希望が鎖す、夜の別称:37
終わりました、とジェイドが言ったのは、ラティが昏睡した翌日の夕方のことだった。太陽が地平線に沈みかけるのを眺めながら、砂漠の筆頭は吐息に乗せて、独り言のように王に報告した。王は、そうか、とだけ答えた。疲れ切っているのはお互い様で、これからまだ疲れる日々であることが分かっていたから、終わった気などしないのだが。終焉したのは確かなことだった。
二人の視線の先で、砂漠の金の地平線がうるわしく夜に飲み込まれようとしている。これから間もなく夜が訪れる。数日ぶりの、それでいて永遠を乗り越えた後のような、安堵に満ちた夜が。明日を思い描けず、悪くならないことだけを祈りながら、不安ばかりが降り積もる眠りは昨日で終わり。今日と言う日はもう、穏やかだった。ぼぅっとしながら、王もジェイドも息を吐く。
先程まではまだ慌ただしく魔術師たちが行き交っていたものだが、それでは撤収しますっ、との宣言が王に捧げられて十分もした頃には、その気配は跡形もなく消え去っていた。『扉』は、瞬く間に復旧された。エノーラが眠らず作業して今日の朝に間に合わせ、『学園』からも五カ国からも救援を呼び込んだのだ。道さえ繋がってしまえば、あとは早かった。
やきもきしていた花舞の白魔術たちが我先に砂漠になだれ込み、うるさく騒がしくはしゃぎあいながら、大丈夫大丈夫と繰り返して笑顔を咲かせていった。大丈夫、もう大丈夫だからね、よく頑張ってくれたね、よく保たせてくれたね。あとは任せて、なんとかしてあげるから。花舞の魔術師たちは口々にそう言って、『扉』と砂漠を走りながら幾度か往復し、状態別にてきぱきと搬送先を決め、あるいは治療を重ねて同胞たちを目覚めさせて行った。
ロリエスをささっと回収し、『学園』からさりげなくフィオーレを連れ去って行く動きはどさくさに紛れての一言だったが、魔術師たちも王たちも、それをあえて黙認した。花舞の、ひいては世界の平和の為である。フィオーレもそのうち返却されるだろうし、戻ってこなければ改めて書状でもひとつ、書けばいい。
ソキとロゼア、ナリアン、メーシャはすみやかに『学園』に戻された。レディは星降に、リトリアは『学園』に寄ってから楽音へ。動ける者は元の場所へ、動けない者、動かせない者たちは意識の回復と治療の成果を待って。それぞれ、戻っていく。散らばったパズルが、正しくはめ直されるように。整理整頓されるように、砂漠から人がいなくなっていく。
過密だったな、と王は呟く。そうですね、と筆頭は微笑して答えた。一日。たったの一日で、とりあえずは元通りに整えられていく慌ただしさを、うまく受け止められないでいる。人々の目覚めは明日になるという。早いものは朝に、遅くとも夕方には、誰も彼もが意識を取り戻すでしょう、と白魔術たちは言った。その頃にまた見に来る、と言っていたので、物寂しいような静寂は今だけのものだった。
執務室でぼんやりと、王は机に肘をついて外を眺めている。普段なら口うるさい筆頭は、ちら、と見ただけで特別咎めて来なかった。昨日、魔術師たちが事態収束の宣言をしにハレムに走り込んできてから、そういえばアイシェにも会ってない、と王は息を吐く。夜には眠りに戻ったが、アイシェは張り詰めていた糸が切れたようで目を覚さず、早朝もまだ眠っていた。
無礼を王が許したのは、単純にアイシェの寝顔が珍しかったからだ。ソキをいつまでも寝かしたがる、ロゼアの気持ちもすこし理解できた。今日は起きて待っているだろう。先に、謝るなと言わなければ、と王は息を吐き出した。アイシェはそういう事を特に気にするから、先手を打たなければいつまでも謝りかねない。
ああ、あと、と。とりとめもない思考をぼんやりと動かす王に、ジェイドが視線を向ける。砂漠の筆頭は、それを告げるべきかさえ迷った顔で。しばらく沈黙し、それから、陛下、と静かに声を響かせた。
「ラティは……ラティが目を覚ます可能性は、低いそうです」
「理由は?」
王の。報告を受け止めなければいけない、という意識が、思考より早く言葉を零れさせた。声の後に視線を向けてくる王に、ジェイドは瞬きをしながら告げる。眼差しは、室内に柔らかく忍び寄る、夜の影を見つめていた。
「過度の集中による魔術の使いすぎ。それによる、水器の損失。……砕けてはいないそうですが、もう一度の発動は出来ないだろう、というのがエノーラの見立てです。魔術を使えば砕けるだろう、と。……よく、まだ、原型を留めていると」
