暁闇に星ふたつ:81



 みてみてみてくださいですこれはひどいことですううう、と図書館から帰って来たソキに憤慨しながら本を押し付けられても、妖精はなにがよ、と胡乱な目で首を傾げた。妖精の目から見ても、ソキが持つ本はアスルっぽい絵文字が並んでいるばかりだったからである。このアスル大行進のなにがひどいのと問いかければ、ソキはふにゃああやぁああっ、と怒りきった声をあげた。

 ロゼアの腕の中でばたばたしきりに暴れて抗議するも、床に降ろされる気配はない。危ないだろ、とたしなめるロゼアを睨みつけ、だったら降ろせと言いたくなる気持ちを妖精は堪え切った。言っても言っても、ロゼアはソキを抱き上げたままである。無駄な言葉は重ねるだけ無駄である。無駄なことはしたくない。言って理解するだけ、ソキの方がロゼアより幾分ましである。

 理解したからといって実行するとは限らないのだが。

『……で? ソキはなんで怒ってるのかしら?』

 説明しなさいよそれがアンタの役目でしょうがと暗に込めて問いかけてやれば、ロゼアはソキを抱き寄せ宥めながら、やや幸せそうに緩んだ笑みで告げて行く。ソキにまつわる物事の責任を求められるのも嬉しいのかコイツ末期だなと心底苛々しながら、妖精は要点だけを拾い聞きして、頬をぷっぷくさせるソキの、手にしっかと持たれた本を見る。

 つまり、ソキにだけ読まれる文字で書かれているらしい。妖精はソファに腰かけたロゼアの肩の高さへ降りながら、ソキの拗ねた視線に腕組みをした。

『いいじゃない。よいこの魔術師学習帳だか、伝言帳だか知らないけど。要は理解できればそれでいいの。それで? 本の中身はもう読んだの?』

「ちーさいこむけだもん……。ソキはちーさいこじゃないから読まないんですぅ……!」

 すっかり拗ねている。読まないです、読まないもん、とぷんぷん訴えるソキに、ロゼアはでれでれとした表情でそうだな、ソキの思うようにしような、と言っている。なにがそうだなだこのむっつり、と妖精は我慢せず言い放った。ソキに『武器』なんていらないよ俺が守るからいいだろ、とか思っているに違いない。

 妖精はソキの目の前に移動し、穏やかな響きを心がけて口を開いた。

『いいこと? ソキ。そうやって怒っているうちはまだちーさいこよ。アンタもロゼアも。教員たちだってね、アタシたち妖精からすれば発芽したばっかりの種と一緒よ。まだちーさいの』

「そき、お花咲かないもん。お花じゃないんですーぅー」

『……誰かしらねぇ、ロゼアの『花嫁』だとかなんとか言ってるのはねぇ』

 ぷくぷくの頬を膝でぐりぐり突っつけば、いやいやいやいや、とソキが身じろぎをする。息を吐き、妖精はとにかく、とアスルが大量に転がっているとしか見えない本を、びしっとばかり指さした。

『アンタが今やるのは、拗ねたり怒ったりすることじゃなくて、予知魔術師の勉強! 勉強しろ!』

「りぼんちゃ? ソキのぉ、しろほんちゃんはぁ? どこぉー?」

『はい、こちらですよ。長くお借りしていてすみませんでした、ソキさん。ありがとうございました』

 妖精の怒りとソキの癇癪がひと段落するのを待っていたのだろう。安全圏の天井高くからひらりと舞い降り、シディはソキに白い本を差し出した。ルノンとニーアは、砂漠の国へとまた行ったのだという。ナリアンとメーシャの帰りは、今日も夜遅い。『よいこのまじゅつしでんごんちょう』を膝に置いて白い本を手にするソキに、妖精は勉強、と口うるさく言い聞かせた。

 この白い本がなんであれ。予知魔術師のソキの『武器』が、これである。扱えるようになって悪いことはない筈だった。

『ほら、アンタが音読してくれたら、アタシも一緒に考えてあげるから。ね?』

「……ソキ、音読できるです。おねえさんです」

 音読、という言葉が琴線に触れたらしい。やや自慢げに頷いたソキが、ロゼアの膝に座り直し、『よいこのまじゅつしでんごんちょう』を手に取った。白い本は傍らに。上にぽんとアスルを乗せて、ソキはえへん、と胸を張って本を開く。

「おねえさんですから、リボンちゃんに音読をしてあげるです。おねえさんですからぁ!」

『……よいこのまじゅつしでんごんちょうくせに』

 ソキは妖精の言葉をまるっと聞き流し、きらきらした目で本へ視線を落とした。息が吸い込まれ、待つことしばし。訝しげに見やる妖精に、ソキは目をぱちくりさせて首を傾げる。

