暁闇に星ふたつ:82


 暗闇を照らす灯篭がひとつ、机の上に置かれている。雑多に物が置かれる中、作業をする場所だけが整えられていた。男の手が、針に通した糸を切る。深い疲労が吐息と共に、男の体を背もたれに預けさせた。目を閉じて手で顔を覆い、つかの間の薄闇に安らぎを知る。

 どれくらいぶりに目を閉じただろう。

「……おつかれさまでした、ユーニャ先輩」

 呼びかけられた言葉が己へ向けられたものだと、男が理解するのにしばらくかかった。それほど、誰にも名を呼ばれることがなかったからだ。そしてようやく、終わったのだ、と理解する。じわりと滲み出してくる喜びのままに微笑して、ユーニャはゆっくりと目を開いた。

 振り返る。闇の中に立つ男も、笑っていた。

「ロゼア」

 年老いた英知さえ感じさせる穏やかな赤褐色の瞳を、覗き込みながら言葉をかける。何年経過しただろう。外界と切り離されたこの場所に、時の流れはあるようにも感じたが、失われたままだ。この部屋は、閉ざされ、隠され、切り離された。世界のどの輪廻からも。どの祈りからも。

 そうすることでしか守れないものを、大事に隠して。そしてようやく、完成させたのだった。

「これでようやく、俺たちも眠れるね」

「はい。……間に合った、でしょうか」

「分からない。まだ分からないけど……大丈夫だよ。きっとあの子が来てくれる」

 可愛かったね、と囁くユーニャに、ロゼアはやや緩んだ笑みで頷いた。もちろんソキであるなら、いつどんな時でも可愛いのは間違いないのだが。ごめんなさい、ゆるしてくださいです、と力なくえくえくと泣いて腕の中に納まりきるさまは、それはもう本当に愛らしかった。

 あれが、繰り返す消滅を受け入れた世界たちの希望。唯一残された時の果て。そして恐らくは、最後の。

「……きみも、ようやくまた会えるよ。嬉しいね」

 ユーニャが語りかけていたのは、机の上で修復を終えたばかりの一冊の本だった。緋色の帆布で作り直された、上製本。魔術師の『武器』たる一冊である。この『本』を蘇らせる為に、ユーニャたちは全てを賭けた。そして、正しく報われた。

 これがソキの手に渡れば、それで。絶えた世界の祈りが、報われる。

「……驚かれないといいけど」

 くすくす笑うユーニャの視線を受け、『本』は柔らかな魔力の光を発して、明滅した。抗議のようであり、恥ずかしがっているようでもあった。無言でロゼアは目を細め、机に歩み寄ってそれに手を伸ばす。『本』の表面を二度、三度、指先で撫でて。

 胸のつかえを出すような声で、囁いた。

「ソキを……よろしくお願いします」

 もちろん。必ず。絶対に。今度こそ。任せて、と。囁くように、歌うように。光は淡く明滅し、音のない、時のない、暗闇が降りるばかりの部屋を照らし出していた。




 ふにゃにゃーんっ、とソキの声が談話室に響き渡る。上機嫌な、はしゃぎきった、ふんわほんわ響く、聞く者をもれなく微笑ませやわりと脱力させる甘い声だった。談話室の一角で勉強会を開いていた少女たちは目を瞬かせ、ある者はそちらを振り返り、ある者は思わず口に手をやってくすくすと微笑む。そんな穏やかな空気の中で、ひとり。

 ルルクはふあっ、と声をあげて勢いよく椅子から立ち上がり、取るものも取りあえずソキの元へ駆け寄っていった。

「えっ、はいなになにどうしたのっ……?」

 いやお前がどうしたんだ、という談話室の視線を一身に浴びながら、ルルクはソファの上できゃっきゃとはしゃぐ、ソキの元へ辿りつき、眼前にしゃがみこんだ。妖精は頭の痛そうな顔でルルクを睨んでいたが、ソキの胸の上に寝転がっている為に様々な説得力が消滅していた。

 なんでこんな所にいるんだろう、ではなく、まあそこ気持ちよさそうですものね、と一定以上の理解を得ている微笑で頷き、ルルクはロゼアから微妙に視線を逸らしたまま、きゃんきゃんはしゃいでいるソキにもう一度問いかけた。

「ソキちゃん、なに?」

『……一応確認してやるけど、アンタなんであれで来るのよ』

「えっ……? ああ、講習で、ソキちゃんがなんかこう、こんな感じのふにゃうにゃした声でちたちたしてたらこっち来てくださいですよ、の集合の合図だから覚えるようにって聞いてて……?」

 でぇっしょおおおお、とばかりソキがふんぞりかえる。心行くまで自慢げなソキを膝の上に抱き上げたまま、ロゼアは微笑してルルクへ問うた。

「誰ですかそれ言ったの」

「えっ、め、メグミカさん……」

「メグっ……!」

 優秀な手下が増えたことを喜びなさいよどうかと思うけど、という妖精の視線を受けても、額に手を当てたロゼアは返事をしなかった。そこでようやく、なにか苦悩していることに気がついたのだろう。ロゼアとルルクをきょときょと見比べ、ソキはぱちくり瞬きしながら、ちょこ、とちいさく首をかしげる。

「ロゼアちゃん? どうしたの? ……あ、きっと、人数が足りないです!」

 ふにゃにゃーんっ、とソキが甘い声でちたちた手足を動かした。え、なになに行けばいいの、と会話を漏れ聞いていた談話室の生徒たちが、ざわめきと共に移動する中。ぱっ、と廊下から繋がる扉を開けて室内に飛び込んできたユーニャが、首を傾げながらも早足で、ソキの元へ駆け寄ってくる。

