あなたが赤い糸:71



 ミードが赤子と一緒にすぴすぴお昼寝をして目を覚ましても、シュニーは眠ったままだった。よぉく眠るねえ、としみじみ感心したミードは、かれこれ四日間、シュニーと話をしていない。いつ訪れてもシュニーが眠っていて、話し声にも物音にも、閉じたまぶたを持ち上げないからだった。時々、寝返りをして、あくびをして、眠ってしまう。

 反応としてはそれが全てで、寝ぼけるようなこともなく、ひたすらシュニーは眠っている。落ち着いた、穏やかな寝姿だった。表情はゆったりと落ち着いていて、なにか夢を見ているようにも感じられるが、悪いものへ落ちて迷ってしまうことも、今のところはないようだった。

 医師の告げる所によれば、病気ではなく。『花嫁』『花婿』の感じる所によれば、過度に弱って起きていられないわけでもなく。『傍付き』の知識と直感的な判断によれば、ただ穏やかに心地よく、眠っているだけ。それだけだった。ただ。ちり、とジェイドの、魔術師としての側面が、警告のような、焦燥めいた感情に揺れ動く。

 シュニーが中々目を覚まさなくなってからも、ジェイドは夜中に夢を見た。同じ夢だった。擦り切れそうなくらいに繰り返し、繰り返し、同じ夢を見た。花の夢だった。花に水をやる夢だった。魔力は枯渇し、喉の渇き、咳と共に真夜中に目を覚ます。朝の訪れを祈っているのか、遠ざけたいのか、分からないままに目を覚ます。

 あまりに眠るシュニーを不思議そうに眺め、『花嫁』って冬眠したかしら、とあどけない口調で呟いたのはミードだった。様子を見にジェイドの部屋を訪れていた当主は、冗談とも本気ともつかない口調で、冬眠することもある気がする、と言った。

 そっか、とまじめに頷いたミードは、しゆーちゃんの冬眠終わるといいね、と言って部屋からいなくなってしまった。レロクとウィッシュを養育部に預けに行ったのだ。育児は一日八時間まで、とラーヴェと約束したのだそうだ。ぷーっと頬を膨らませるミードはたいそう不満げにしていたが、微笑む『傍付き』から延長の声はないままだった。

 ふたりの面倒を見るにせよ、なににしても。八時間。それが、『傍付き』の定めた『花嫁』の限界である。いやいやだめだめもっとする、もっとするううっ、と定期的にミードがぐずって訴えても、今のところ、一度も延長されないままである。

 ううううぅ、レロクとウィッシュくんのままが増えちゃう、と往生際悪く訴える声と、それを宥めるラーヴェの笑い声が、廊下に響き、遠ざかって消えていく。まったくミードは変わらないな、と苦笑して、当主もまた、すぐに部屋からいなくなった。城からの帰りに、顔を見に寄っただけなのだという。

 最近、当主の外出は頻繁だ。城に呼ばれることなどそうはなかったというのに、この所週に一度、二度、三度、と増えるばかりで、落ち着く気配は見られない。なにかありましたか、と問うジェイドに、当主は柔らかな笑みで、うん、とだけ言った。それだけで、詳細を語ってはくれなかった。

 噂話。『お屋敷』の人々の口を借りて、ジェイドはその呼び出しが、王からのものではないことを知っている。王の関心は未だ、寵妃にだけ向けられたまま、人々にも国にも、戻らないままだった。『花婿』に魅せられた、と噂され、当主側近に密かにではなく命を狙われている青年が、不埒な真似をしている、とは、思わないのだが。

 一応、そっと、嫌なことはありませんか、とだけ問いかけたジェイドに、少年は目を細めて緩やかに笑った。そう問われたことが、気遣う気持ちを向けたことが、嬉しいのだとわかる表情だった。言葉はなかった。とうとうそれについて一言も告げぬまま、リディオはくちびるに指を押し当てて微笑し、とことこと部屋を去っていった。

 まあ、ほんとうに害あることならば、それを当主側近が見逃す訳はない。命があるとも思えないので、不安は残るが大丈夫なのだろう。夕刻の、夜が滲み出した部屋でため息をこぼし、ジェイドは眠り続けるシュニーを抱きなおした。とくとくと鼓動は落ち着いていて、手も足も、ぬくまってぽかぽかと温かい。

 見ていると、シュニーはふぁ、と気持ちよさそうにあくびをした。瞼は持ち上がらないままだった。




 ふわん、と目の前に浮かぶそれは、たんぽぽの色をしていた。やさしい黄色。その隣に浮かぶものは生まれたてのひよこの色で、近くを漂っているのは蜂蜜の色を宿している。やわらかな陽光、お気に入りの手毬、刺繍の糸、色あせた絵本の紙、夜明けの空のひとかけら。シュニーが愛する、様々な色彩の中の黄色だけが、そこに集められていた。

 朝焼けのようだ、とジェイドは思う。夜が終わって朝を迎える瞬間の、瞼の裏いっぱいに眩さが満ちるあの一瞬の、息を飲むような驚きと喜びの。ひかりに満ちている。はじまりを告げるひかりが、その場所へほとほとと生まれ落ちている。鼓動と同じ強さで。呼吸と同じ感覚で。瞬きごとに増えていく。祈りのようにひかりが満ちていく。

