それと、私も少しばかり、飲みすぎました。心から

   反省しております。以後はこの様な事のないように致します」

 

 実は、台所で皿や茶を用意させている間に、使用人に兵馬を呼びに行かせたのだ。


真之介「先ずは反省の弁を述べられることです。そして、園枝殿とよくお話し合い

   をされることです」

 

 と、軽く打ち合わせをしておいた。その間にも、皿の上のカステラが気になって仕方がなかった。また、初めて見るカステラに興味津々なのは、兵馬だけではない。台所を預かる者たちの目も初めて見る異国の菓子に釘付けだった。そして、端切れのご相伴に与れたのだ。


加代 「本当に兵馬は反省をしなくては。もうすぐ父親になるのです、これからは

   兵馬が当主なのですよ。家の要は何より夫婦が相和すことです。そこのとこ

   ろをよく考えませんと。ねぇ、真之介殿」

真之介「はい。いえ、私も大きなことは申せませんが、まぁ、互いに譲り合う気持

   ちが大事かと。特に懐妊中は胎教の事もあり、妻を気遣わなくてはなりませ

   ん。子を産むと言うことは大変なことなのです」

園枝 「まあ、兄上はよくご存じですこと。その様な事、どこで教わりに」

 

 夫婦揃って同じことを聞いてくる。


真之介「妹が産まれたのは私が七歳の時です。その時の母の大変さを覚えておりま

   すので」

園枝 「まあ、そうでしたの。いえ、兵馬殿が妙な事を申されますもので」

兵馬 「私は何も言っておらぬわ」

真之介「まあまあ。ここはお二人でじっくりお話されるのがよろしいかと」

兵馬 「はい、その様に致します。兄上、ご馳走様でした。お陰で元気が出まし

   た。カステラとは誠に美味なものでした。では、お言葉に甘えましてこれに

   て失礼致します」

 

 と、立ち上がる兵馬に促され、しぶしぶ後に続く園枝に従う女中を、久がそっと袖を引く。


久  「ここは、お二人だけに。私達もお話しませんこと」

 

 と、別室にいざなう。


加代 「まあ、さっさと引き下がるなんて…」

ふみ 「母上、あれでよろしいのです」

 

 と、ふみが訳知り顔で言う。


加代 「そうですね。まあ、それにしても世の中には珍しい食べ物があるのです

   ね。真之介殿、本当に美味しゅうございました。ありがとうございます」

真之介「お気に召していただけて幸いです」

加代 「殿…」

播馬 「うむ…」

加代 「どうなさったのです、さっきから黙ったままではございませんか」

播馬 「やっ、兵馬はいずこへ」

加代 「兵馬は園枝殿と二人で話し合うと下がったばかりではございませんか」

播馬 「えっ、いや、そのような事」

ふみ 「父上、しっかりして下さいませ」

播馬 「な、何を言う。私は考え事をしていただけである」

 

 つい、カステラの余韻に浸っていたとは、口が裂けても言えない。


播馬 「そんなことより、今一度、兵馬を呼べ。あやつに言って聞かさねばならぬ

   ことがある。無論、真之介殿にも尽力願いたい」

加代 「ですから、兵馬は今、園枝殿と話し合っております。それが一番ではない

   ですか」

播馬 「ならば、後でよい」

真之介「ならば、お庭でも散策致しませぬか」

播馬 「う、うん。それもよかろう」

 

 思わぬ助け舟だったが、真之介の誘いにのった振りで庭へと向かう。そんな二人の後姿を眺めながら、加代が言う。


加代 「まあ、婿と舅と言うのもあれはあれでいいものですね」

ふみ 「はい」

加代 「真之介殿にはすっかりお世話になって。ふみは幸せそうで何よりですの

   に、兵馬が…」

ふみ 「お婆様が…。いくら体が弱いからと言って甘やかしすぎたのです」

加代 「……」

ふみ 「でも、仁神の話を断ってくれた事には感謝してます」

 

