あなたが赤い糸:18



 首都から離れたある都市の宿で。ジェイドはいきなり拘束された。やってきた者たちは、どこか見覚えのある男たち。ぽかんとするジェイドに、男たちは苦しげな顔をして告げた。『お屋敷』に戻ってください、今すぐに。間違いだと分かればすぐに解放します。間違いだと分かれば、と言葉が繰り返された。なにを言っても、それしか答えて貰えなかった。

 数日ぶりに訪れたその場所の空気は、全く違った者だった。歓迎と喜びを持ってジェイドを見ていた筈の瞳は、猜疑と恐怖にすら彩られ、誰もが遠巻きにひそひそと言葉を交わしていた。捕らえられた盗人のようだ、と感じてそれを口に出すも、帰ってくる言葉はひとつだけ。間違いだと分かれば。

 ジェイドは旅の汚れを落とされ、服を着替えさせられた。許可なければなにもするなと言い含められて、連れて行かれた場所で、ひとりの少女が泣いていた。寝台に身を伏せて、入って来たジェイドたちに顔を向けることもなく、なにかをずっと訴えて泣き続けている。『花嫁』だ、とジェイドはすぐに分かった。

 たとえ、寝台を取り囲む世話役たちがいなくとも、一目で理解しただろう。ジェイドよりすこし年上の『花嫁』だった。十にはなっていないだろう、と思った。気が付いた世話役たちが振り向き、忌々しそうにジェイドを睨みつける。その中に、逗留で見知った顔はひとつもなかった。それを、なぜか救いのように感じて、ほっとしたことを覚えている。

 ひとりが、泣き伏す『花嫁』に身を屈めて囁いた。なんと告げられたのかは分からない。『花嫁』はぱっと身を起こして、泣き濡れた瞳でジェイドを見た。柘榴のような赤い瞳と、真っ白な髪をした、いとけなく愛らしい少女だった。あ、と声を出して少女は瞬きをした。

 あ、あっ、と恥じらうように泣いて腫れた瞼に指先を押し当てて。言葉の出ない様子で何度も、何度もくちびるを動かした。視線はジェイドだけを見ていた。やがて、そろそろと両腕が持ち上げられる。ジェイドに向かって。

『こっちに来て……?』

 その瞬間の。世話役や案内人たちの絶望的な溜息と表情は、全てジェイドに向けられたものだった。嘘だろう、まさか、そんな、と呻く声はいくつも聞こえた。少女はそれに目も向けず、一心にジェイドだけを見つめて、腕をふるふると震わせていた。ジェイドが近くに行くまで、腕を下ろすつもりはないようだった。

 困惑しながら駆け寄り、そっと手を繋いで腕を下ろさせてやる。とろけるように、少女は笑った。

『あの……あの、あの、私、シュニーって、いいます。あなたは……?』

 名乗るな。お願いだから名乗るな。いいから絶対に名乗るな声を出すな、という求めを無視したのは、これに至ってもなんの説明もされないことに、ジェイドが怒っていたからだった。どうしてこんな目に合わなければいけないのだろうと思いながら、ジェイドは少女に名を名乗った。ジェイド。翡翠。宝石の名を告げた。

 少女はそれを宝物のように何度も、何度も繰り返して。ジェイドの手を包み込むように握って、少女は懇願した。

『どうか私を、シュニー、って呼んで……?』

 呼び返す前に。ジェイドは部屋の外に叩き出された。どうしてこんなことに、まさか嘘だろう、こんなことが、まだやり直せるかも知れない、シュニーさま。悲鳴じみた言葉がいくつも響き、混乱の中、シュニーがジェイドを求める泣き声が響いていた。いやいや、あのひとなの、あのひとがいいの、会わせて、連れて行かないで。ジェイド。

 一月逗留していた部屋に連れ戻され、そこでようやく、説明がされる。シュニーが『砂漠の花嫁』であること。どこかでジェイドを目にしたらしいこと。数日前から名も知らぬ誰かにもう一度会いたい、と繰り返しては周囲を困らせていたこと。特徴から、その誰かがジェイドである可能性が高く、それ故に戻ってきてもらったこと。

 そろそろ『傍付き』を選ぶ段階であったこと。それなのに、まだ候補を絞り切れていなかったこと。『砂漠の花嫁』が候補たちの中から『傍付き』を指名すること。その指名の方法が、名を呼ぶ許可を与えること。『花嫁』として呼ぶのではなく、様をつける敬いを受け入れるのではなく。その名だけを、呼んで欲しいと。誰かに求めること。

