第30話 お初と言う女

忠助 「旦那様、ちょっとよろしいですか」

真之介「何か用か」

忠助 「用と言うより、ちょっと…」

真之介「だから、何なのだ」

忠助 「まあ、お初さんがいないので今のうちに…」

真之介「お初がどうした」

 

 お初と言うのは真之介の乳母である。真之介の母が産後の肥立ちが悪く授乳もままならぬ頃、乳母としてやってきた。真之介の母が亡くなり、後添えとしてお弓がやってきても、お初は真之介の「母」であるという姿勢を崩さず、いつも影のように寄り添っていた。そんなお初を忠助は思いもよらぬことを言う。


忠助 「それが…。お初さん、嫁いびりしそうで」 

真之介「どうして、お初が嫁いびりなどするのだ」

忠助 「どうしてって。言ってますよ、自分で」

真之介「何と…」

忠助 「はっきり言ってますよ。いくら旗本の娘とは言え、あんな金目当ての嫁に

   好き勝手はさせない。しつけ直してやるって」

真之介「……」

 

 これはまた、厄介なことになった。


忠助 「あちらの姫様が、旦那様のところへお輿入れになる理由の一つとして、

   姑がいないからってのもおありになられるのでは」


 姑であるお弓との同居がないことに、ふみの母の気持ちが動かされたことは確かである。どんないいところへ嫁いだとしても、そこに気のきつい姑がいれば、泣いて暮らすことになる。ほとんどの夫は見て見ぬふりをする。


忠助 「それに、あの久様も一緒なのでしょ。それでは、久様とも衝突せぬかと…」

 

 ふみが勝手の違う婚家に慣れるまで、女中の久も付いてくることになっている。


忠助 「余計なことかもしれませんが、何とかなさいませんと」

真之介「その当たりのことはよく言って聞かせてある故、お初も心得ていると思う

   たに…」

忠助 「ならば、どうしてあんなことを言うのですかね。しつけ直してやるなど

   と」

真之介「本当にお初がそのように言ったのか」

忠助 「はあ。でも、旦那様には何とおっしゃられますか…」

真之介「……」

忠助 「では、よくお考えになって下さい。私の言った事がただの告げ口なら、

   それに越したことはございませんが…。失礼いたします」

----あの、お初が…。

 

 よもや、あのお初が嫁いびりをするなど思いもよらぬことだった。いや、考えてみれば、後からやって来た継母のお弓を敵視していた。お弓と真之介が戯れているのさえ、気に入らなかった。


お初 「あの継母から、坊ちゃまを守ったのはこの私!」

真之介「母はそんな人ではない」

 

 真之介がいくら諫めても聞く耳を持たなかった。とはいえ、お初は常に真之介の側にいた。

 父は真之介が十二歳の頃、若い番頭と小僧を付け、小さな店を持たせた。その時もお初は当然のように付いて来た。父が倒れ、店は番頭に任せて本店に戻れば、お初も戻った。また、真之介が士分を取得し、屋敷を構えればそこにもお初がいた。いつもお初と一緒だった。

 お初にすれば、真之介のいない暮らしなんて考えられないのだ。そんなお初を、どうしろと言うのだ。かと言って、嫁いびりをされては…。


----どうすれば、いいのだ…。


  やはり、ここは母のお弓に相談するしかない。そして、実家に帰ってみれば、姉のお類が来ていた。


お類 「まあ、真之介。この間はごめんなさいね」

真之介「姉さん」

 

 先日の顔合わせの時は、お類の下の子がはしかに罹り、義兄はどうしても外せない用があると言うことで、二人とも出席できなかった。


お類 「今、おっかさんから聞いたのだけど、あの顔合わせの時、おっかさんもの

   すごく緊張してたそうね」 

真之介「そうでしたね」

お類 「でも、おっかさん。お武家様がそんなに珍しい訳でもないのに、お店やそ

   の辺りで会えば、普通に冗談なんか言ってるじゃないの」

お弓 「そうなんだけど、なぜか、あの時は緊張してしまって…。今、思い出して

   も恥ずかしい限りです」

お類 「まあ」

 