「お姫ちゃん。なに? ロゼア、どうかしたの?」

『アンタもなぁんでそれで……いや、いいわ。答えなくてもいいわ。ほらソキ、よかったわね。これくらい居れば十分でしょう?』

 さっさと説明しなさいよと妖精に促され、ソキはきょときょとと聴衆と化した先輩たちを見回した。談話室のほぼ全員が、ソキとロゼアの座るソファを、ぐるりと取り囲むようにして集まっている。ふふふん、とソキは心行くまで自慢いっぱいな顔をして、こくり、と一度、深く頷いた。

「これで説明ができるです。ロゼアちゃん? ソキ、えらい? すごーいでしょう?」

「すごいな、ソキ。可愛いな」

「でしょおおぉ……?」

 きゃぁんきゃんきゃんろぜあちゃあぁああっ、とご機嫌にはしゃぎきった声を響かせて、ソキはぴとっとロゼアに抱きつきなおす。腕いっぱいにやんわりと抱き寄せ、髪を撫でて息を吐くロゼアに、胸の上から退避した妖精は忌々しそうな眼差しで舌打ちをひとつ。

『いちゃついてないで説明しなさいよ』

「せつめ……? ……あ、そうでしたややんややん違うですううう忘れてたじゃないですううソキちゃんと覚えてたぁ……!」

 妖精の、空気を電気的に痛ませる、ぴりっとした怒りを感じたのだろう。大慌てでロゼアの膝上にもちゃもちゃと座りなおし、ソキは居並ぶ魔術師のたまごたちに向かい、これですぅーっ、と勢い込んで白い帆布の本を掲げて見せた。文庫本より一回りちいさな、ソキの『武器』である。

 うん、といまひとつ理解が辿りつかない呟きで、ルルクが口元に手をあてた。

「なにか説明してくれるの? ……それなに?」

「ソキのぉ、よちまじゅちしの武器、使い方講座ー! ですぅー!」

『やりなおせ』

 冷淡な口調で妖精が吐き捨てる。えええ、とぷっぷり頬を膨らませ、いまなにか間違った所あったかなぁ、と不思議がる表情で、ソキはしぶしぶ言い直した。

「予知魔術師のぉー! 武器、使い方講座、でーすぅー!」

 ようやく『武器』の使い方を習ったのでお披露目したかった、というのが、ソキが先輩たちを呼び集めた理由であるらしい。よくわからないソキの説明と、それを分かりやすく補足するロゼアの言葉によってようやく理解を得た顔で、各々の視線がソキの本へ集中した。

 一見、ただのちいさな本である。数秒の沈黙。えっ、と誰かが戸惑いきった声をあげた。

「使い方知らなかったの……?」

「だぁれもソキに教えてくれなかたです。しょくむたいまんです。いけないです」

 ぷりぷり怒っているソキに、怠慢だったのはお前だと怒るのも諦めたのだろう。はいはいそうねいけないわね、と心底適当に同意してやり、妖精もまた、白い本に視線を落とす。忘我の集中を終え、見守っていたロゼアと妖精に、ソキは説明をするです、と言った。どう告げられたのか、言葉を口にするのではなく。

 よいせよいせ、とまずロゼアの腕を引っ張って、その手をぽんっと白い本の上に乗せさせた。一同が見守り、ロゼアがなぁに、と微笑し問うのに、ソキはふふんとなぜか自慢げに言い放つ。

「ロゼアちゃん? 魔力ちょーだい?」

「……俺の魔力? ソキ、本の使い方を俺に教えてくれるんじゃないの?」

「使い方こーざなんですぅ」


 はやくぅはやくぅ魔力ちょうだい、ご本にね、魔力をね、にゃーってするです、と聞いていた妖精が額に手を押し当てて呻く説明であっても、ロゼアは特別おかしいと感じないのだろう。不思議そうにしながらも頷き、うん、と告げた指先から、ほろほろと魔力が零れ落ちていくのを妖精と、魔術師たちは感じ取る。

 無言で、妖精は視線を持ち上げ談話室の天井を見た。梁の近く、ひっそりと。息を殺し、気配を潜ませて、シディがじっとロゼアのことを観察している。灯火のような魔力を宿す、羽根のまたたき。異変はない。感じ取れない。今はまだ。安全とは言いがたく、思いがたく、けれど。

 妖精が知覚できる異変さえ、表層には表れていない。おかしいとは感じとれても、そのおかしさに触れられない。大丈夫、大丈夫。今はまだ。言葉にならぬ意思、魔力の揺らめきとしてそのことを伝え、けれどもシディは降りてこなかった。部屋の高く。澄んだ空気の中にひっそりと、その身を置いている。

 そこに、己の案内妖精が観察のまなざしでいることを、ロゼアが知っているかどうか。感じ取っているかどうかは、分からないことだった。ふ、と息を吐き、妖精は視線をロゼアとソキへ戻す。その体の周辺。漂う空気に、零れたロゼアの魔力があれば、それを見るつもりだった。そのつもりだったのだが。

 漂う魔力の一欠片もない。ぎょっとして、妖精はロゼアとソキ、白い本に視線を何度も往復させた。ほろほろ、陽だまりで口にする砂糖菓子のように。ロゼアの魔力が指先から、求められるまま零れ落ちた気配を、妖精も確かに感じたのに。ロゼアも、なにか変だとは思ったのだろう。訝しむ顔で己の手を眺め、ソキ、と静かな声で淡い『花嫁』の名を呼ぶ。

 その声に。ふふふん、とソキは自慢いっぱいの声でふんぞり、ロゼアから白い本を受けとってぱらぱらとめくりだす。目的の一説を見つけ出したがる幼子の瞳が、なにも書かれていない紙面を探し、やがて。あったですうぅっ、とほわふわしきった声が発表し、ずいっ、と注目の前に、開いた本を差し出した。

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