 母とふみには優しさのかけらも見せなかった祖母だったが、仁神の側室話はかたくなに断り続けてくれた。だから、今の幸せがあるのだ。

 一方の真之介は思い切って切り出す。


真之介「兵馬殿も今一つ体調がすぐれぬようで、ここはどなたか、お世話する方

   が…」

播馬 「うむ…」

 

 その当たりのことは、播馬も考えていたようだ。


播馬 「心当たりがあるか」

真之介「いえいえ、全く、何もございません。あの、こう言うことは坂田様にお願

   いされるのがよろしかろうかと」

播馬 「そうだな…。ところで」

 

 そら、来た。


播馬 「もしや、兵馬のついでにと思っているのではあるまいな」


 ちょっと方向違いではあるが、これも恐れていた事だ。


真之介「決して、そのようなことは」

播馬 「外にいるのでは」

真之介「その様な者はおりません。本当です」

 

 つまり、息子はいいが、婿は駄目と言うことだ。


播馬 「では、どうして子が出来ぬのだ」

真之介「はぁ…」

播馬 「一日も早く、ふみに子が出来る様、毎日神仏に祈っておるで」

真之介「はい」

 

 そんな事を言われても、こればかりはどうしようもない。

----あなたの息子が早すぎたのです。


 そして、もう一方の久はとんでもない情報を掴んでいた。久は真之介から、園枝付きの女中から出来るだけ話を聞き出すよう指示を受けていた。同じ立場の女同志なら話もしやすいだろう。それによれば、園枝には下に年の離れた弟がいる。そのせいか婚姻を急かされることもなく、また、娘を手放したくない父親は縁談の選り好みをしていた。そんな園枝とふみは同い年。園枝にすれば婚期が遅れそうであっても、ふみと言う「相棒」がいることから、左程焦りを感じる事もなく過ごしていた。それに、ふみはあの仁神の側室になるらしい。それを見届けから、自分は晴れやかに輿入れすればいいと思っていたようだ。


久  「まあ、人の不幸を見届けてから、と言うのが正直なところでしょうか」

 

 だが、何が起きたのかよくわからないままに、ふみは真之介の許へ輿入れしてしまう。それでも、相手はにわか武士。何ほどの物かと高を括っていたが、ふみの従姉の雪江と絹江からの情報によれば、かなりいい暮らしをしていると言う。また、園枝は見てしまった。真之介の実家近くを二人が歩いている姿を。

 きれいな着物を着て幸せそうなふみの姿を見ると、もう居ても立ってもいられなくなり、父親に早く輿入れしたいと泣き付くも、十五、六歳の婚姻が珍しくない時代、十九歳ともなれば、それも五百家余りの旗本の中からの相手となれば、にわかに見つかるものではない。そんな頃、兵馬と出会う。顔見知りでもあり親しくなるのに時間はかからなかった。


久  「まあ、ぶっちゃけ年下の男なら扱いやすいし、呉服屋の親戚がいるのも悪

   くないとか…。その様なことで、手を打たれたようです、はい」

 

 さらに、思いがけず懐妊しでき婚となった。だが、幾ら年下とはいえ兵馬は、妊娠中のつわりを気味悪がって寄りつこうともしない。そのくせ、これが意外と短気なのだ。今更後悔しても始まらないが、子供が生まれれば少しは変わってくれると、かすかな望みはまだ持っている今日この頃、と言うのが、久の意訳も含めた園枝の情報だった。


真之介「それにしても、良くそれだけ聞きだしたものだ」

久  「はい、お近くによいお手本がございますので」

 

 無論、誰も只では口を開かない。


久  「これは当家の奥方様から、これは私から」


 真之介から渡された金をふみからだと言い、半襟を手渡す。


久  「是非お近いうちに園枝様とお越し下さいませ。当家には舶来の珍しいもの

   もございます。出来れば、こんふぇいとも用意しておきますわ」

 

 と、付け加える事も忘れなかった。


ふみ 「でも…」

真之介「どうした」

ふみ 「これからは、母上が大変なのでは…」

真之介「そうだな」

 

 さらに、産まれた子が男の子であれば良いが、これが女の子だったら…。

 あれから、兵馬と園枝の間にどのような話し合いがなされたか知る由もないが、相変わらず家庭内別居状態のままらしい。ふみも心配ではあるが園枝の手前、そんなに実家に行く訳も行かない。そこで、久の出番となる訳だが園枝は久が持参する卵や魚を楽しみにしていると言う。


