あなたが赤い糸:87
休憩が終わったらジェイドは筆頭と一緒、シークは俺と一緒に来てね、と引き剥がされて半日。ジェイドは、刻一刻と目の前に積み上げられていく資料を半眼で見つめ、それを成していく筆頭を呆れ顔で見つめた。
「……所で、なにをしておいでですか……?」
「え? おなかすいた? ごめんなー、もうちょっとしたら食堂行こうなー」
にこにこと笑いながら本棚と向き合い、これはいるけどこれはいらない、と選別をしているらしき筆頭は、普段からあまり人の話を聞いてくれない。言うことを聞かせられるのは補佐その人くらいのものであり、そうであるから、彼の青年は砂漠に引き抜かれ、その地位に就いたのだと囁かれる程だ。自由なひとなのである。とても。
幾度溜息をついても、ごめんなー、疲れたよなー、と告げられるだけで作業に終わりは見えず。そして、なんの説明もしてくれることはなかった。ジェイドはただハレムから魔術師たちの区画へ移動して、かれこれ半日、筆頭に付き合って傍にいるくらいである。今こうしている間にも、なににもならない時だけが、積みあがっていくというのに。
ジェイドは椅子に座ったまま、再度顔をあげて問いかけた。
「俺はなんで、ここに?」
「うーん。……あのさ、驚かないで聞いて欲しいんだけど」
「はい」
過去の経験から、筆頭がその前置きつきで話し出す時は、ろくでもないことだ、というのを砂漠の魔術師は知っている。前回は陛下の大事にしてた絨毯に開けたばっかりのインクぶちまけちゃったどうしよう、だったし。その前は、なんか国宝だった気がするすごいお皿割っちゃったんだけどどうしよう、だったし。その前も、その手の器物破損であった筈だ。
今度はなにを壊したんですかというかそれを聞くのが俺だけでいいんですかだめですよね補佐呼んでくるのでちょっと待っててくださいね、と今にもジェイドが言いそうな気配を察したのだろう。あっ、違う違う、と軽い声で否定して、筆頭はそういうんじゃなくてさー、とあくまで深刻さも、緊張も感じ取れないのんびりとした声で、ジェイドにそれを告げた。
「俺ね、ジェイドに跡を継がせようと思ってたんだけど。ちょっと時間がないから、必要な資料集めたら、要点だけ書いて置くからそれ見て頑張ってな?」
「……はい?」
「あっ大丈夫、補佐はシークにしたからさ。二人で協力して、ごめんだけど、後のことはよろしくな」
あっじゃないしなにも大丈夫ではないしなんというか言われている意味が分からない。頭を抱えながら正直にそう言って呻くジェイドに、筆頭は困った顔をしながら歩み寄って来た。手に持っていた本をひとつ、書類の山へ追加しながら。ジェイド、と呼んで眼前にしゃがみこんだ筆頭は、穏やかな笑みで目を細める。
「分かってるだろ。……お前は頭の良い後輩だ。だから、分かってる」
「……罪を、かぶる……つもりですか? 本当に?」
「いつか壊れるって分かってて、陛下を放置した。この結果がこれだ。……かぶらなくても、罪くらい、十分にあるさ」
茶化すように告げた筆頭に、ジェイドは無言で首を振った。そんなことをしないでください、と懇願する。どうすれば思い留まってくれるのかが、分からずに。手に触れて、嫌だ、と首を振りながら、お願いします、と繰り返す。
「あなたが、そんなことをしなくても……」
「ジェイド。この国には、もう、時間がないんだ。……ないんだよ」
他の方法を探す、ほんの僅かな時間すらない。ジェイドが、『花嫁』に、よくそうしたように。触れる手を撫でながら、筆頭が囁きかけてくる。この国の壊死はもう始まってしまっていた。それが分かっていてなお、俺は国にしか目を向けなかった。王に意識を傾けなかった。ひとりで、どんなに苦しかっただろう。どんなにか、さびしい気持ちでいただろう。
それを薄々察していながら、目を背けた。二心を抱いた。裏切られたと、思っただろう。その通りだ。俺は王を裏切った。その裏切りがもしかしたら、凶行へ至らせてしまったのかも知れない。誰にも興味を抱かれないさびしさはね、かなしさは、くるしさは、ひとをそういう風にしてしまう力があるんだよ、ジェイド。
王は優しいひとだった。穏やかなひとだった。それをお前は知っているね。俺もね、知っていた筈だったんだよ。いつからか忘れてしまっていたけれど、もう思い出したから、今からはずっと忘れないでいるようにする。そういう人を裏切って追い詰めてしまったことを。誰も救えず、助けようともしなかったことを。無視して忘れてしまっていたことを。
「最後の最後まで、味方でいてあげられなかった……。筆頭として、王の……一番傍にいる魔術師として命じられた以上、誰が背いても俺だけは、そうしていてあげなければ、いけなかったのに……。いや、心からそう思って出来なかったんだから、やっぱり裏切りではあったんだろうな」
「でもそれは……あなただけが悪いんじゃない。俺だって……」
「そうだな。魔術師は皆、そうしてしまった。……その上、あの方に心を預けてしまった。だから……ああ、届かなかっただろうよ……誰の言葉さえ、陛下には。……誰もが、あの方を裏切ってしまった。誰も、味方じゃなかったんだから」
さびしかっただろうな、と筆頭は言った。つらかっただろう。そんな思いをさせたいと、そう思っていた訳ではなかったのに。誰もが、希望を抱いて。望んで。すこしでも救われたくて。そう願っていた筈なのに。だからな、と筆頭は、震えるジェイドの手を叩きながら言った。
