あなたが赤い糸:75
眠るのが嫌だ、と零したのはジェイドだった。シークを見送った日に。血の気の引いた顔でくちびるを噛むリディオに、なんと告げて部屋を辞したのかも思い出せず。いつのまにか日が落ちた部屋の中で、ジェイドはシュニーをぴたりと胸に抱き寄せて、眠りたくない、と囁いた。眠れば夢を見るだろう。花の、枯れ行く夢を見るだろう。
それを留めることはとうとうできなかったのだと。花を、蘇らせることは叶わなかったのだと。知らしめる夢を見るだろう。金のひかり、蜜のいろ、シュニーの愛する柔らかな黄色に染め抜かれた輝きに満ちた、絶望とともに現れる希望の夢を見るだろう。それはシュニーの願いを確かに叶えたのかも知れない。いなくなりたくない、という願いは。
ごめん、とは言わず。いやだ、とも言わず。ジェイドはシュニーの首筋に顔を埋めて、眠りたくない、とただ、その言葉を繰り返した。シュニーはうん、と頷いてジェイドの頭を抱き寄せた。髪に頬をくっつけて、熱を分け合って、鼓動に耳をすませて目を閉じながら。ねむりたくないね、と穏やかな声で囁いた。
まりょくになったら、とシュニーが呟いたのは、なにもかも寝静まった深夜のことだった。静かな、静かな、砂漠の砂が風に運ばれる音さえ聞こえてきそうな夜の中。シュニーは不思議なくらいに、やわらかく響く声で、言った。
「どうなるの……? どこへいくの?」
「……どこにも行かないよ」
満ちた魔力が飽和して崩れ、ただ、ジェイドの中へ戻ってくるだけだろう。あるいは、世界へ溶け消える。循環する風の中、沸きいずる水の中。かじかんだ手を温める火の中、うつくしい、砂漠の、一欠片へ。そこにシュニーの意識はない。魔力、とはそういうものだ。たゆたい、まどろみ、巡るもの。
薄く浮かんだ涙を瞬きでごまかして。それなら、とシュニーは微笑んだ。心から、確かに、安堵したように。
「じぇいどは、叶えてくれたね。ありがとね……」
いなくならない。魔力になって、世界になって、ずっと一緒にいる。シュニーの意識がなくなってしまうだけ。その魔力に触れれば、ジェイドにはシュニーが分かるだろう。かつて愛したひと、己の『花嫁』だった魔力であると。それでも、触れ合う熱はなく。二度と名を呼ぶこともない。
いなくならない。ずっと、ずっと、いなくならないでしょ。そうでしょ、と囁くシュニーをかたく抱き寄せて、ジェイドは泣いた。眠らない夜が終わり、朝が訪れる。不安でいっぱいの顔をしたミードを迎えて、シュニーは微笑んだ。何日か、だけになるけど。会いに来てね、話そうね、と笑うシュニーに、ミードは声をあげて泣きながら頷いた。
一日は賑やかに、穏やかに繰り返す。昨日と同じ日を、記憶に刻むように繰り返す。一日、二日、三日目の夜。とうとう眠りに落ちたジェイドは、満ちた光と、花の夢を見た。夜が終わる。朝が来る。一日、一日、時が過ぎていく。そして、シークが訪れて十日目の真昼。
ミードが、目の前にいるシュニーを見失った時。花が枯れ落ちたことを知った。
しゆーちゃん、とあどけない声がシュニーを探した。言葉が不自然に途切れ、ミードはこてりと首を傾げる。ぱちぱち、瞬きをする『花嫁』に視線を落として、ジェイドは言葉を失った。ジェイドの腕の中、膝の上に、シュニーは変わらず座っている。ミード、とまだ不思議がる声で呼んでいるのに、『花嫁』の視線は不安定にさ迷っていた。
「しゆーちゃん? しゆーちゃ……あ、れ……? じぇいどくん? しゆちゃ、しゆーちゃんは……?」
「ミード。……ミード、わたしはここよ」
二度、名を呼んだ時には。もうすでに、なにが起きているのかを、シュニーは理解してしまったらしい。ふ、と全身から力が抜ける。諦めとは違う、穏やかな笑みで。シュニーはここにいるわ、と囁いた。おろおろと、今にも泣きそうに、目の前にいるシュニーを探してあちこちを見回すミードに。
レロクとウィッシュを養育部に預け、戻って来たラーヴェが戸惑う雰囲気に立ち止まる。訝しく眉を寄せ、ジェイド、と呼んだその声には、『花嫁』の所在を問う響きがあった。ここ、と腕の中で、ぽつりとシュニーは言葉を零す。視線を伏せて。ラーヴェ、わたしはここ、と呟く声は、ジェイド以外には、もう届かない。
