あなたが赤い糸:35
じぇいどはしゅにのっ、しゅにのなんだからあぁあああもおおおだめなんだからあぁあっ、と怒りに怒りきった声が、貢物貯蔵室に響き渡る。ジェイドは意識の片隅で必死に、昨夜読んだ教科書の内容をそらんじながら、抱きつくシュニーの背をぽんぽんと撫でた。
お風呂上りのシュニーは、ほこほこに温かくて柔らかくて特別いいにおいがする。さらさらに梳かされた髪が、ぐりぐり肩口や頬にこすりつけられてくすぐったい。
「……むり。かわいい、むり……シュニー、ごめん……あの、そろそろ」
「かわいかったらぎゅう! ぎゅうでしょ!」
「あああぁあ」
爆笑と同情の視線を一身に浴びながら呻き、ジェイドは怒り心頭の『花嫁』をぎゅっと抱きしめた。ひざの上に座る体を引き寄せて、全身をくっつけるようにして、背を撫でる。ぽん、ぽん、と撫でるとシュニーはやや怒りを収めたように、もっとしなきゃだめでしょっ、と拗ねた声でジェイドを叱った。
「ジェイドが、もっとしゅにをぎゅっとして、ぎゅっぎゅとしないからいけないの!」
「そ……え? え、なにが……?」
「じぇいどがひかえめでしゅにをあんまりみせびらかさないから、たぶらかせばいけるとおもわれれるの!」
怒りのあまり、シュニーの呂律が回っていない。視界の端で、前当主の少女が口元を手で押さえて笑いながら、見習い当主の少年はやや気まずそうに、視線を外すのが見えた。前当主側近の女は控えめな微笑で、少年の傍に立つ『傍付き』の女は麗しい微笑みで、それぞれに頷いてみせた。
すみません私の『花嫁』『花婿』が可愛いばかりに、という頷きだった。味方ではない。だめなんだからっ、じぇいどはしゅにのなんだからだめなんだからぁっ、とふたりを怒るシュニーに、ジェイドは困った気持ちで息を吐く。
「俺が好きなのはシュニーだよ。たぶらかされたりしないし、当主さまたちだって、そんな風な気持ちではないと思うよ。決め付けたらだめだよ」
「……ふふ? しゅにがすき? ほんと?」
ころっ、と機嫌をよくしてはにかむジェイドの『花嫁』は、ちょっと可愛いにも程がある。好きだよ、ほんと、と心から告げながら、ジェイドはシュニーの背をやんわりと撫でていく。とろとろと眠そうな目をして、シュニーはジェイドの肩に頬を擦り付けた。
元より、眠る為に湯殿へ行った帰りなのだ。怒って興奮したせいで、もう体力がなくなってしまったのだろう。かわいい、と吐息混じりに囁いて、ジェイドはシュニーの背をぽんぽんと撫でる。愛しい体温が、重みが、腕の中にあることがしあわせだと思う。
「好きだよ、シュニー。かわいいかわいいシュニー。……眠いな。眠ろうな」
「……ん。しゅにも、ジェイド……あっ、わたし、わたしも、ジェイド、すき」
「うん。おやすみ、シュニー」
ふぁ、と耳元でちいさくあくびをして。シュニーはジェイドにぺっとりくっついたまま、とろとろとそのまま目を閉じてしまった。ほどなく、安らいだ寝息が響いてくる。ぽん、ぽん、と背を撫でて、ジェイドは満ちた息を吐きだした。シュニーの体があまりにやわらかくて気持ちいいことからは、無の気持ちで意識を逸らす。
ああぁでもかわいい、と誘惑に負けてぎゅっと抱きしめた所で、前当主の少女がとことこと歩み寄って来る。少女はジェイドの顔を覗き込むようにして悪戯っぽく笑い、怒られちゃったね、と言った。
「ごめんね、ジェイドくん。まさか、リディオをなでなでしてる時に、シュニーが戻ってくるだなんて」
その一時間前にはジェイドに強請って頭を撫でてもらった事実を棚上げして、少女は口に手をあてて、うふふ、と笑った。
「た……たぶらかして、ないから……」
おずおずと少女の背から顔を出して、見習い当主たる少年が困った顔で呟く。ごめんな、と申し訳なさそうな視線がシュニーにも向けられていたから、ジェイドはいいえ、と少年に対して微笑んだ。
「どうぞ、お気になさらず。……眠たくて機嫌が悪かったのも、あるようですから」
「……うん」
帰って来たばかりだもんな、とシュニーを気遣うように少年は言った。悪戯っぽい笑顔で、ほんとにそうかしら、と呟いている前当主と比べると、少年の方がまだ思いやりの心が分かりやすい。あなたはすぐそうやって、と息を吐く少年をじっと見つめて、少女は口に手をあて、くすくすと肩を震わせて笑っていた。
少女の意識はシュニーではなく、少年にだけ向けられている。こもりきりの少年が部屋から出てくる理由を作り、表情を動かして会話をする相手を招き、感情の揺れるさまに安堵と喜びを感じ、言葉が行き来するのを注意深く見つめている。ゆるり、ゆるり、息を吹き返すさまを。祈るように、すがるように、見つめている。
零れていくものを、堪え、押さえつけるようにくちびるに触れさせていた、白く細い指を離して。少女は、ジェイドに気が付かれていることを分かった微笑みで、あどけなく首を傾げてみせた。