久  「おそらく、ほぼお一人で召し上がられるのでは…」

 

 懐妊中だから栄養を取らなくてはいけないのはわかるが、少しは母や弟にも食べさせてほしいと思わずにいられないふみだった。それにしても、父は何をしてるのだろう。母の話では、やはり、ふみの輿入れ後から気持ちが沈みがちになったとか。あれほど威厳のあった父がどうしたものかと思われてならない。

 その父の播馬が坂田の屋敷に向かっていた時、偶然にも真之介と出会う。


真之介「これは父上、どちらへ」

播馬 「うん、いや、その…」

供侍 「殿、この際ですので、ご一緒して頂いては」

 

 播馬は余計な事をと言う顔をしていた。


真之介「あの、坂田様のお屋敷でございますか」

供侍 「左様でございます。よろしければご一緒願えませぬか」

真之介「私は構いませんが…」

播馬 「まあ、ここで会ったのも何かのついでだ。では、一緒に参られよ」

真之介「よろしいのですか」

供侍 「はい」


 供侍の方が喜んでいた。


供侍 「実はあの話でして」


 と、真之介の側に来て小さい声で言う。


供侍 「ほれ、若様の…」 

 

 それにしても、供侍はどうして真之介に同行を促したのだろう。播馬と坂田は子供の頃よりの親友と聞いている。それに兵馬の側室話など、真之介がいない方が気楽に話せるのではないだろうか。


坂田 「ほほぅ、父と義理の兄が弟の側室を…。いや、これまた、結構な話で。は

   はははは」

播馬 「坂田殿、笑い事ではござらん」

坂田 「いやいや、これは失礼。思いがけぬ展開でしてな…。わかり申した。早速

   に当たってみます」

真之介「と、申されますと心当たりがおありなのですか」

坂田 「まあな」

真之介「どのような方かは存じませぬが、落ち着いた感じの方がよろしいかと」

坂田 「どうしてそのように申される。別に騒々しい者と言う訳でもないが」

真之介「今、兵馬殿は体調を崩されております。側室云々より、まずは身の回りの

   お世話をして頂きたいのです。お元気になられてからのことは、また、その

   時にと言う方向でお願い致します」

坂田 「なるほど。わかり申した」


 その坂田が真之介の家に一人の少女を連れて来た。


坂田 「この娘だ。どうだ、こう見えて中々にしっかりしておるで」


 真之介はやれやれと思う。あの日、帰り際に坂田に、出来れば同年か少し年上くらいの方がいいと伝えておいたのに、連れて来たのは…。


真之介「あの、坂田様、私のところではなく先ずは兵馬殿の許へ」

坂田 「いや、何、その前についでにちょっと立ち寄ったという次第だ。それに内

   情も知っておく必要があるし、今や、お主は三浦家にとっても重要人物では

   ないか」

真之介「いえ、そのようなことは…。名は何と申す」

千花 「千花と申します。十三になります」


 十三歳とは…。だがそれより幼く見える。子だくさんの御家人の娘で奉公先を探していたと言う。身なりも粗末だった。


ふみ 「兵馬を頼みます」

千花 「はい、一生懸命お仕えいたします」

ふみ 「こちらへ」

 

 と、ふみが別室に千花を連れて行く。


坂田 「どうだ。少し、大人しすぎる感じもするが」

真之介「もう少し、年上がいいと申したではないですか」

坂田 「なに、男とは若いのを好むものだ。女は直に年を取る」


 それは、坂田の好みであって、今の兵馬は痩せた少女より、少し脂肪がついているくらいの年上の女がいいのに…。そして、ふみと千花が戻ってくる。


坂田 「おう、これは、見違えたではないか」

 

 坂田が言うのも無理なかった。ふみの娘時代の着物を着せてもらった千花はそれまでの緊張した表情から、今は笑みがこぼれていた。


千花 「ありがとうございます」

ふみ 「着古しで悪いが、いずれ新しい着物も」

千花 「いえ、本当にありがとうございます」

坂田 「では、これより皆で参りますかな」

 