魔力は。あるいは、妖精の姿、その声は。魔術師以外には届かず、見えず、響かない。それを視認できるからこそ、その声を、聞き届けるからこそ。彼らは突然変異、魔術師と呼ばれるのだ。息を、止めたいような気持で。押し黙るジェイドの腕が、変わらず、なにかを抱いているのに気が付いたのだろう。
しゆーちゃん、しゆーちゃんっ、と泣き叫ぶミードを抱き上げ、ラーヴェが狼狽した目でジェイドを見た。その、空にしか見えない腕の中へ、視線を向けた。
「……いらっしゃるのか、そこに」
「……いるよ」
おいで、シュニー、と囁いて。ジェイドは愛しい『花嫁』、妻の体をさらに引き寄せた。さらさらの髪に頬をくっつけ、目を閉じて体温を味わう。ジェイド、と囁く声は甘く、優しく、いつもと変わらぬように響いて行く。そうか、とラーヴェは言った。そうか、と噛みしめるように。
くしくし、くしくし、目を擦って、ミードもまた、ジェイドへ視線を向けた。その腕の中の『花嫁』の姿を、視線が捉えられずに震えて、さ迷う。
「しゆーちゃん……?」
「ミード」
「しゆ、ちゃ……。や、やだ、やだ。いやぁ……!」
戻ってきて、とミードは泣いた。行かないで。いなくならないで。おはなし、してたもん。いままで、おはなし、してた。いや、いや。おいていかないで。いかないで、いっちゃいや。いや、と訴えて泣くミードをかたく抱き寄せて、ラーヴェは穏やかな声で部屋を出ようか、と言った。
ふたりに、しようか、と。問いに、ジェイドはいいよ、と言った。どっちでもいいよ。選ぶということが、今はできない。どちら、と考えることができない。腕の中のぬくもりで、意識がいっぱいで。シュニー、と囁くジェイドに、『花嫁』は淡く、息をした。
「ジェイド……」
泣かないで、とシュニーが囁く。泣いてない、と言い張るジェイドに微笑んで、その頬に伸ばす指先の輪郭が、柔らかく崩れかけている。ひかりに。金のひかり。魔力に。シュニーの体が溶けて、消えかけている。頬に触れた指は、それでもまだ温かかった。
「……あのね。考えてたの」
「……なにを?」
「いなくなりたくないって、言ったこと……。嘘じゃないの。ほんとうに、そう思って、言ったの。……でもね、間違えてたの。そうじゃなかったの」
ずっとあの人がね、言ったことと。ジェイドが教えてくれたこと。わたしが、これから、どうなるか。考えていたの。ずっとずっと、考えて、それでね、分かったの。間違えちゃったんだって。いなくなりたくない、だったけど、それも本当だったけど、でも、一番はそれじゃなかったんだって。
ジェイド、と。誰より愛する少女が、ジェイドの名を呼んで微笑んだ。まっすぐに視線を重ねて。
「置いて、行かないで」
『花嫁』が『傍付き』にそれを求める。『魔術師』に。ジェイドに。
「連れて行って……?」
いつまでも、どこまでも、一緒に。もう背を見送るのでも、帰りを待つのでも、なくて。一緒に行きたい。何度でも。その背を追いかけたいと願った心の通りに。連れて行って、と『花嫁』が願う。ひかりに、溢れ。崩れそうな輪郭を、なんとか保ったまま。微笑んで『傍付き』に希う。
いいよ、とジェイドは心から言った。
「分かった」
「ほんと? ……ほんと?」
「ああ。……本当」
よかった、とシュニーは息を吐き出した。なら、もう、さびしく、ないね。
「……ジェイド」
ふ、と。膝の上から重みが消えた。瞬きひとつで存在がかき消える。そこにあった筈の姿が消えて無くなる。代わりにあったのは、夥しいほどの魔力だった。夢のように。夢の中で。何度も、何度も、焼き付けた光景そのままに。室内にはひかりが満ちていた。シュニーが愛した淡い黄色の、輝きに満ちた魔力。
まだ、シュニーの意思をそこに灯すように、囁くように。微笑むように。ふわふわ、揺れて、漂っていた。
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