あなたが赤い糸:95



 日々国中を飛び回っているとはいえ、城に常駐する魔術師がいないわけではない。そうであるから、新王と廊下を歩けばすぐに発見されたジェイドは、えっ嘘ほんとだジェイドだわーいうちの筆頭が帰ってきたーっ、シークよかったねお兄ちゃん帰ってきたよ、誰が誰のなんだって、という騒がしい声と人々に、遠慮なくわらわらと取り囲まれた。

「わー、すごーい。ジェイドが城にいるー……えっ違和感がある……どうしたのジェイドおうちが恋しくなったの……? そうだよね……」

「勝手に誤解して勝手にしんみりするのやめてもらっていいですか」

「陛下。ジェイド、どうしたんですか? 最近は家に帰ってないみたいだし……」

 本人を目の前にして陛下に聞くのやめてもらっていいですか、とげんなりした声で求めるも、魔術師たちは笑顔でそれを聞き流した。視線は親しく恭しく新たなる主君に向けられていて、それなのにどこか、解けない緊張が見て取れた。魔術師の視線が新王を観察している。肌の色艶、瞳の充血、目の下の隈の有無、指先まで温かな血が通っているかどうか。呼吸の乱れ、些細な仕草。不調を隠されていないか。本当に両の足で立つ好調さが、そこに留まっているのかどうか。

 それは『花嫁』につけられたばかりの、新任の世話役たちの視線と必死さを思わせた。ジェイドは思わず眉を寄せて新王の横顔を見つめる。魔術師たちの視線を平然と受け流しているただ中であるのに、新王はジェイドの視線だけを選んで見つめ返し、素知らぬ顔でなにか、と微笑んでさえみせた。

 なにを不安に思われているか知っていて、言葉にされないのをいいことに、受け止めないでいる態度が気に入らない。反射的に声を荒げてなにかを言いかけたジェイドの腕を、無言で強く引く魔術師がいた。シークだった。ひさしぶり、と告げる言葉は、強い意志を宿した勿忘草の瞳に葬られる。すぅ、とシークが息を吸い込んだ。

 それは、喉を震わせ声を発するのが久しぶりなのだとするような。どこか準備運動めいた、覚悟のこもった、ぎこちない呼吸だった。

「……陛下の体調は、悪くない?」

「そのように見える、けど……陛下、ちょっと」

「主君を指先で呼びつけるなど、あなただけですよ? 不敬者」

 陽に溶ける蜜のような甘やかした声で囁いておいて、なにが不敬だとするものか。はいはいそうですね、申し訳ありません、と雑に謝罪を響かせて、ジェイドは触れますよ、と言って王に手を伸ばした。頬に手をあて、首筋に滑らせて脈と熱を測る。耳の後ろ、額と順番に手を押し当てて行くのは『傍付き』のやり方だ。誰かに、そういう風に、ほんとうにひさしぶりに触れた。

 おぼろげな不安と、慈しみ、祈るような気持ちで手と指が相手の輪郭を捉える。ああ、とジェイドは思わず息を吐き出した。この存在を喪えない。

「……今の所は特に、不調を隠されているようには。不在の間に、倒れでもしましたか?」

「倒れてはいないよ。先程言ったように、まあ色々事件が起こって……過敏になっているだけ、だと、私は思っています。そうだね?」

「はいと頷けるね、みたいな顔で圧をかけないでください。……ああ、もう、分かりました。あとで皆に聞きますからね!」

 新王たるその人が、己の心身に価値を見出していないことを知っていた。今や一国の王であるから、相応のものである、という意識はあるだろう。大事にしなくては、と思ってはいるだろう。けれども己の意思を前にして心身の傷と痛みを振り捨てて走って行ってしまう人であることを、魔術師たちも、ジェイドも、シークも、見知って知っていた。

 やっぱり不在がちでもうちの筆頭頼りになる、そのまま陛下に手綱つけてなんやかんやして欲しいよろしくお願いします、という魔術師たちの視線に、深く溜息を付きながら。ジェイドは腕に指をひっかけたまま傍らで離れないでいるシークに、言葉にならない気持ちで視線を向けた。訝しむ、とも、不思議がる、とも、違う。諦念に似ていた。