 と、女二人の話はしばらく続いたが、さすがに浮かぬ顔の真之介の様子が気になる。


お類 「どうしたの、いつになく沈んだようで。もしかしてあちらの姫様ともう喧

   嘩でもしたの?」

 

 それだったらどんなにいいか…。


真之介「そう言うことではなく…」

 

 貧しい家の長女として生まれたお初の下には八人の弟妹がいた。十五歳の時、口減らしも兼ねて農家に嫁ぐ。農家では嫁も労働力であり、慣れない農作業に懸命に取り組むも痩せて小柄なお初には辛いことだった。

 そんなある日、重い物を持ち上げようとして転び、流産してしまう。嫌味を言われつつも、しばらくは針仕事をしていたが、お初の裁縫の腕が良いと知ると、姑は仕立て物の仕事を取って来るようになった。農作業よりは良かったものの、それでも家事と仕立物で休む間もなかった。

 その後、待望の長男が誕生した。その時は、子が生まれた嬉しさよりも安堵の方が大きかったものだ。そんなある日、赤ん坊の側には舅姑がいたが、お初が台所で洗い物を済ませ戻ってみると、赤ん坊一人だった。眠っていると思ったが何か様子がおかしい。息をしてない…。

 それからは我が子を亡くした悲しみよりも、何が何だかわからないままに、大事な跡取りを死なせたと、この時は舅と夫から暴行を受け半死半生で叩き出された。気が付いた時は実家だったが、近くで倒れていたのを近所の人に運ばれたようだ。だが、少し落ち着くと両親は頭を下げて婚家に戻れと言った。

 お初はもう、何があっても戻りたくなかった。


----あの家にいたら、命がいくつあっても足りない。


 お初は、隣家のお辰に口入屋の場所を尋ねた。


お辰 「あのさ、お初ちゃん乳出るよね。それでさ、乳母を探している呉服屋が

   あるとか聞いたんだけど、口入屋で聞いてみなよ。でも、その着物じゃね

   え。私の貸してあげるからさ、うまく行ったら、頼むねっ」

 

 そして、お初は真之介の乳母となった。それはもうこの世の極楽だった。主人夫婦からは感謝され、奉公人たちからも気遣われ、何より死んだわが子が生き返ったようだった。

 だが、しばらくすると舅と夫が嫁を返せと怒鳴り込んできた。乳母として来てもらっていると言えば、乳母の給金を寄こせと居座るが、真之介の父が金を払い、お初は正式に離縁となった。

 しかし、その後は、お初の父親が、それからは弟妹も同じように金の無心にやって来た。それだけではない。隣家のお辰には新しい着物に添えて礼をし、盆暮れの届け物もしているのに、こちらも金を貸せと言ってくる。

 弟妹もお辰も衣食住保証された乳母なら、金など必要ないと言わんばかりの態度だった。

 そんなお初がどうして、家の窮乏故に町人上がりの男の元に嫁いで来る、ふみの事が思いやれないのか…。

 あの日、真之介がふみを説得できなかったと言うより、溺れる者は藁をもつかむ。その必死で藁を掴もうとしているその手をどうして離されようか…。

 こうなったら、受け入れるしかない。真之介もようやく気持ちを固めたのだ。

 その時、お類が声を上げた。


お類 「あっ、ちょっと待って…。何とか、なるかも、ならぬかも…」


 数日後、真之介はお初を連れて実家に行く。お初は婚礼の最終準備の打ち合わせだと思っている。やはり、これまでもこれからも、真之介の側にいるのは継母のお弓ではなく、この自分なのだ。