 そうなのだ、坂田はふみに実家に行く口実作りのために寄ってくれたのだ。

 揃って三浦家に行けば、さすがに加代は千花の着ている着物がふみのだと気が付く。


加代 「まあ、ふみが帰って来てくれたようではないですか」

 

 と、側に真之介がいるのに言ってしまう。


加代 「いえ、あの、そう言う意味では」

真之介「どうぞ、お気になさらずに、千花をふみと思って色々お教えを」

千花 「よろしくお願い致します」

加代 「まあ、いい娘ですね」


 その様子を園枝が冷ややかに眺めていた。

 肝心の兵馬は千花が幼く見えたのか、取り立てて関心は示さなかった。

----やっぱりだ…。


兵馬 「兄上、ご足労掛けました」

真之介「坂田様のお骨折りです」

兵馬 「お陰で、気兼ねなく用を頼めます」

千花 「若様、何なりとお言いつけ下さいませ」

兵馬 「うん、頼む」

真之介「一日も早くお元気になられますよう」

ふみ 「そうです、お薬もきちんと飲むのですよ」

坂田 「左様左様。これからは兵馬殿の時代ですからな」

 

 翌日、真之介は実家の本田屋へと向かう。今は一線を退いているとはいえ、実質的な主人はまだ真之介なのた。やがてお伸の婿として小太郎が主人の座に付くが、何と言ってもこの小太郎も兵馬と同い年。あと数年は真之介が後見人の立場であることに変わりはない。今も月に一、二度は帳簿に目を通し番頭たちと話し合いをする。そして、例によって、拮平もやって来る。


拮平 「真ちゃん、大変なのよ、上が下になって、その下が上になって、また、下

   になっちゃったんだよ。もう、シドイと思わないかい」

真之介「今度は何だ」

拮平 「だからさ、上が下になったじゃない。そして、落ちて、また、上になった

   のもちょんの間、それが、また下なんだよ。あの何でも屋の野郎め」

真之介「ああ、そう言うことか」

拮平 「さすが、真ちゃん、ものわかり早い」

 

 生まれて二十余年、いや、真之介が侍となり別に居を構えるまでは、或いは親以上に顔を突き合わせ、この男と言葉のキャッチボールをして来たのだ。拮平の語彙足らずの会話くらい、すぐに察せられると言うものだ。


真之介「感心してる場合か。つまり、女心は変わりやすいってことか」

拮平 「あの、祈祷師だよ!」

真之介「祈祷師がなんだって」

拮平 「二階のお祓いが済み、昔の美女の霊も鎮まったので、もう大丈夫なんて

   言ってさ。やはりご新造様には二階がお似合いですとか何とかでさ、さっさ

   と二階に移っちゃったんだよ。あの後妻。それにさ、あの何でも屋も何でも

   屋だよ。一言くらい言ってくれたっていいと思わないかい」

真之介「そりゃ、仕事なら引き受けるわ」

拮平 「なら、一言言えってぇの」


 隣の白田屋の後妻のお芳と拮平は同い年。そのお芳が二階の拮平の部屋を自分の部屋にしたいと駄々をこね、拮平を一階に追いやる。だが、そのお芳がこともあろうに階段から足を踏み外してしまう。誰かが付き落とした説を引っ込めないお芳は祈祷師を呼ぶ。

 その祈祷師の言うことには、昔、この場所で美しい女が惨い死に方をした。その霊が自分の分身のようなお芳にすがりついたことから、お芳が足を踏み外してしまったとか。体の痛みもあり、お芳は一階で暮らすことにして、再び拮平を二階に追い上げる。

 拮平にすれば、元の自分の部屋に戻れたので言うことはなかったが、祈祷師に促されたのか、又してもお芳は二階に戻ると言う。いや、もう既に戻ったようだ。その時の道具運びを二回とも何でも屋がやったので、それも気に入らないと言うのだが、それは怒りの矛先が違うと言うものだ。


真之介「拮平。たまにゃ、まともに怒れ!」 




















 





















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