 そこに、完成してしまった傷があった。『宝石』たちが、『傍付き』が、相応しい形に削られ磨かれ整えられていくように。傷跡が晒されたまま。時を止めて完成してしまった姿が、そこにはあった。なにがあったの、という問いは喉の奥で静かな笑い声になる。なにもかもがあった。感情が擦り切れ心が裂かれる、なにもかもがあった。見て来た。ジェイドも。シークも。

 二年、離れていた。その間もずっと、ジェイドの傍にはシュニーがいて。シークの傍には、いなかった。魔術師に取って王は得るものだ。同僚は仲間で、分かち合う者で、そうであるから寄り添うには至らない。やさしく触れて、冷えたものを温めるなにものをも、持たないままで。傷を癒すことも、痛みを隠すこともできないまま。シークは完成してしまった。

 ひび割れた悲鳴が木霊したままの瞳に、ふ、と笑みのようなものがよぎる。なに、ジェイド。言葉を、告げようとして。言葉が、届くだろうか、と思う。まだ届くだろうか。これからでも、響くだろうか。伝わるだろうか。大切に思っていることが。ジェイドはそっと手を伸ばして、ひえたシークの手に触れて、繋ぎとめた。

「資料保管庫に、記録の閲覧に行くから。おいで、シーク」

「記録。なんの?」

「……寵妃さまの」

 繋いだ手は震えなかった。言葉もない。シークはゆっくりと息を吸い込んで、同じように吐き出した。苦労するように。シーク、と魔術師の名を新王が呼ぶ。ひょい、と顔を覗き込むようにして、青年は言った。

「いいですよ、来なくても。一時間もしないでしょうから、どこかで……執務室か、保管庫の前ででも、待っていなさい」

 引きつった呼吸の音がほとりと落ちる。それが王に向ける声にならない返答であったとジェイドが気が付いたのは、青年が困ったようにジェイドに視線をやり、姿勢を正してゆったりと歩き出してからだった。と、と身軽な足音をひとつ響かせて、シークが王の後を追う。手を引っ張られて、突き飛ばされるように、ジェイドはふたりの後に続いた。

 資料保管庫は、人々が眠りにつくような気配に包まれている。ささやかなざわめきがどこか遠くに置かれ、手元は火の揺れる灯篭で照らし出されるのみだった。劣化を嫌い、窓は常に封じられているから空気が澱んでいる。光も、風も、別の場所に置き去りにされている。あいまいに切り取られた時間だけが、紙と文字に封じられて人の手に渡る時を待ち望んでいた。

 迷うことなく書棚から冊子を引き出し、王はジェイドにそれを受け渡した。筆記したのはシークである、と青年は言った。そしてその際、魔術が零れ落ち染み付いてしまったのだ、と。魔力を持たぬ者が読めばそれはだだの文字列。けれども魔術師が持てばその瞬間、言葉は意思あるものとして響き、記された光景を追体験させる。

 そういう性質を持つ魔術書なのだと告げられて、ジェイドはそうですかと呟いた。そういう本が存在していることを、魔術師は誰もが知っている。意思ある本。感情の染みた言葉たち。それは大戦争を生きた言葉魔術師たちが、後世に残した遺産のひとつ。通常は複製品が、『学園』で教科書として使われている。生きた歴史の語り手として。

 驚きませんね、とつまらなさそうに言う青年に、魔術師は誰だって驚きませんでしたでしょうと吐息して、ジェイドは暗がりの椅子を引いて腰を下ろした。そうであるなら、この報告書を読むのに光はいらない。暗闇の中でも言葉は蘇る。追体験から戻るまでに、平均して一時間。シークと一緒に待っています、と告げる王は机を挟んで、ジェイドの正面に腰を下ろしている。

 シークは、ジェイドの傍らに。そう思うほど近くに椅子を寄せて、隣に座して俯いている。火の粉の爆ぜる音が灯篭の中から籠って響く。揺れる火の影に照らし出されることもなく。シークは薄闇の中に身を浸していて、動かなかった。はやく、と焦燥に似た気持ちで本を開く。早くその暗闇から手を引いていかなくては。

 紙面に目を落とす。誰かが後ろから目隠しをしたように、意識が塞がれる。言葉が。耳元で囁き示す。瞬きのように明滅する。くすくすと、摩耗した感情で誰かが笑っている。物語をはじめるあどけない声で、意思が告げる。物語であれと願うように。




 むかしむかしあるところに。

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