 まさか、とジェイドは言った。祖父から『傍付き』のことも伝え聞いていたからこそ、信じられない気持ちが先にあった。名前も知らない、たった一目見ただけの相手を。『傍付き』に選ぶなんて。なにかの間違いだ、と誰もが言った。『花嫁』がそれを誤ることなどないと、誰もが、知っていながら。それは否定された。選ばれたジェイドにすら。

 三日三晩、泣いて、泣いて、どんな慰めの言葉にも落ち着くことはなく。シュニーはジェイドを求め続けた。ようやく知ることのできたその名を呼んで。会わせて、と訴え続けた。会わせて、お話させて、あのひとがいいの、あのひとが。遠くから見ただけ。でもその時に。その時から、ずっと。あのひとだって思ったの。名前を呼ばれたいと思ったの。

 その三日間で。ジェイドは殺気立った『お屋敷』の、運営と呼ばれる者たちに引き合わされ、あくまで間違いだと否定されながらも小言のような教育を受けさせられた。『花嫁』とはなにか。本当ならば話すことも、顔を見ることすら叶わない相手に。もう一度会って。別れを言わされる為の準備としての三日間だった。

 あるいは、シュニーが諦め、勘違いだったと思い直す為の。祈りのような三日が過ぎた後、ジェイドは風呂に放り込まれ、真新しい服に着替えさせられ、もう一度シュニーの元へ連れて行かれた。三日間。泣き続け、食事も睡眠も満足に取っていない少女は、ひどく蒼褪めて震えていた。ごめんなさい、と繰り返すばかりの声は掠れていた。

『……シュニーさま』

 ぱっと顔を上げた少女が。震えながら、泣きながら、笑う。ジェイドに向かって。とろけるような笑顔で。それに、ジェイドは思わず笑ってしまった。泣き声は廊下にまで響いていた。胸が苦しくなるくらいの声だった。それなのに、シュニーはジェイドが現れただけで、名をちょっと呼んだ、それくらいのことで、幸せそうに笑うのだ。

 嬉しい、と全身で告げられる。瞳の輝きが、赤らんだ頬が、ジェイドへの好意を告げている。そんな風に恋い慕われて、好きにならないでいられる者は、あるのだろうか。突き刺さる視線で心は傷ついた。それでも、あえて無視して、表情には出さないで。ジェイドはそっとシュニーの傍まで近づいて、座り込んだ。

 覚悟があったのかと問われれば、その時にはなく。ただ、少女への育ち始めた好意だけが。ジェイドに、言葉を告げさせた。

『……シュニー』

 名を。

『そんなに、俺がいいの?』

 呼んで。問いかけたジェイドに、シュニーは無言で抱き着いた。受け止めきれず、倒れてしまったジェイドに抱き着いたまま離れず、シュニーは泣きながら繰り返した。あなたがいいの。あなたが。ジェイド。一目見た時から。あなたが好きなの。好きになってしまったの。ねえ、お願い、傍にいて。どこへも行かないで、離れないで。

 わたしのことをすきになって。

『あなたの『花嫁』になりたいの……』

 頷いてしまったから。受け入れてしまったから。ジェイドは、家に帰れなくなった。幸いなのはジェイドが後継ぎでなかったことと、手紙を書くことは許されたことだろう。検閲があったにせよ、それはジェイドの心を大いに慰めた。孤立無援の状態に立ち向かうには、ジェイドはまだ幼かった。残してきたものが、ありすぎた。

 ジェイドを『傍付き』の候補として受け入れ、教育をしていくことは一方的に決められた。来る日も来る日も座学に実技、目まぐるしい教育の日々。同じ教育を受ける者はジェイドより幼いことも、年上であることもあったが、共通しているのは仲間意識から来る敵意だった。同じ候補と呼ばれても、ジェイドは彼らの仲間として受け入れられることはなかった。

 半年が過ぎ、一年が巡っても、仲間と笑い合う日は来なかった。敵意ばかりを向けられる日々だからこそ、シュニーの存在は救いにもなり、重荷にもなった。可愛い、と思う。望むことは叶えてあげたい、とも思う。けれども、愛しているのかは分からなかった。恋はしていなかった。大切にしたいとは、思っていた。大事にできているかは、分からなかった。

 その曖昧さを。思いきれない心が、ふと楽になったのは夏の前。初夏の頃。前触れもなく、現れた妖精がジェイドへと告げた。君は同胞。魔術師の卵。これから、学園へ向けて旅立たねばならない。そこにジェイドの意思はなく。行かないで、と泣くシュニーを置いて、ジェイドはひとり旅立った。『学園』へ向けて。

 『花嫁』を残して。

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