あなたが赤い糸:30


 でぇーきたぁーっ、と誇らしげに響くはちみつ色のふんわりした声が、作業の終了を高らかに告げる。ミードを脚に座らせたままじっと椅子役をしていたラーヴェが、えらいねすごいねかわいいね、かわいいミード、といつものように褒めやる言葉を聞きながら、ジェイドは読んでいた本を閉じて『花嫁』に歩み寄った。

 今年でジェイドと同じ十三になり、もうすこしで十四になるというミードは、相変わらず幼く見えた。十そこそこくらいにか思えないのは、体つきがちいさいからで、話し方がしたったらずで幼いからで、恐らくはラーヴェがそういう趣味だからである。

 はいっ、どうぞっ、とこの上ない自慢顔で差し出される、刺繍を終えたばかりの布を受け取りながら、ジェイドは『花嫁』を遠慮なく年下扱いする態度で、ありがとう、と微笑んだ。

「ミードさまのおかげで、だいぶ華やかになりました」

「でしょーうっ? あのね、刺繍は得意なの!」

 布には点線で四角い枠が作られ、その中に一凛、花が縫い留められている。ジェイドは己の身をつつんでもまだ余裕がある大きな布をひといきに広げ、咲き続ける花の数を確認した。上の端から順にぽつぽつと並べられていく花は、もう何段にもなり、規則的な模様となって広がっていく最中だ。

 ラーヴェに腕の様子を確認されながら、『花嫁』は己の成した結果をしげしげと見つめて。関心しきったように、たくさんあるね、と言って頷いた。

「しゆーちゃん、たくさん『旅行』に行くものね……。今のも、帰ってきたら、またお花をつけてあげる」

「……はい。ありがとうございます、ミードさま」

 布は、当主がジェイドに与えたものである。シュニーが得られる筈だった報酬が『旅行』によってどれくらい回収されているか。また、残りが分かりやすいように表にしたものである。はじめは単純な紙で、簡易に丸を付けていくだけのものだったのだが、見咎めたミードが可愛くなくっちゃだめだめと主張して、今の形になったのである。

 旅行に出た数だけ、刺繍の花が枠を埋めていく。あるいは、当主の少女が今回はふたつ、と言い添えてくることもあった。シュニーは優秀な『花嫁』である、と誰もが苦笑する。貢ぎ物の量は回を重ねるたびに増えるばかりで、それは本人の努力と、元『傍付き』たちが留飲を下げる為にあれこれ仕込んだ結果である、とジェイドは知っていた。

 もういくつ、花が咲いたのかを数えるのはやめにした。残りの数は十六の枠。最短五年の約束まで一年半がないことを考えれば、ぎりぎりで達成できるとも、できないとも、どちらのようにも思えた。無理を重ねて『旅行』へ行くくらいなら期間を延ばせばいいとも思うのだが、すでにシュニーは十五になっている。

 十五を境に嫁ぐのが『花嫁』の習わし。年明けで十六、約束までに十七。それ以降となれば、『旅行』先の者は不審がり、あるいはそのまま迎えようともされかねない。『お屋敷』の、事情を知らぬ『花嫁』『花婿』たちも、さすがに首を傾げるだろう。その不思議さは、放置しておくのは危険なものだ。

 成長した『花嫁』は、正しく嫁がねばならない。この国と、民と、命と生活と、制度の為に。それを途絶えさせてはいけないのだと、ジェイドは数年のうちに痛感していた。ジェイドとシュニーが認められたのは、特例で、正しく当主の恩情に他ならないことも。

 考え込むジェイドに、ミードは遅れてごめんね、と申し訳なさそうに囁いた。

「ミードも、りょこに行ってたから……。しゆーちゃんは、元気にしてる? お熱を出したりしていない?」

「はい。ミードさまも、お熱が下がられて本当によかった」

「ありがとう……。いいなぁ、みぃも、しゆーちゃんみたいに、りょこから帰ってもお熱が出ないようになりたいの……。あのね、らーヴぇが心配するでしょう?」

 嫁ぎ先の選定は、すでに始められている。ミードは『最優』の『花嫁』であるのだという。より良い場所に迎え入れられるべく、協議を重ねに重ねた場所だけへ向かわされているとは聞くが、それでも『旅行』とは単純に、『花嫁』の負担に他ならない。

 多少歩けるように育てた分、シュニーは他の『花嫁』より体力があるし、ジェイドが常に控えてはいられないから精神的にも強い。その強さが、ミードには憧れとして映るらしい。だってお役目も果たせているし、お熱を出したりもしないでしょう、と羨ましがるミードに、ジェイドは微笑するだけで言葉を重ねなかった。

 この幼く、愛らしく、うつくしくもいとけない『花嫁』が、嫁いでいく先の候補として。ジェイドの生家の名が挙がっている事実を、極力考えないでいる。もう戻ることのない場所。あの場所へ、『花嫁』が行くのなら、それは生家にとって幸福であるのだろうか。失ったジェイドの代わりには、成りえないとしても。

