希望が鎖す、夜の別称:38



 ぷわぷわわ、とあくびをして、ソキはくしくしと目を擦った。朝の早い時間ではないが、談話室は静かである。さわさわと肌に触れて行くばかりの静けさは『お屋敷』めいていて、かえってソキの眠気を誘うものだった。つつん、とくちびるを尖らせながら訴える。

「ねぇ、む、い、でぇー……すぅー……」

「私も……」

「ソキ、リトリア、気持ちはよく分かるがな……もうすこし、頑張れ。終わったらとりあえず、昼寝でも夜まで寝てても、起きたら朝になってても文句は言わせないようにしておいてやるから。終わらせような。これが終わらないことには、他の魔術師にも影響あるからな……!」

 根気強く言い聞かせてくる寮長の言葉に、ソキはくちびるをとがらせながらも、はぁいといいこに返事をした。ロゼアがそっと髪を撫でてくる。はうぅ、と蕩けた声で甘えれば、ロゼアはふっと息を緩めるように笑い。寮長は苦虫を噛み潰した顔になって首を横に振る。

「寝かせるなよ、ロゼア。寝かせるなよ……!」

「……はい」

「ロゼア、落ち着こうね。寮長は俺が後で、ロリエス先生にあることないこと言いつけておくから!」

 せめてあることだけにしとけよ怒られるのお前だぞ、と残念なものを見る視線を向けられて、ナリアンは笑顔で寮長を無視してのけた。もう、ナリちゃんったら反抗期なんだから、とその肩に座ったニーアが微笑ましく肩を震わせる。それぞれにいいなぁ、という視線を向けて、リトリアは帰りに星降に寄ろうと呟いた。ストルとツフィアの顔を見る為である。

 魔術師たちの間をすり抜けるように飛び、眠そうなソキの頬を突きに来た妖精が、室内の様子にアンタたちねぇ、と腕組みをする。

『気が抜け過ぎなんじゃない? いくら、昨日の今日と言ったって……あら一昨日だったかしら……? ……ともかく! まだ終わってないんですからね! さっさと報告書の提出に協力なさい! 特にソキ!』

「あっ、りぼんちゃんですぅううっ!」

 とろとろのふわふわの、きゃっきゃはしゃぎきった声だった。室内全員の微笑ましさと脱力を引き出した予知魔術師は、ロゼアの膝に座ったまま、ちたちたきゃっきゃと妖精に両手を伸ばして首を傾げる。

「リボンちゃんったらぁ、どこに行ってたの? ソキの傍から離れるだなんてぇ、いけないです!」

『こ、この甘えんぼ……! ロゼアがいるでしょう、ロゼアがっ!』

「ロゼアちゃんはロゼアちゃ、リボンちゃんはリボンちゃんですぅっ!」

 どやあぁあ、と渾身の自慢顔をされる意味が分からない。くらくらしながら額に手を押し当て、妖精はソキの肩に着地すると、もにもにと頬を弄んだ。や、やゃん、やんやっ、と声をあげられるのに息を吐きながら、見回りをしてたのよ、と妖精は囁く。『学園』に戻って、二日目の朝。昨日の早朝に機能を取り戻した『扉』は安定状態のまま、魔術師を飲み込んだり吐き出したりしている。

 昨日こそひっきりなしに行われていた出入りは多少落ち着き、どの国もどの場所でも、今日は聞き取り調査が行われることになっていた。不通であった数日間に、なにをしていたか。なにを感じていたか。あの日、どういう術式を発動したのか。それはなんの為か。どういう結果を導いたのか。可能であれば魔術式は正確に筆記し、後世に残しておく必要がある。

 その中でも特に重要とされているのが、予知魔術師のこと、その魔術だった。予知魔術師の魔術だけは、創意工夫で再現することが叶わないものだ。まず『扉』をどう繋げたか改めて、と言いかけて説明という言葉の意味から聞かせないといけないのかもしかして、という顔をする寮長に、ロゼアが無言でソキのスケッチブックを差し出した。

「どうぞ。ソキ、全部描けたんだよな?」

「そうなんですぅ、ソキね、けんめー! に! がんばたです! えへへん!」

 連れ去られる前に妖精が口うるさく指導して八割方完成していたそれを、ソキは昨日、ねむいのをくしくし頑張りながら完成させておいたのだった。『扉』をどう繋げて移動したのか。リトリアと一緒に改善した、しゃべる手紙のこと。言葉魔術師にかけられた術。彼からロゼアを守る為に成したこと。魔術師たちを拘束し、同時に守護をかけた術まで、全て。

 ソキはうつくしい魔法陣、魔法円にして紙面に描いてみせた。そこから構成式を解き明かして行くのは、錬金術師と占星術師に任せられる領域である。寮長はスケッチブックをパラパラとめくり、ぞっとしたように口元をひきつらせて、よくやった、と言った。