お初 「これはお嬢様、ご無沙汰いたしております」

お類 「まあ、いつまでもお嬢様なんて言ってくれるのはお初だけよ」

お初 「坊ちゃまはいやな顔をなさいますけど」

真之介「当たり前だ。男がいつまでも子供扱いされては気分が悪いわ」

お初 「ですから、何かの時は旦那様と申してるではないですか」

真之介「うるさい」

お類 「まあ、それはそこまでにして。お初、物は相談なんだけど、お喜代さんの

   ご亭主が今度小料理屋を開くことは知ってるでしょ」

お初 「はい…」


 お喜代と言うのは、お類の夫の腹違いの妹で、芸者の母と暮らしていたが、今は梅花亭の板前と夫婦になり、今度、その板前が独立して店を開くのだ。


お類 「それがさぁ。ここに来て、これもめでたいことなんだけど、困ってんの

   よ…」

 

 何と、お喜代に子が出来たのだ。妊娠が発覚したのは、店の手付けを済ませた頃だった。子供が生まれることはうれしいが、頼りの母も亡く、出産と開店が重なり困っていると言う。


お類 「そこで、相談なんだけど、お初にお喜代さんの世話を頼めないかしら…」

お初 「でも、私は、旦那様の婚礼も近いことですし、どなたか他の方にお頼みし

   ていただけませんか」

お類 「でもね、お初。真之介の婚礼は武家式でやるのだから、私たちが口を挟む

   こともないでしょ。でも、お喜代さんの方は開店と出産が重なって大変なの

   よ。助けてあげてくれない。お喜代さんもお初に来てもらえるのなら、こん

   な心強いことはない、是非引き受けてほしいといってるの。ねえ、どうかし

   ら」

お初 「……」

真之介「私の事だったら、心配はいらぬ。向こうからお目付け役も付いてくる」

 

 そうなのだ。先ずは久とお初を一つ屋根の下に置きたくない。そして、ふみがこちらの暮らしに慣れた頃、久とお初を入れ替えてもいいのだ。一年もすれば、ふみも落ち着くだろう。

 お初は黙って考え込んでいた。


お類 「あぁ、返事は今でなくてもいいのよ。それに、ずっとと言う訳ではなく、

   せめて、お喜代さんが動けるようになるまでの間でいいんだけど」

 

 しばらく思案していたお初だったが、ふいに顔を上げる。


お初 「お世話になります」

お類 「まあ!ありがとう、お初。お喜代さんも喜ぶわぁ」

お初 「いいえ、私からもお願いします」

 

 と、お初は頭を下げる。これには真之介も驚くしかなかった。


お初 「その代わり」

真之介「何だ、何でも言ってみろ」

お初 「その代わり、弟や妹たちには、私が旦那様のところから勝手に暇を取った

   と言うことにして頂きたいのです…」

 

 お初はそれまでに積ったものを吐き出すように言った。


お初 「もう嫌なんです!二十年以上も弟たちから金の無心…。本当に嫌で嫌でたま

   らないのに、つい金を出してしまう私も悪いのですけど、もう止めにしたい

   のです…。いえ、そんなに遠くに行く訳ではないですから、どこかで会わな

   いとも限りません。でも、その時はきっぱり、断ります。そのきっかけにし

   たいんです」

 

 真之介はお初がいくら金をせびられても、弟妹の悪口を言わないのは、親代わりのつもりなのだと思っていたが、心の中では随分と葛藤があったようだ。

 しかし、これが案ずるより産むが易しということだろう。思った以上にその場しのぎにせよ、先ずは解決した。

 お喜代の元に行く日に、お初は涙ぐみながらも、真之介にきちんと挨拶をする。


真之介「お初よ、そう、永遠の別れの様にかしこまることはない。しばしのことでは

   ないか。お喜代が無事子を産み、元気になればいつでも戻って来い」

 

 とは言え、二十年以上もの間、一緒に暮して来た息子同然の真之介と一時的にせよ別れるのだ。万感の思いがよぎるお初だったが、この後、夢にも思わないことが待ち受けていようとは…。

 




 





  

 










 


 












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