あなたが赤い糸:70


 体調不良でも、曇りの日が続いたのでもないのに、シュニーはここの所眠ってばかりいる。じわじわと弱り続けていることは確かにしろ、シュニーの体調そのものは奇妙に安定していた。熱は出ず、咳もなく、体が重たくだるい、といったことも訴えられない。不調そのものを、つらい、と告げる言葉はないままだった。

 ただ、力が抜けていく。ゆるやかに。指先、足の先まで血と体温がめぐって行かない。ひとつ、ひとつ、蕾がしおれて行くように。咲いた花が、日暮れと共に眠りにつくように。そうしている時間が、終わってしまった。鼓動を巡らせる時が。体に熱を宿し続ける時が。おしまいになる。そういう気持ちになるのだという。

 実際、シュニーの手と足の先はつめたくなってしまうことが多い。それを手で包み込んで温めるのが、切なくとも、ジェイドは好きだと思った。いとしいひとの体が、熱を宿してあたたかくなる。同じ温度になれば、もうそれで、冷えてしまうことはない。ひとつを分け合って、ふたつに、なる。とく、と鼓動がやわらかくよみがえる。

 それを幸福と呼ぶには切なく。悲しみと受け止めるには、穏やかだった。

「しゆーちゃん。今日も眠ってるの? ……うぅん。まま、起きないねぇ。抱っこはみぃで我慢してね」

 ぴょこんと寝台を覗き込んだミードが、残念で申し訳なさそうに、腕の中に囁いた。ジェイドの腕はシュニーでいっぱいで、受け渡すにはためらいがあったのだろう。いいこ、いいこ、とウィッシュをあやしてくふくふと笑うミードを寝台にそっと下ろす、『傍付き』の腕には赤子がもうひとり。

 あのね、ラーヴェの抱っこはミードのなんだけど、レロクとウィッシュくんには貸してあげることにしているの。かんよーなおこない、なの。だってみーどはままだもの、しゆーちゃんと合わせて、なんとふたりぶんもままだものおおおっ、とこの上なく誇らしげにふんぞりかえって説明されたのは、つい先日のことだった。

 思い出してかすかに肩を震わせれば、ミードはふかふかの寝台で気持ちよさそうに目を細め、ジェイドくんごきげんさん、と砂糖菓子を食んだように呟いた。

「どうしてだか、あててあげましょうか? んっとね……。しゆーちゃんが、気持ちよさそうに寝てるから?」

「もちろん、それもありますけど。ただ、ミードさまが可愛らしくて」

「ジェイド。ひとの『花嫁』を口説かない」

 半ば諦めた叱責の声で、手を伸ばしてきたラーヴェに鼻を摘んで捻られる。抵抗するにも腕にシュニーを抱いているので、ジェイドは眉を寄せて頭を振った。

「別に口説いてないだろ。褒めただけ」

 ふぅん、と微笑んだまま目を細めたラーヴェが、ちらりとミードに視線を向ける。『花嫁』は顔を赤らめて、なにか言いたげにもじもじと身をよじっていた。なにか雲行きが怪しい気がする。あの、と声をかけるより早く、ミードはよじよじとジェイドから距離を開け、腕に抱くウィッシュをしっかと抱いたまま、ちょこちょこと訝しく首をかしげた。

「んん……ふつうの褒め? 褒めだったの……? んと、んと……ジェイドくんはもしかして、もしかして、いけないひとなのでは……?」

「待ってください待ってくださいラーヴェだって! シュニーに可愛いとか言いますよね!」

「ジェイド。『花嫁』に声を荒げない」

 ごっ、と重い音を立てて拳が頭に落とされる。ジェイドはいつまでもそういう基礎的なことができないね、とやわらかく囁く『傍付き』の、目が笑っていない。的確に痛みを与える箇所への殴打を、『花嫁』を怯えさせない一見落ち着いた仕草で行う、という技術を遺憾なく発揮するラーヴェは、結構本気で苛立っていた。