「お前ほんとに……ほんとに……。いいか普段はできないふりしておけよ……? 戦時中じゃないことを幸いに思えよ……?」

「はーぁーいー!」

「また適当に返事しやがって……。悪いが、頼んだぞ」

 寮長からの言葉に、妖精は心得た顔をして深く頷いた。ソキの成したことは、とても入学して二年目のたまごの所業ではない。魔術師でも研鑽の末、ようやく辿りつけるかも分からない、という領域である。リトリアにしても同じことで、『扉』の代わり、幾度も魔力を補充し往復してみせたその術は、よくぞ水器が耐えきったと、そのことだけでも称賛に値するような強行である。

 無理ばかりしやがって、と息を吐き、いや、と寮長は頭を振った。

「無理をさせたな、ふたりとも。……ゆっくり休めよ」

「これで終わりですか?」

「そうだな……。ソキ、リトリア。ロゼアとナリアンもだ。体調、魔力に変調はないか?」

 ロゼアちゃんから離れられないです、と真面目で真剣な顔をしたソキの申告は、ロゼア以外の全員から黙殺された。眠たいの、と堪えきれずにあくびをしたのはリトリア。疲れは残っていますが、と控えめに告げたのはロゼアで、ナリアンも頷きで親友に同意する。疲労が残り、けれども魔力に関しては変調がない。それが、集まった魔術師に共通する意見だった。

 まぁそうだろうな、と苦笑して、寮長はようやく、談話室にぐるりと視線を巡らせる。朝の談話室の、人影はまばらである。食堂に行っている数を考えても、普段の半分もいなかった。それでいて、話し声もしない。誰も彼もが椅子や、ソファに身を預け、口を半開きにしてぐったりとしている。数日の騒動は、それくらいのものだった。

 寮はまだ半数以上が、疲れ果てたが故の、深い眠りに落ちている。昼前、昼過ぎにようやく、動き出していくだろう。平常に戻るには、まだまだ時間がかかるだろう。しかし、もう、時間をかければ戻るのだ。ほっとした、涙の滲むような安堵が『学園』のそこかしこに落ちて、ひそひそとささやき合っているような気配があった。

 よかったね、よかったね、おつかれさま、がんばったね。祝福のような意思に満たされて、魔術師たちはゆりかごの中にいる。

「なにかあったらすぐに言え。これ以上は言葉魔術師の影響は出ない、と白魔術師、錬金術師が残らず断言したからこそ、変調は純粋に自分の体調不良だ。見逃すなよ。我慢するなよ」

「……りょうちょ? もう、げんきになったぁ?」

 じぃいーっ、と純度の高い疑いの目で見つめられて、寮長はささっと独創的な体勢を取った。

「よく見ろよ……今日も俺は輝いてる……世界が! 俺に! 輝き! 『学園』を照らせと告げているからな!」

「この人には薬が必要だと思う。心の」

 ソキ、直視しちゃだめだ、と目を手で覆うロゼアの隣で、ナリアンが心から言い放つ。ふっと笑って、すすすっと無駄のない無駄な滑らかさで立ち直した寮長は、やだやだ関わりたくないという顔をしたナリアンの頭を、ぽん、と手で撫でる。

「そんなこと言う元気かあるなら安心だな」

「あ、やめてください。触らないでください」

「はいはい。じゃあな、ナリアン。メーシャの分まで、ロゼアとソキを頼んだぞ。リトリア、あまり寄り道せずに帰れよ?」

 よし解散、と言い放って、寮長はソキのスケッチブックを片手に談話室を出て言ってしまった。ちたんちたんと暴れながら、ソキは目隠しを取ってくれたロゼアに、ふくれつらをして言いつける。

「ソキにはおみとおしです! りょうちょったら、おねつさん!」

「ど、どの口で体調不良は申告しろだの、無理するなだの言ったんだあのひと……!」

「ナリアンさん。これこそ、ロリエスさんに言いつけて良いことだと思うの! お願いするね……!」

 リトリアが行っても、うまく交わされてしまうだけである。寮長はリトリアが手玉に取って転がしにくい相手なので。ソキも悔しそうにうにゅうううっ、と呻き、きゅっ、と睨みつけるようにナリアンに向き直った。

「ソキもお願いしちゃうです! ナリアンくん、りょうちょをこらしめるです! ロリ先生を呼んできたり、ロリ先生にいーつけてくださいですううう!」

「任せて……!」

 これは自身の敗北ではない、適材適所かつ相手の弱点をつくだけである、と己に言い聞かせてナリアンは拳を握った。そうしながらもロゼアに心配そうな目を向けたのは、ナリアンの親友が、どうも元気がないからである。ラティの様子を見に、早朝から砂漠へ駆け出していったメーシャも、ロゼアをよろしくね、とナリアンに言い残していた。