「ところで。ジェイドくんは、シュニーを抱っこして運べるようになったの?」
「……『お屋敷』の中くらいなら。ここから、寝室へ行くくらいなら、どうかご心配なさらず」
「大きくなったねえ、ジェイドくん!」
ふふ、と笑って少女はふわりとあくびをした。シュニーの眠たいのがうつっちゃった、と呟き、少女はくるりと室内を見回す。全て運び終えたのだろう。運び手たちの姿はなく、夥しい数の反物がうつくしい色彩の波を描いていた。きれいな服ができるね、と幸せそうに呟き、それでいて悩むように、少女はうぅんと首を傾げる。
「でもお花はひとつ、かな。残りは……十だけど……ジェイドくんの卒業の方が、早いかも知れないね」
「構いません。待てます。……待ちますから、シュニーに無理はさせないでください。本人がそれを望んだとしても」
「……花?」
不安げに呟いたのは少年だった。深緑の瞳には、怯えに近いものすら浮かんでいる。はっとして、少女が息を飲んだ。花、という言葉に少年がなにを連想したのか、すぐ理解したようだった。悪戯な色彩が消え去り、当主としての冷静なひかりが少女の目に宿る。
なにを肯定し、なにを否定することもなく。少女はゆっくりと、あのね、と少年に語り掛けた。
「『お屋敷』にすこし、お金がないのは聞いているでしょう? ……シュニーが嫁がないことも」
ぱた、と窓が閉じられる。続いて扉も。少女の声は潜められていて『花嫁』らしく強く響かないものだったが、それは誰が知って良いことではない。頷いた少年に、少女はゆっくりと語り聞かせた。『お屋敷』が王と交わした約束のこと。シュニーが稼いでこなければいけない代価のこと。
言葉は選ばれていた。それでいて、ひどく冷たかった。少女は冷静な瞳で告げるべきことを語り切り、花というのは、と歌うように囁く。
「その対価を分かりやすく……というより、残りが、あとどれくらいなのか分かるように。表を作ってあるの。布に花の刺繍を入れてもらう形で。あとで、見せてあげる。……どのみち、今の財政状況を、あなたは詳しく知って行かなければならないのだし」
「分かった……。悪いのか?」
「悪くはないわ。シュニーが頑張ってくれたから、良くはない、くらい。……でも、これ以上、枯れてしまうことはない。あなたが……」
知っていて。どれほどのことが起きたのか、そこにどんな想いが失われて行ったのか、知っていて。それでも。少女は流れた涙を、血の雫を、拭うように。伸ばした指で、少年の頬を慈しむように撫でた。
「あなたがいきてくれて、よかった」
最後、だったのだという。当主の候補として育てられた『花婿』が。他に候補として挙がっていた『花嫁』『花婿』は、耐えきれずに皆枯れてしまったのだという。嫁げる者の数は必然的に減り、だからこそ、少女がお金がない、と口にするまでに至ってしまった。
でも、と少女は肩の荷を下ろした声で囁く。
「もうそろそろ、心配しなくてもいいの。次の世代も育ってきているし……ミードも『旅行』で、ずいぶん持って帰ってきてくれているから……。シュニーのと合わせて、ミードが……嫁げば、きっともう、大丈夫」
別れの悲しみから視線を逸らして。その先の幸福の末を、遠くに眺める表情で。少女はジェイドを見つめ、ふふ、としあわせそうに笑った。
「さ、ジェイドくんはシュニーを寝かせに行って? ここはもう、いいわ」
扉が開かれる。それを合図に、ジェイドは立ち上がった。腕いっぱいに『花嫁』を抱くジェイドのことを、女たちが眩しげに見つめている。当主の傍にある者は『傍付き』ではない。そうとは呼ばれない。呼称はただ変化して、側近として取り扱われる。
ジェイドは少女の傍に、その影のように控える女がその腕に『花嫁』であった存在を、幸福の全てを抱く所を、一度も見たことがなかった。少女がそれを強請る所も。いつも、すこしだけ距離がある。見習い当主の少年も同じで、ただ、それでも、目の届かない場所へ失ってしまわないよう、視線だけが姿を追っている。
いとしくて、くるしくて、さびしい。少年の瞳にも、少女の微笑みの中にも、同じ感情が漂っていた。罪悪感が胸で渦を巻く。ジェイドがシュニーにそんな目をさせてしまう日は、来ない。決して来ないのだ。少女はシュニーを許し、少年が『お屋敷』を継いだのだから。
おやすみ、と少年が言った。またね、と少女が手を振って見送る。歩き出すジェイドの背に、ふたりの声が響いて届く。当主たちはもう少し、この部屋へ留まるようだった。それじゃあ、貰ったものをどうやって使うのか説明するね、と少年へ囁く前当主の声は、ただ穏やかだった。
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