「……昏睡はそのせいか? 魔術の……使いすぎと、器の状態の?」
なんとも言い難い顔をする王に、気持ちは分かります、とジェイドは苦笑いをした。ラティが使った魔術は一種類、ひとつだけ。一回だけ。それでなぜ、と言いたいのだろう。現場に立ち合った当事者として、ジェイドは普段のものではなかったんですよ、と言った。
「いつもの、ただ気持ちよく眠らせて素敵な夢を見せるものではなかったんです。あれは……」
「報告書は、ざっと目を通したが……違いはなんだ? 発動時間か?」
一晩眠らせるのとは訳が違う、と蒼白になったエノーラが、『扉』の調整をしながら書き上げた報告書である。分析に一刻を争うと見たのだろう。それは正しい判断だった。そうでなければ決して、メーシャは『学園』に戻らなかっただろう。いつ目覚めるか分からないから、帰りなさい、と強く咎められなければ。今日とも明日とも分からぬ希望に、縋っただろう。
目覚めるとしたら、今日ではなく、明日でもなく。一月、二月、後とも分からず。目覚めさせる術はない。魔術そのものに、ラティの器が耐えきれない。回復だろうと祝福だろうと、器が砕け。そして、最悪、二人とも目を覚ますだろう。俺はアイツにそこまでしろとは言わなかったぞ、と額に手を押し当てて王は呻いた。言っても仕方がないことだ。もう結果は出てしまっていた。
発動時間も、内容も、とジェイドは噛みしめるように告げた。
「違いすぎるものです。彼女は、シークの……願いを、たったひとつだけの希望を、夢だと断言して、それを己の術式に組み込んだ。夢を贈る、と、そう言って。でもそれは……」
占星術師の領域ではないのだ。予知魔術師の後押しがなければ叶わなかっただろう。倒れたラティを見てぽかんとしていたソキは、己の内側からごそっと消えた魔力に、理解をしないまま悲鳴をあげた。ロゼアがいてくれてよかった、とジェイドは思う。あの状態の『花嫁』を落ち着かせられるのは、『傍付き』だけであるからだ。
辛いことをさせてしまったな、と誰にも思う。平穏な終わりとは、とても呼ぶことができなかった。
「ラティのことは、エノーラと……キムル、フィオーレに任せて良いでしょう。起こしても大丈夫なのか、そもそも起こせるものなのか、方法からなにから全て検証するとエノーラが息巻いていましたから」
「……エノーラもすこし休ませないといけないな、頼りきりだろ?」
「はい。そのあたりの匙加減は、白雪の女王陛下がなさるものかと」
アイツはアイツで落ち着きを取り戻したんだろうな、とあまり期待していない声で、王はうんざりと天を仰ぐ。くすくすと肩を震わせて、エノーラが戻りましたから多少は、と砂漠の筆頭は囁いた。どの王にも、傍らになくては均衡を欠く魔術師、というのは存在する。楽音にはリトリアが戻りましたし、魔術師たちもひとまずは落ち着きましたから星降も平気でしょう、と囁くジェイドに、砂漠の王はうつろな目で、いやそのことなんだがな、と言った。
「お前には先に言っておくが、ラティが目を覚ます、あるいはその目処がつくまでは、俺はなにをしてでもアイツに会わないからな……扉の前まで来てても締め出せよ、ジェイド。王命だからな!」
「……まあ、そう仰るなら、そういたしますが……理由はなにか?」
「……ラティは砂漠の王宮魔術師で、俺の魔術師だ。ここまではいいな?」
はぁ、とジェイドは気のない返事で王を見つめる。お疲れだからな、と思われているのを承知の上で、王は真剣な顔で己の筆頭魔術師に重々しく言った。
「ラティは、貸されてるんだよ……」
「……お話からすると、星降の陛下からお借りしている、というように聞こえますが?」
「そう言ってる」
俺が眠れないから、それで砂漠に配属されたっていうのは間違いないし、その通りなんだが、と王は息を吐きながらラティだけだ、と言った。
「星降のが、じゃあ俺のラティだけど貸してあげるから、終わったら返してね、なんて言って書類整えたのは……」
「……ちなみに、他の方の場合などはなんと?」
「アイツ分かりやすいんだよ、フィオーレの時は花舞のに刺されないようにしなね、って言ったし、シークの時は……アイツの時は、あー……としか言わなかった」
分かりやすいのは確かな反応だが、手がかりにはならない。首を傾げるジェイドに、ともかく、と王は声をあげてもう一度命じた。
「万一来ても締め出せよ。そのことがなくとも……ラティは、星降の、お気に入りだ」
「……本人は知っていましたっけ? それ」