 雪みたいだ、とジェイドは思った。本で読み、話にしか聞いたことがないが、ふわふわとてのひらへ降りてくるそれは、綿雪というものによく似ている気がした。冷たくはない。どこかほんのりと、甘いぬくもりを宿している。触れた、と思うには質感が乏しいそれを、両手の指で包み込むように手の中に閉じ込める。

 泣きそうな、後悔だけのない安堵で心は満ちていた。それが罪でも悪でもかまわなかった。成し遂げられたことだけが重要だった。できること全てで努力した。その結果がもう、ここにあった。『傍付き』であったこと、『魔術師』であったこと。その二つと共に、生きたこと。その苦しみが、もしこの結果の為だったら。

 何度でもそれを繰り返せる。出会いから、何度やり直せと言われても。この喜びを覚えている。この結果にたどり着いたことを、ジェイドは忘れないで覚えている。血を吐くような嘆きも苦しみも悲しみも、やるせない、拠り所のない生も。報われたと思う。全てではなくとも。十分過ぎる程、満たされきる程、ここで報われた。

 『花嫁』が望むなら、地獄の果てまで『傍付き』は共に行く。どんな願いだって叶えてみせる。その為の研鑽と祈りを携えて歩いてきた。けれども『傍付き』には、叶えられなかった。『魔術師』でなければ不可能だった。今はただ満たされている。嘆くことなどなにもなかった。『花嫁』の願いを、『魔術師』は聞き届けられたのだから。

 てのひらで包み込んだそれに、そっと口づける。ふわふわの、やわらかい黄色いそれが、じわりと金の鱗粉をまとう。喉の奥が渇く感覚があった。口付けから、指先から。ジェイドの魔力が染み込んで行く。受け渡されていく。ひとつに、なる。ふ、と息を吐きだした。大丈夫。これでもう、大丈夫。どこにもいかない。いなくならない。

 ああ、願いが、叶えられた。満ちた喜びに『魔術師』は泣いた。淡い光。夥しいほどの魔力の顕現。魔術師に対する祝福。愛そのもの。その一方で、切り替わった意識の側面が目を覚ます。ふ、と光から手を離して、『傍付き』は地に膝を折る。花に、手を伸ばした。そこにはまだ花があった。折れて枯れて弱り果て、朽ち果てる寸前の花があった。

 ああ、願いが、叶えられない。いなくなりたくない、と言われたのに。望まれたのに。どんなことをしても、その願いが叶えられない。ほたほたと声もなく、『傍付き』は泣いた。その涙から、震える指先から。魔力が染み込んで行く。受け渡されていく。鼓動も熱も命も。なにもかも。与えて、繋いで、途切れないように。

 最後のひと呼吸さえ分け与えるように。分かち合うように。捧げられる。花は微笑むように、解けるように、ひとひら、花弁を地に落とした。雨のように。涙のように。落ちた花弁さえ、愛おしく。触れていたい、とジェイドはそれを握り込んだ。やさしい香りが指の間から立ちのぼる。

 それが、肌に染み込んでしまえばいいのに。消えないでいてくれればいいのに。ひとつに、溶け合ってしまえばいいのに。ああ、とジェイドは息を吸い込んで、吐き出した。満たされる喜びと、引き裂かれる悲しみ。心の感じる、どちらも本当の気持ちだった。どちらかにはなれない。どちらも、連れては歩けない。

 夢を見る。朝まで浅い眠りを繰り返し、繰り返し、繰り返し、幾度も幾度も夢を見る。花の夢を。光の夢を。希望に満ち、喪失の予感をひたひたと満たしていく、夢を見る。夢を。繰り返し、ジェイドは夢を見る。その夢が、もう現実を浸食していく真実になるのだと。『魔術師』も、『傍付き』も、否定することもできずに理解していた。

 乾いた咳をひとつ、零して。朝の光が滲む寝台の上で、ジェイドは目を覚ました。枯渇しきった魔力に、全身がだるい。息を吐いて体を起こしながら、腕の中を確認する。ジェイドにぴったりくっついて、しあわせそうに、シュニーが眠っていた。思わず笑みが零れる。可愛くて、可愛くて、愛おしい。

 不意に、シュニーの瞼が揺れる。ふぁ、とちいさなあくび。ふあぁあ、ともう一度、長く、ゆっくりと。んん、と声を零してシュニーが瞼を開く。その瞬間を、ジェイドはずっと待っていたようにも。訪れないで欲しい、と思っていたようにも感じた。ねぼけまなこを包むように、額を重ねて視線を合わせる。

「……おはよう、シュニー」

「おは、よ。じぇいど……」

 目覚めたばかりのシュニーは、ジェイドと同じ熱を宿している。手も、脚も、足の先も、どこもかしこも、ぽかぽかとしていてあたたかい。気持ちよさそうに笑うシュニーを引き寄せなおして、強く抱きしめる。とく、とく、と刻まれる鼓動に耳を澄ませた。今はまだ重ならない音が、ひとつに近くなっているのを知っている。

 ひとつに、なりたい。失わない為に。ひとつに、なりたくない。二人だから、抱きしめられた。相反する感情に声を失うジェイドに、シュニーはすこし不思議そうにして。指で、そっとジェイドの髪を撫でて、露わになった耳に口づける。ジェイド、とシュニーは夫の名を呼んだ。ただ、それだけを。その名、その響きだけを。

 幾度も、幾度も、繰り返した。

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