 あとでちょっと、と言い出さず実力行使されたのは、シュニーの傍からジェイドが離れるべきではないからだ。ふたりは、ひとつのもののように。触れて、はじめて完成する、ひとつの命のように。ジェイドがシュニーに触れていると、体調が安定して心地よさそうなのだと。告げたのはミードだった。

 みぃもラーヴェにくっついてると気持ちよくってきゃあきゃあするけど、しゆーちゃんはもっともっとなの。だからジェイドくんはなるべく離れちゃいけないの、と真面目な顔で言い聞かされたのだった。『花嫁』が。同じ『花嫁』の状態に関してそう告げるのならば、それはある意味、医師の診察よりも正確な診断足りうる事実となる。

 そしてそれは、『傍付き』に対する評価でも同じことだった。ミードはじいぃっと、拗ねたような顔つきで叱られているジェイドを見つめたのち。こっくり、大きく頷いて鼻を鳴らした。

「じぇいどくんったら、いけないひと」

「許してくださいお願いします」

「あ、あっ! これはもしかして、ウィッシュくんもしょうらい、いけないひとになるのでは……!」

 興奮のあまり発音がたどたどしくなりつつも、予感に戦慄した声だった。くっ、と堪え切れない笑いがラーヴェからこぼれる。白んだ目を向けると、ラーヴェは口元を手で押さえつつも、断続的に咳き込んでいた。未だ引かない頭の痛みにため息をつきながら、ラーヴェ、とジェイドは低まった声で親友を呼ぶ。

「謝るから、笑ってないでミードさまを止めて欲しい」

「もちろん。君がもうすこし反省したらね」

 声を荒げない、というのは基本中の基本だろう、と叱るラーヴェに言葉に詰まっている間も、おろおろしたミードは落ち着きを取り戻さなかった。たいへんたいへん、と眉を寄せて目をぱちくりさせ、腕の中ですこやかに眠るウィッシュに、こしょこしょとした声で囁きかける。

「いーい? いーい? ウィッシュくん。あのね、いけないひとになったら、だめよ。しゆーちゃんみたいにね、もてあそんで、ころがして、ぐらっときたところを、ぽいっ、ならいいの。でもね、でもね、いけないひとは、いけないの!」

「ミードさま……! なにとぞ俺の息子にあらぬことを吹き込むの止めて頂けますか……! 反省した反省したって言ってるだろラーヴェこの……笑い上戸……!」

「ウィッシュくんはぁー、しょうらい、どんなひとにときめきをおぼえるの……? あのね、あのね、おはなしができるようになったらね、わたしにそーっと教えてね」

 笑いすぎて咳き込むラーヴェに苛立っている間に、ミードの興味関心は逸れたようだった。『花嫁』の気分は、ころころころりと変わりやすい。それに感謝すればいいのか、脱力して泣けばいいのか分からないでいるうちに、ミードはウィッシュに頬をくっつけすり寄せて、幸せそうにくふくふと笑っている。

「ときめきの相談とか、ないしょのおはなし、しようね。とってもたのしみ……! ……あ、あっ、でも、でもね? ラーヴェはみぃの、ラーヴェは、みぃのなんだから。ときめきを覚えたら、いけません。わかった?」

「……ラーヴェ。反省したから、ほんとしたから、そろそろミードさまを止めてほしい」

「安心していいよ、ジェイド。昨日はレロクにも言い聞かせてたから。同じことを」

 平等で公平だね、さすがミード、と褒めるラーヴェの判断力を心底疑いながら、ジェイドは弱々しく首を振った。なにに安心すればいいのか分からないし、そういう平等とか公平はどこかに捨て去って欲しい。もちもち頬をくっつけながら、ミードはふわふわのはしゃぎ声を響かせている。

