暁闇に星ふたつ:73



 深く満たされた眠りから目覚め、ナリアンはしばらくの間、ぼんやりと天井を見上げていた。疲れはそうと意識しなければ分からない程に遠くにあり、瞬きの間にもほろほろと消えて行く。部屋の暖かさに意識が緩んだ。あくびをしながら身を起こして、辺りを見回す。静けさが訪れる部屋は、普段と変わりないように見えた。

 やや雑多な机の上。教科書と参考書が山と積まれ、書き散らした紙の側にはインク壺がいくつか。うつくしい硝子ペンはどれも写本師時代からの愛用品。ソキから貰った飴玉の残りが、袋から零れて転がっている。火を揺らす灯籠。明るい影と暗い影。吐息に揺らされるように落ちつきなく踊っている。

 枕に視線を向ければ、端にニーアがちょこんと眠りこんでいた。両手を重ねて頭の下にいれ、枕をふかふかの寝台代わりに身を横たえている。寝返りで落ちてしまったハンカチを拾い、手の熱で暖めてからニーアにかけ直す。ふわ、と笑みに緩んだちいさな横顔を眺め、ナリアンは寝台から立ち上がる。

 無造作に放っておいたローブに袖を通す。冷えた布に眉を寄せながら、ナリアンは大股に部屋を歩いた。散らばったものを端に寄せ、掃除しなきゃと息を吐く。眠気に目を擦りながら飴玉を口に放り込めば、蜂蜜の味がした。ソキの好む味。守ってあげるですと張り切られたことを思いだし、ナリアンは思わず口元を緩めた。

 かわいいな、と思う。大丈夫だよ、と言ってあげたい。だってソキはこんなに些細な言葉ひとつでも、ナリアンの心を柔らかくしてくれる。守ってくれてるよ。充分だよ。もう、充分なんだよ。だから。俺にも君を守らせて。守らせて欲しい。今度こそ。その為なら俺は、どんな努力だってしよう。それで君の命に手が届くなら。

 瞬きをする。眠たさと静寂が、一瞬前の思考を洗い流していく。飴玉を転がしながらもう一度あくびをして、ナリアンは喉の渇きに気がついた。水差しは空になっている。考え、ナリアンは水差しを手に持って部屋をでた。水道は各階の廊下、左右の端にひとつずつ。朝には顔を洗う者たちで溢れる場所は、まだ誰の姿もなく冷えた空気に眠りこんでいた。

 水を満たして硝子越しに空を見上げれば、まだ星が強く輝いている。早朝ですらない、夜である。ニーアが眠っているからそうだとは思ったのだが。もう一回寝よう、とナリアンが部屋へ戻ろうとした時だった。扉の開く音がした。振り返る。

「……ロゼア?」

 額に手を押し当てて。まるで痛みを堪えるように。おぼつかない足取りで、部屋を出てくる姿に呼びかける。いつもならすぐ視線が向いて、ナリアン、と笑う友人から反応がなかった。視線は階段を向いていて、どこかへ行こうとしているように見えた。止めなきゃ、と反射的に思って走り出す。水差しのことは忘れていた。喉の乾きも。

「ロゼア!」

 ふらつく腕を捕まえて引き止める。階段の手前。暗くて足元がよく見えない。ほんの僅かな距離なのに、疲労を思い出してしまったかのように息切れがした。は、と呆けたようにロゼアがナリアンを見る。

「……ナリアン? どうしたんだよ」

「俺の、台詞、だよ……!」

 おおきく息を吸い込んで。呼吸を整えて、ナリアンはロゼアの腕を掴んだまま顔を覗きこむ。

「体調悪いなら、一緒に行く。レグルス先生の所だよな?」

「……体調、悪い?」

「ロゼア。顔色よくないよ。足元もふらついてる」

 目を見てしっかりと言い聞かせる。あのままでは、階段を無事に降りきれたかも危うかった。ロゼアは眉を寄せて首を振り、額に手を押し当ててごめん、と言った。悄然とした声だった。

「寝ぼけてたみたいだ……。なんでもない。大丈夫だよ」

「……どこ行こうとしてたの、ロゼア」

「喉が……渇いて。水でも、飲もうかなって……ごめん、心配かけて。大丈夫、ごめん」

 まるで、怒られるのを恐れるような早口。眉を寄せて、ナリアンは掴んでいた腕を離してやった。危なげなく立ちなおして、ロゼアはもう一度微笑んで告げる。大丈夫だよ、ありがとう。視線はしっかりとナリアンを見ていた。いつも通りのロゼアに、見える。ナリアンは無意識に、ゆっくりと瞬きをして焦点を合わせた。

