第8話

 沙織は外で待っていた母の胸に飛び込んで行った。

「ママぁ、怖かったよぉ、寂しかったよぉ」

 沙織の母は涙ぐみながら、そっと沙織の頭を撫でた。

 沙織は母の横に立っている海野を見て、首を傾げた。

「パパは?」

「パパは今日はお仕事よ。平日だもの」

 海野はハッとなった。

 そう、もう、すでに歴史の一部は改変というか、前に戻っていたのである。

(卑弥呼さまが前の世界に戻り、父親が復活している。まだ沙織ちゃんが過去に飛んだということは覚えているし、沙織ちゃんも覚えているようだ。全部の記憶がなくなったわけではない。歴史も全部元に戻ったわけではない)

「本当にありがとうございました。なんと御礼を申し上げてよいか・・・・・・」

 再び母親は涙を拭った。

「この人、誰?」

 沙織はちょっと身を引いて母親の後ろに隠れるようにして訊いた。

「誰って、あなたをこの世界に戻すために、頑張ってくれた人よ。この人がいなかったら、たぶん、あなたは今のこの世界に戻れなかったわよ」

 沙織は母親の後ろに半分は身を隠して軽く頭を下げた。

「ど、どうも」

「なんです、命の恩人に向かって。もっとちゃんと御礼しなさい」

「あ、ありがとうございます」

 沙織の母親は娘が戻ってきて、別人のように生き生きとし始めた。

 沙織の頭を手で押さえて、グイッと下げさせる。

「本当にありがとうございました。後ほど、主人からも御礼に伺いますので・・・・・・」

「いえ、それには及びません」

 海野は手を顔前で左右に振った。

「地域のため、町役場の職員として、公務員としての職責をまっとうしただけですから」

 公務員がイベントの物品を着服したら横領で、犯罪だろうが、というのはここでは言及しないでおく。

 沙織はどうしても海野の怪しげに輝く瞳に、安心して話をする気になれなかった。

 それは、はち切れんばかりの胸元に視線が注がれていることも関係していた。

(この人、アブナイ人だわ)

 さすが、卑弥呼の血を引く者である。鋭い。

 母には言わなかったが、決心して初夜寸前までゆき、お預けを食らってしまった身でもある。様々な経験をして、度胸も据わってきたようだ。

 だが、運命とは不思議なものである。

 5年後、16歳の年の差をものともせず、ロリコン変態歴史オタクの海野に年貢を納めさせたのは、沙織であった。もちろん結婚の儀は、神式で行われた。

 高校3年時にはロコドル選抜コンテストで見事優勝した。

 ダンスの特訓の成果もあったのだろう。それまでのポッチャリした容姿は影を潜め、前年度のグランプリ娘や女子高生準グランプリ娘も顔負けの、幼女顔なのにメリハリの効いた見事なボディーに生まれ変わっていた。これには海野も目を見張った。

 声はさらに磨きがかかっていた。歌も自信に満ちていて、満場一致のグランプリであった。

 翌年には東京デビュー。

 美声を活かして声優にも挑戦。様々なアニメに登場して、ファンを魅了した。

 武道館でのファースト・コンサートは声優仲間たちが応援に駆けつけ、かつてない盛り上がりをみせた。

 そして人気絶頂での結婚。

 相手は、あの、海野である。誰もが驚いた。

 実は沙織が東京デビューする際に、海野はマネージャーとして、公務員の職を放り出して、ついて行っていたのである。

 さらに数ヶ月後には同棲していたことは、知る人ぞ知る、であった。

 よく、あの沙織の両親が許したものである。

 一般的には海野が沙織を手込めにしたと言われていたが、事実は違っていた。

 なんと沙織の方から海野に迫ったのである。もちろん、あの、巫女装束で。

 さすがにもうその頃には、あの衣装では胸元がかなり露出してしまうくらいだったし、『古式に乗っ取った正式な巫女の衣装』で迫ったとのことであるからして、ロリコンを自認する海野ではあったが、彼の自制心をなくさせるには十分だったに違いない。これはもう、同情するしかない。

 いや、海野としては本望だったであろう。結婚の儀でのにやけた海野の表情を見れば、至福この上ない表情であった。

 沙織にしても、自分のことを最もよく理解していて、いざとなったら助けの手を伸ばしてくれる(かもしれない)海野と結ばれるのは、数多い選択肢の中でも、合格点をあげてもよい選択だったと言っていいだろう。

 かくして歴史は元の鞘に収まり、いつの間にか沙織には過去の記憶が上書きされ、後の卑弥呼である息長姫と出逢った海野の記憶も消滅。沙織が息長姫の血と魂を受け継ぐ者であるということを識る者はいなくなった。少なくとも表面的には。

 しかし海野の宝物用アタッシュケースの中には、息長姫が着用したスク水やワンピースに加えて巫女の衣装も大切に保管されていたし、そのワンピースを着た中学生くらいの娘とのツーショット写真も100年印画紙とともに、CDに焼いてデジタルデータとしても保存されていたが、海野はその写真を見ても、少女が誰だったのか、思い出せなかった。

 だが、血と魂は時を経て引き継がれていく。

 本人たちの記憶からは消滅したと思われていても、ひょんなところから芽吹いて新たな特異点を築き、再び地の龍を目覚めさせて時空を動かしてしまうことだってあるのである。


 海野と沙織の間に生まれた娘が、あの巫女装束やスク水を着て歴史の舞台に登場するのは、まだだいぶ後の話である。

                                (おわり)

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卑弥呼奇譚 楠 薫 @kkusunoki

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