「間違えたお前は、間違えることの重大さを知ってるな。……もう、間違わないでくれ。俺たちが全部引き受けていくから。シークと仲良くな。大丈夫、皆助けてくれるよ」
「……名乗り出ても、そんなの……証拠がない。信じられる訳がない」
代行と王妃がいた部屋へ足を踏み入れたのは、筆頭と補佐だけではない。警備の者が何人もいただろうし、王妃と王子は医師に委ねられたと聞く。看護の者もいるだろう。ハレムは魔術的に封鎖されているとはいえ、そこに居る女たちは誰もが事実を知っている。罪をかぶり切るのは不可能だ。
思い直してください、と懇願するジェイドに、筆頭は穏やかに微笑んだ。
「……よし。ご飯食べに行こうか」
立ち上がって、ぽん、と頭を撫でてくる手にすがって。話を聞いてください、とジェイドは繰り返した。お願いだから、そんなことはやめて欲しい。考え直してください、と言葉に、筆頭は笑うだけで答えなかった。
よーう準備できたー、できたできたー、という受け答えをするのは本当にやめて欲しい。無理に食事を詰め込んだ後にずるずる引っ張られていったハレムで、ジェイドは頭の上を飛び交っていくのんきこの上ない筆頭と補佐の言葉に、胃の痛みを感じながら場にうずくまった。
お願いだから、どうしたんだろう、と不思議がる視線を向けるのは勘弁して欲しい。
「……胃薬いる?」
「いらないので止めてください……」
「それはできないんだ。ごっめんごめん」
せめてもっと重々しく謝って欲しい。顔を覆って蹲るジェイドの頭を、補佐の手が二度、三度、撫でるように触れて離れていく。その手を捕まえてしまわなかったことを、いつまでも後悔した。
「……全く。それで、なにをするつもりなんですか?」
血の気のない顔で寝台に体を起こした代行が、筆頭と補佐に問いかける。ふたりは顔を見合わせて晴れやかに笑い、悪いこと、と声高らかに宣言した。悪だくみをそう楽しげに言うひとがありますか、と代行がげっそりとした息を吐く。
「……それで、なにを?」
「はい! 俺が陛下殺害の犯人です!」
「はい、俺が共犯者です」
自白しちゃったー、いぇーい、とはしゃぎ倒すふたりに、代行がそうですかという微笑みのまま、頭を抱えて寝台に倒れ伏した。
「……ジェイドの気持ちがよく分かりました。馬鹿ですか止めなさい」
「我が君」
ごめんな、と笑って筆頭が告げる。時間がないんだ。あなたと、この国を。もっと上手に救いきるだけの時間が。
「それに、もう準備、終わったからさ」
あとはやるだけなんだ、と筆頭が歌うように言葉を囁く。はっと息を飲んだのは誰だっただろう。ジェイドが体を起こした時、部屋にはもう、筆頭の紡ぐ魔術で満ちていた。砂漠の筆頭は水属性の占星術師。望んだ夢をひとに手渡すことができる術者。補佐は風属性の錬金術師。ゆらめく風の流れにすら術を編み込み、その効果をどこまでも拡げていく。
その、補佐に肩を抱かれて。泣き腫らした目をしてシークが立っていた。補佐が身を屈めて、むずがるシークに何事かを囁く。いやだ、いや。そんなことをしたくない、と泣くシークの元へ、ジェイドが駆け寄るより。震えながら紡がれた言葉が、世界を書き換えてしまう方が早かった。
「『……言葉ある者よ、今こそ」
「ジェイドも、シークも。ちゃんと覚えておいて、大事なことだからね」
詠唱の邪魔にはならず。けれども、はきと響く穏やかな声で。筆頭が告げる。
「命令したのは、俺だ。……彼に責任はないよ」
「……このひとたちの」
涙が、いくつも零れ落ちる。見開かれた、勿忘草の色をした瞳から。
「まことなる願いを……叶えたまえ』」
「『さあ、夢を見よう。万雷の拍手と共に夢を織って迎えよう。瞬きの間に。ひとつ息を吸う間に。……大丈夫、その先には希望があるよ。俺はずっとそれを信じてる』……我が君。どうぞ。俺の成すことをお許しください」
部屋の中心から、逆巻くように風が吹き抜けていく。起こったのは、それが全てだった。泣き崩れるシークに駆け寄ることすら忘れ、え、と呟いてジェイドは立ち上がる。体の中で、頭の中で、なにかが。猛烈な速さで書き換えられていくのを感じる。風と共に国の端まで散って行ったであろう魔術に。瞬き、呼吸、言葉を発するだけの間で、なにかが。
言葉が、消され、書き加えられていく。
「……え?」
このひとたちだ、と思う。身の内から湧き上がる、ぞわりとした憎悪すら覚えながら。筆頭と、補佐を見て、ジェイドはこのひとたちだ、と思う。王を殺したのは、このふたりであるのだと。違う、という記憶はそこにあるのに。それを消してしまうような言葉の渦が、ジェイドの中で暴れ続けている。
「あ……あ、あ、あぁああ……」
うずくまって、頭を抱えて、シークが泣いている。声をかけて、傍にいて、大丈夫だ、と言ってやりたいのに。書き換えられていく、そのおぞましい衝撃と。言葉が、意思が。言葉すら成さず泣き喚くシークへ、駆け寄る力を与えなかった。
「ああぁあああああっ!」
血を吐くように泣き叫ぶ声が、室内には響いている。
殺しの罪は、死によって償われるのが砂漠の習わし。
筆頭と、補佐。二人の処刑が決まったのは、その日のうちのことだった。
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