 ロゼアに。その魔力に。目を向ける。注視する。それは一瞬のことだった。黒色のインクが、水に投げ込まれるような情景。心象。それはすぐ混ざり合って分からなくなる。火の熱が触れ合った所からすぐ、暖めていくように。混ざり合ってひとつになって分からなくなる。とぷん、と沈んでいく。暗闇に遮られて水底が見えない。

「……明日も。忙しいんだろ、ナリアン。眠らないと駄目だ」

「……ああ。そうだね。分かってる」

 眩暈を覚えて。それを顔に出さないように苦労しながら、ナリアンは頷いた。今のはなんだろう。水は魔力だ。魔術師の魔力。目覚めたものは皆、己の魔力を水の形で幻視する。認識する。それに混ざり物など。あっていいことではない。水は己だ。己の自我だ。意識であり、心。意思。喉の渇きを覚えて、ナリアンは息を吸い込んだ。

「ロゼア……」

「うん? ……大丈夫だよ、ナリアン。ほんとに寝ぼけてただけだって」

 でも、そんなの。はじめてだよね、と否定する言葉を飲み込んだ。ロゼアが寝ぼける所なんて、入学してから一度も見たことがない。でも、まだ一年半だ。一年半しか一緒にいない。それでなにを否定してしまえることができるのだろう。恐ろしい予感が指先を冷やした。手を握りこむ。

 助けたいのに。なにを助ければいいのかすら、分からない。

『……ナリちゃん?』

 ふわん、と妖精の灯りがともる。暗闇を切り裂く程の力は持たず。けれども絶えることなく、どこまでも寄り添うように。眠たげにふわふわ漂い、飛んできたニーアはこしこしと目を擦る。差し出したナリアンのてのひらへ、降りるのではなくぎゅっと抱きついて、ニーアは笑った。

『どうしたの、ナリちゃん。まだ夜よ……?』

「ニーアこそ。起きちゃった?」

 花妖精は、本体の眠りに強く影響される。夜明けと共に目を覚まし、陽が落ちれば大体の者は眠りについて、朝まで起きることがない。ソキの妖精は夜遊びも好きにしているようだが、ニーアはとにかく眠いらしく、夕食の時にもあくびをしてばかりだった。食べれば多少目が覚めたようだが、それでも眠たげに目を擦ってばかりいた。

 眠いだけで起きていられない訳じゃない、というのがソキの妖精の言葉である。そこを気力でどうにかしようとして、してしまうのが、ガッツと根性でどうにかできると思っているソキに、じつによく似ていた。ソキの場合は、やって出来ないことの方が多いのだが。

 音と声で起したかな、と申し訳ながるロゼアとナリアンを見比べて、ニーアは眠たげな顔で微笑した。首を振る。

『ううん。違うわ、ナリちゃん。ニーアを呼んだでしょう……?』

 冷たい手を温めるように身を寄せて。ニーアは目を見開くナリアンに、寄り添うように笑いかける。

『大丈夫よ、ニーアがいるわ。ナリちゃんはもう、ひとりじゃないの。ひとりじゃないのよ……』

 相談していいの。話していいの。ニーアがいる。みんないる。お友達も、仲間も。先生も。言いながら、うとうとと眠たげにして。ナリアンの手の中で眠ってしまったニーアに、ロゼアが穏やかに微笑した。

「夢でも見たのかな……。ソキも最近、時々寝ぼけるんだ。かわいいよ」

「ロゼア」

 俺たちも眠ろう、と部屋へ戻ろうとするロゼアを呼び止める。なに、と問われるより早く、ナリアンは告げる。声で。この一年半。長くも、短くも感じる時の中で取り戻した勇気で。

「話してよ、ロゼア。……今じゃなくていいけど。怖い、ことがあったら……助けさせてよ」

「……ありがとな、ナリアン。でも、だ」

「大丈夫なんて、言うな」

 跳ね除けるように。響きだけは穏やかに、ナリアンは言った。

「大丈夫だなんて言うなよ、ロゼア」

「……うん」

「頼って。いいね?」

 ロゼアはもう一度、照れくさそうに、うん、と頷いた。

「ありがとう、そうする。……話すよ。今度、話す。考えて……考えが、纏まったら」

「分かった、待ってる」

「あ、ナリアン」

 それじゃあおやすみ、と別れようとするナリアンを、今度はロゼアが呼び止めて。その、と珍しく言葉にためらい、考えた末に。ロゼアは照れくさそうに、ちいさく首を傾げてナリアンに問いかけた。

「ソキ見てく?」

 ああぁー、たぶんこれロゼアなりの感謝の気持ちをこめたお礼のつもりなんだろうな俺の親友尊いなーっ、という気持ちで頭を抱えかけ。ニーアを手に乗せているから諦めて、ナリアンは力なく、一度だけ頷いた。

「じゃあ、顔を見ていこうかな……。俺思うんだけどロゼアって時々果てしなく天然だよね……」

「天然? どこがだよ」

「そこがだよ……?」

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