 ロゼア、と呼ぶ声に、ん、と答える声は柔らかい。

「どうしたんだよ、ナリアン。……行かなくていいのか?」

「行くよ。……行くけど」

 現在、特例として、『学園』の生徒も自由な『扉』の使用が許可されている。全く無秩序と言うわけでもなく、『扉』の横には机と筆記用具が置かれ、そこに名前と目的地、出発時間を書いて使用する。到着したらそこでも同じものを書き、帰りにも記入するのが決まりごとだった。だからナリアンはいつでも、自由にロリエスに会いに行ける。メーシャが、ラティにそうしたように。

 けれど。足を止めるのは、ロゼアがあまりに元気がないように見えるからだった。朝からずっとソキを抱いたまま、膝から降ろさないでいる。ごろごろふにゃふにゃロゼアに懐いていたソキが、顔を曇らせるリトリアとナリアンに、ふんすっと鼻をならしてふんぞり返った。

「リトリアちゃ? ナリアンく? ロゼアちゃんはぁ、ソキがくっついてるんでぇ、安心してくれて、いいんでぇ」

『……ねえ、ソキ。ソキが連れ去られたり、あんな方法で動きを止めたりしたから、心痛が募って弱ってるのよ? コイツ。そこは分かってるんでしょうね?』

「……んん?」

 あ、だめだ今ひとつ理解していない、とリトリアにも分かる返事だった。ソキはぎゅっと抱きしめてくるロゼアにぴっとりくっついて甘えながら、はふぅにゃあぁん、と甘えた声を出して、肩に頬をくしくし擦りつけながら主張する。

「もうソキはぁ、ロゼアちゃんのお傍を離れないもん。ずうっと一緒にいるんだもん!」

「ソキ……ソキ、そうだな。一緒にいような」

 腕を回して深く抱き込みながら告げるロゼアは、なるほど弱っている。体調も魔力も安定しているとは思うんですがと眉を寄せたシディも、まあ心痛でしょうね、と妖精の物言いに同意した。同胞の見立てに払う気の余裕もなく、ちたちたはうはうきゃあんきゃあんっ、とはしゃぐのに忙しいソキは、我が意を得たり、とばかりの顔でつまりぃ、と言った。

「今日こそ! 一緒に! おっ、おふよにっ……!」

『許される訳ないだろうがっ! なんでそうなの! いつもいつも、あぁあああもうーっ!』

「いやんいゃああぁんっ! 『学園』でだめなら、ソキはおふよにはいりにおうちにかえるううう!」

 それでおつかれでげんきのないロゼアちゃんをおっ、おしたおして、ソキはきせいじじつをつくるですううううっ、と絶叫が、談話室にほわほわふわんと流れて行く。さすがに口元を手で押さえて咳き込み、ナリアンはそっとロゼアを伺った。ロゼアは変わらず、どこかぼんやりとしている。顔色は悪くないが、よいとも言えず、表情もどこか空ろさを感じさせた。

 鼻息荒く興奮するソキを抱き寄せて宥めながら、ロゼアは、んー、と半分くらいしか聞いていなかった声で、溜息のように言葉を漏らした。

「押し倒したいなら、してもいいよ……」

「待ってロゼア。ねえ待ってロゼアっ? 自分がなに言ってるか分かってあぁあああああソキちゃん駄目だよっ! 談話室! ここ談話室だから! お願いだから服を脱ごうとしないで止めてロゼアっ、ロゼアーっ! お願いだから正気に返ってソキちゃん落ち着いてええぇええっ!」

「そ、そうよソキちゃん! ふたりきり! せめてふたりきりになってからじゃなきゃ!」

 顔を真っ赤にして止めるリトリアとナリアンにソキを任せ、妖精は深く息を吐きながら飛びあがった。まあ、ロゼアの心痛なんぞ、一日二日、ソキをくっつけておけば回復するだろう、と思う。ロゼアであるのだし。問題はその間のソキを、どう制御しておくかである。幸か不幸か、ひとりでは着脱しにくい服であったらしく、ソキはなにやら絡まって、もちゃもちゃやんやん暴れている。

 ああぁ、ああああっ、とナリアンもリトリアも、どうしていいか分からず悲鳴じみた声でオロオロとするのを、見下ろして。妖精は粛々と諦めきった顔で耳を手で塞いだシディを後目に、肺いっぱいに、全力で、息を吸い込んだ。妖精の罵声が、寮の隅々にまで響き渡って行く。終結から、二日目。『学園』の朝の光景である。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る