「……ラーヴェは、あなたが健やかでいることを、願っているのであって。熱が出るのが嫌なのではありませんよ。熱、あるの、辛いでしょう? 辛いのが、なるべくありませんように、と思っているだけです。そこを、間違えないであげてくださいね」

「うん。……ねえねえ、らーヴぇ。ぎゅっとして?」

「はい、ミード」

 抱き寄せ、己の『花嫁』を取り戻した『傍付き』が、ゆるく安堵の息を吐く。じわじわと心を浸していく申し訳なさに、ジェイドはふたりから視線を逸らした。ふたりの別れの日は、シュニーが役目を終えるよりも早いかも知れない。二度と会えなくなる日が、もうきっと、すぐ傍まで来ている。

 ふたりに、してあげなくては。刺繍でミードの時間を使わせることすら、心苦しいのだが。他の人に頼むと言ったら他ならぬミードが猛烈に怒ったので、また次もお願いすることになるだろう。この布を花で埋め終えるまでは、どこにも行きたくない、行かないでいいのだ、と。

 せつない祈りを持っていることを知っていたから、もういいよ、と取り上げることはできなかった。

「それでは、俺は、これで……ミードさま、ラーヴェ。ありがとうございました」

「いいえ。……ジェイド、今日はこれで?」

「はい。すこし部屋を整えてから、『学園』に戻ります。シュニーが帰ってくるのは、まだ先のことですし……待っいても、帰ってこない、というのは、やはり、落ち着かなくて。勉強は気が紛れますから」

 それでも。この別れが最後かも知れないと思いながら、見送り。帰りを待つ『傍付き』に比べれば、どんなにか楽だろう。すみません、と呟くジェイドに、ラーヴェは苦笑して首を振った。その別れを理解していて、それでも、一瞬でも長く、その時までは傍に居たいと願ってなるのが『傍付き』だ。

 また顔を出したら声をかけてくださいね、と告げられて、ジェイドは素直に頷いた。またね、と一言を、どこか切実に告げるミードに、また、と微笑みかけて部屋を出る。また、と言って、会えなくなる日がやがて来る。明日ではないし、明後日でもない。来月はもう、分からなかった。

 送り出したラーヴェに、おめでとう、と声をかけることができるのだろうか、とジェイドは思う。大丈夫。お前の『花嫁』は幸せになるよ、と。心から告げることはできるのだろうか。祈りを。受け取って貰えるかも、分からなかった。ジェイドの『花嫁』はいなくならない。そのことを、くるしく思う日が来るなんて、思わなかった。

 どこか落ち着きのない雰囲気に眉を寄せながら、ジェイドは当主の部屋へ顔を出した。布を預けて、シュニーの部屋に風を通して帰ります、と告げる為だ。伺いを立てて入室した少女の部屋に、ジェイドは眉を寄せて立ち止まる。常であれば当主たる少女と、その側近の女ふたりだけであるのだが、人数が多い。五人いた。

 幸いなのは、誰もジェイドに排斥の視線を向けなかったことだろうか。見慣れない者のひとりは、当主が『花嫁』であった頃に世話役をしていたと聞いたことがあるから、他もそうなのかも知れない。布を持ってきました、と告げるとひとりが歩み寄り、どこか恭しい態度で受け取ってくれる。

 少女はどこかぼんやりとした眼差しで、ソファに座ったまま動かなかった。側近の女の手を握って、俯いている。ジェイドの入室には気が付いているようで、視線は向いたが、幾度か動いた唇が声を成すことはなく。女がなにかをそっと囁くと、一度、ちいさく頷いてまた眼差しを伏せた。

 すみません、と布を受け取った男が言った。今日はこれで失礼を。ジェイドは少女を見つめたまま、問うことなく頷いた。理由を告げられぬなら、知らないままでいた方がいいことが、『お屋敷』には多い。部屋に風を通して帰ります、と告げると、少女は無言で頷いた。女の手を握る、その指が。蒼褪めて震えているように見えた。

 心配なのは確かだから、お健やかに、と室内の誰にもそう告げる。集まっていた者たちは一様にほっとした表情で、ありがとう、とジェイドに告げた。理由を聞かないでいてくれることに。心から、安堵したようだった。輪唱のような囁きが消えぬ間に一礼し、部屋を出ようとした瞬間だった。

 鐘が鳴る。聞いたことのある、『花嫁』を送り出す祝福の音とは、違う。重たい響きの鐘の音が、一度、二度、三度。四度鳴って、それきり消えた。幾何かの空白。『お屋敷』のどこかから、わっと歓声があがる。遠くて、なんと言っているかまでは、ジェイドには分からない。

 けれど、室内の者には。当主たる少女には、それが分かるのだろう。ああ、と少女が吐息を零して震えながら呻く。その声は。

「……わたしの。次の当主が……決まったのね……」

 祝福ではなく。ただ、懺悔のようだった。

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