「……んん?」

『なに? まさか難しい漢字があるの? 読めないの?』

「違うです。違うです……これ、えっと、本が……えっと、文字、あるですけど。そうじゃなくて、本が、声が」

 話している。歌っている。耳元でひそひそ、内緒話を笑いながら告げるように。遠く、近く。傍で、それでいて離れた場所から。声が囁く。言葉が歌う。紙面を文字が駆け巡る。瞬きごと、読み進めるごとに文字が現れては消えていく。声に出す余裕もなく。待って、待って、と急いで言葉を追いかける。それだけを見て。走って、走って、追いかけるように。

 言葉だけを追って行く。

「ソキ!」

 ぱっ、と視線をあげる。呼吸と、言葉を思い出すのに、時間がかかった。半開きにしたくちびるで、ひぅ、と息を吸い込む。途端に、息苦しさを思いだした。何度か咳き込んで息をするソキを、ほっとしたようにロゼアは抱きなおす。ぎゅ、と全身を包むように抱かれ、とん、とん、と背が叩かれた。

「落ち着いて読もうな……。どうしたの。そんなに面白いこと書いてある?」

「……ううん」

 ひそひそと内緒を囁く声。懐かしい、それでいて聞き覚えのない歌を囁く旋律は、どこかへ消えてなくなってしまっていた。遠くでまだソキのことを見ているのが分かるけれど。声が聞こえない。瞬きをして視線を落とす。開かれたページにはなにも書かれていなかった。真っ白な見開き。じっと見つめて、ソキはもう一度、ふるふると弱く首を振った。

「なんでもないの……大丈夫です。大丈夫ですよ、ロゼアちゃん。リボンちゃん。シディくんも」

『……無理をして読まなくていいのよ、ソキ』

 強張った顔をする妖精は、読書を勧めたことを後悔しているようだった。本を閉じなさいと言うべきか迷っている顔つきに、ソキはもう一度大丈夫です、と頷く。上手く言葉にして説明することができない。もどかしく思ったが、危なくない、ということだけ、ソキはロゼアにも妖精たちにもしっかりと伝えた。聞こえた声は、予知魔術師のものだった。かつて生きた予知魔術師の声だった。

 予知魔術師の伝言帳。声を、言葉を、意思を封じ込めた本。生きている、生きた、予知魔術師の写本。今はそっと口をつぐんでしんとしているのは、開かれるのが久しぶりで、それでいて、開かれる間隔が短くて、誰もかれもが興奮してしまっていた為だ。大戦争時代ですら、予知魔術師が二人も、同じ場所に揃っていることは稀だった。

 敵同士として出会うか、あるいは、一人が死んでから引きずりだされたか。予知魔術師は常に兵器だった。二人いれば、ひとりは、ひとりの、予備だった。鉄格子から出られる日を願いながら、その日が来ないことを祈り続けた。外に出たい。でも。死なないで、死なないで、どうか。顔も知らない同胞よ、どうか。未だ知らぬ青空の元で、それでもあなたは生きていて。

 願いはいつも塗りつぶされた。リトリアも、それを知っていた。だから。会えないと思っていた、とソキを迎えに来た日に、あの馬車の終着上で。笑ってくれたのだ。それは予知魔術師の悲願であったのかも知れない。同じ適性を持つ魔術師に、出会って。手を差し出して、握って、笑って、よろしくね、という。たったそれだけの簡単なことが。当たり前のことが、ずっと。

 予知魔術師には許されていなかった。

「ゆっくり……お話、してくださいです。それで、でも、今は、ソキの知りたいことを、誰か……知ってるひとは、教えて、ください」

 そっと本を撫でて。同胞の意思に触れて。ソキは静かに囁いた。妖精たちも、ロゼアも、なにがあるのかと訝しく本を見つめる。ソキはまだ説明する言葉を持たずに、もどかしくて、それでいて満面の笑みで自慢したい気持ちで、そわそわ息を吸い込んだ。あのね、皆なの。写本なの。予知魔術師の。声と、意思と、言葉と。心があるの。生きてたの。生きてるの。

 夥しい血と屍と牢獄を超えて。予知魔術師たちは生きた。自由な言葉などひとつも持たず。告げるその全てが魔術だった。声も言葉も、声ではなく、言葉ではなかった。いつか、いつか、と未来を願った。やがて来る未来を、希望を信じ続けた。もしその日が来たら。声を声として。言葉を言葉として。話せる日が来たら。一度も知らない、そんな日が、来たら。その時に。

 あなたになにをはなしてあげられるだろう。なにを、残してあげられるだろう。祈りの果てに予知魔術師が作り上げ、何者からも隠した写本に。そっと、そっと、ソキは声をかけた。

「ソキの『武器』は……本は……。どうやって、使うの……?」

 さわさわ、と声がどこかで響く。誰かが相談しているような。落ち着かないざわめき。紙面に言葉は浮かんでこない。ソキは待った。じっと待った。誰かがそれを、囁いてくれるまで。やがて、ひとりが歩み寄るように。耳元で誰か息を、吸い込んだように。言葉が告げられる。本に言葉が綴られていく。それを、決して声に出すことなく、読んで。

 やがてソキは、ぱたん、と。『予知魔術師の写本』を、膝の上で閉じた。

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