「ラティ本人は、前職の関係で面識があるから気にかけてもらってる、くらいの認識なんじゃねぇの……?」
それくらいのことだったら、どんなに楽だったか、と遠くを見る王のまなざしが語っていた。なんだか面倒くさくて複雑な事情に巻き込まれそうな気がしたので、ジェイドは笑顔で、ではその通りに、と言って話題を打ち切ってしまう。これ以上のややこしさは、積極的に避けていきたい。
砂漠の王はため息をついて、いいか俺は会わないからな絶対だからなやだからなっ、とだだっこの声で言い放ち、筆頭の微笑ましさいっぱいの頷きを引き出した。
「さあ、陛下。そろそろお休みになられては? お部屋の前までお送りします」
「……分かった、もう行く。けど、その前に」
ジェイド、と砂漠の王は静かな声で育て親の名を呼んだ。
「……なにか言いたいことがあるなら、今が最後だぞ。明日からまた、騒がしくなる」
廊下で歩きながらは落ち着いて話せないだろ、と促されて。ジェイドは泣きそうな笑みで、彼のことを、と言った。
「話していいんですか? ……じんましん出ますよ、陛下。こんなことで体調を崩されても困ります」
「じゃあ、俺が聞いてやる。質問に答えろ、ジェイド。……シークの、容態は」
避けて、避けて、ついに向こうから捕まえに来た話題に、ジェイドはしばらくこたえなかった。感情を落ち着かせるのに苦心しているようだった。椅子に悠然と座りながら待つ砂漠の王に、ぽつ、と水滴のような言葉が向けられる。
「ラティの魔術が消えない限り、目覚めることはない、と。……恐らくは、寿命を全うして死ぬだろうと」
「飲まず食わずで?」
「多少の衰弱はあるでしょうが、占星術師の夢見の術式は、本来は睡眠保護です。……心地よい、眠りの状態を保つ術、ですよ。陛下。一晩の眠りが、永遠に……いえ、その命の終わりまでを一晩と定義づけて、この先ずっと続くだろう、と。錬金術師たちの見立てです。ですから……彼の命の終わりまで、彼に流れる時間は一晩。鎖された夜が、もう、明けることはありません……」
そうか、と砂漠の王は息を吐く。それは、命を奪ってはならないという制約のある言葉魔術師に対しては、最適解の状態だった。成した術者本人の状態を考えなければ。それを。ジェイドが、くるしく思っていることを、考えなければ。ジェイド、と王は筆頭の名を呼ぶ。
「シークの目的を知っていたお前が、俺にも黙っていたことはこの際だから不問とする。……お前ほんっとそういう所あるからな……抱え込むというか、諦めずにそこで相談しておけよというか……お前の悪いとこだぞ、ジェイド」
「……はい」
「だから、なにがそんなに悲しいのか、言わないと分かってやれないだろ」
お前らそんな仲良かったか、と訝しむ砂漠の王に、ジェイドはそうですね、と吐息に乗せて囁いた。
「陛下、俺はね。……俺は、本当に、彼にも『花嫁』がいればいいと……いてくれたらよかったと……思って」
「……縁談組んだのお前だもんな」
「はい。……誰かに、頼って、願う、んじゃ、なくて。……俺が」
ここで、幸せになってよかったのだと。幸せになって欲しかったのだと。もっと、言葉にもして、伝えていたら。もしかして。もしかしたら。息が詰まるように告げていくジェイドに手を伸ばし、砂漠の王は養い親の顔に、手を拭う布を押しあてた。
「外では言うなよ。……アイツのしたことは、許されることじゃない」
「……分かっています」
「あとは?」
まだなにかあるだろ、言っておけよ、と促す主君に、笑って。ジェイドは夢を見たことがあります、と言った。なぜかリトリアが砂漠の王宮魔術師をしていて、俺もいてシークもいて、陛下もいて。シークが皆と打ち解けていて、それで。何処かから帰ってきたシークにおかえり、と言うと、すこしだけ驚いた顔をして。とろけるように笑って、ただいま、と、言う。そんな夢でした。
告げるジェイドに、そうか、と王は息を吐き。帰りたかったって言ってたもんな、と呟いた。ずっとそうだったんだな。
「……そうか。助けてやれなかったんだな……」
その、郷愁のせつなさ。どんなに苦しかったことだろう。いまは、もう、苦しくないといいな、と王は言った。己の魔術師に。はい、とジェイドは静かに囁く。ラティの魔術ですから。そうか、と王は呟いた。それきり、言葉もなく。日が落ちるのに合わせて部屋を出た王に寄り添い、ジェイドはゆっくりと、歩き出した。
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