「ウィッシュくんがー、ときめくのは、どんなひとー、かなー? うーん。しゆーちゃんにとってもよく似てるからぁ……つまり……? またお外のひとだったりするの……?」

「あのミードさまそろそろ本当になんと申しますかそういう不穏な予想をするの止めて頂いていいでしょうか胃が痛くなってきたのでなにとぞ……!」

「ジェイドくん? いーい? だいじなことです」

 つつん、とくちびるを尖らせて主張するミードに、ジェイドは力なく頷いた。確かに大事なことである。しかしながら、まだ半年にも満たない赤子には、すこしばかり早すぎる、大事なことである。シュニーを抱きなおして力なく呻くジェイドの隣で、ラーヴェはすこぶる楽しそうに咳き込んで笑っている。

 うーん、うーん、うむむっ、と考えて悩む声をふわふわ漂わせ、ミードはあっ、となにかに気がついたような声をあげた。『花嫁』は大体そうなのだが、特にミードの『あっ』には格別碌な事がない。ああぁあ、と絶望的に呻くジェイドの隣で、ラーヴェはまだ楽しそうに笑っている。

 らーヴぇったらなにかたのしいことでもあったのかしら、と目をぱちくりさせて首をかしげ。問うことはせず。『花嫁』はまたこしょこしょと、眠る赤子へ囁きかけた。

「いーい? ジェイドくんもね、しゆーちゃんの。しゆーちゃんのジェイドくんです。だからね、ときめきを覚えるのはね、いけません。わかった?」

 呻くジェイドの傍らで、ラーヴェがそろそろ呼吸困難になりかけている。そっと体勢を変えて薄情な親友を足先で蹴り転がし、ジェイドはいいですかミードさま、と諦めずに言った。

「大丈夫です。大丈夫ですからどうぞ、ご心配なさらずに……! ラーヴェほんとお前そろそろいい加減にしろよ……!」

「あっジェイドくんたら、ラーヴェをいじめてる! いけないひとーっ!」

「苛められてるの俺ですけど!」

 えっ、とミードが驚ききった声をあげる。えっ、えっ、と狼狽しきってきょろきょろと室内を見回し、ミードはええぇっ、と声をあげてふるりと身を震わせた。あう、あう、と半泣きの怯えた呟きをこぼし、ミードはぷるぷる震えながら、そっとジェイドに問いかける。

「だ、だれにいじめられたの……? みぃがこらしめてあげる……!」

 あなたに、と言うよりはやく。復活したラーヴェが、光の速さでジェイドの口を手で塞いだ。ラーヴェなにしているの、ジェイドくんがお話できないでしょう、と目をぱちくりさせる『花嫁』に、『傍付き』はあくまで品の良い、穏やかな笑みで囁いた。

「ミード。気のせいだよ」

「……きのせい?」

「そう。気のせい」

 え、えっ、と不思議そうに、『花嫁』の瞳が『傍付き』たちを往復する。きのせい、きのせい、でも、でも、と不思議がる呟きが不安定に落とされ、その間、ラーヴェはただ微笑んでいた。なにも変わったことなどない、と告げるような、いつも通りの笑みだった。

 ミードはそれをじーっと見つめて。じー、じー、じぃーっと見つめたのち、こっくり、力強く、あどけなく頷いた。

「ラーヴェがそう言うなら。みぃの気のせい! ……きのせ? あれ?」

 あれ、そういうおはなしだったっけ、あれ、あれ、としきりに首を傾げるミードに、ラーヴェは言葉を重ねることはせず、ジェイドから手を引いた。こうなってしまえば、『花嫁』が本題へ戻ることは至難の業である。あれれ、とくちびるを尖らせるミードに、もういいですと項垂れて、ジェイドは深々と溜息をついた。

 その腕の中で。ふぁ、とシュニーがあくびをする。起きるかな、と見つめてもシュニーはジェイドの胸に頬をこすり付け、また眠りの中へと深く潜ってしまった。ミードが残念そうに、まま、起きないねぇ、と腕の中の赤子に語り掛ける。ジェイドはそれに頷いて。

 シュニーの頭を胸に引き寄せ、おやすみ、と囁きかけた。



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