暁闇に星ふたつ:65


『ソキさん。……ロゼアの薬は、レグルスが出してくれたものがありますよ』

「でも、でもぉ! おねつ、でるかもですぅ!」

『もし熱が出たらね、僕がすぐに飛んで行きましょう。診て頂きましょうね。今は必要ありません。……ほら、大丈夫。ロゼアはよぅく眠っていますよ。ね』

 びっくりしましたね、とシディは言った。怖かったですね、もう大丈夫ですよ。よく、頑張りましたね。囁きに、ソキは幾度も頷いて、ひっくひっくしゃくりあげながら目をこすった。シディは音もなく飛びたち、ほどなく、一枚のハンカチを抱えて戻ってくる。

 ないてないもん、と言ってハンカチを受け取って、目を擦る。はい、と笑ってシディは言った。

『怖くて、零れてしまっただけですものね。……大丈夫。もう大丈夫ですよ』

「……うん」

『ナリアンと、メーシャは課外授業と聞きました。ひとりで心細かったでしょう』

 うん、と頷いて。ソキは、でも、遠足なんですよ、と言った。そうなんですね、と否定せずに頷いて、シディは室内を見回した。部屋を守る檻めいた魔力は、繊細さに磨きをかけたようだった。正しく循環し、きよらかな水のよう透きとおっている。目視し、意識を注意深く向けて感覚で触れても、それはロゼアの魔力だった。

 シディのよく知る、ロゼアの魔力。導きの子。目覚めから、その咆哮までをも見守った。あの時に。見ていることしかできなかった、魔力。ちから。だからこそ、それはシディの内に焼きつくようにして、ある。覚えている。だから、断言できた。

 この部屋の魔力に、妖精が言うような不快感はない。

「……シディくんは、お見舞いに来てくださったんです? リボンちゃんが、連れて来てくれたの?」

『はい』

「そうなの……。ありがとうです……」

 心を預けた者の訪れに、ようやっとほっとしたのだろう。興奮も収まったのか、ソキの言葉に眠気が漂っている。眠りましょうか、とシディが促すと、ソキは不安そうにふらふらとあたりに視線を彷徨わせたのち、きゅぅ、と服を握って頷いた。緊張している。それともこれは、警戒だろうか。

『ソキ』

 肩から身を起して名を呼ぶ妖精に、おどおどとソキは顔を向けた。リボンちゃん、とすがるように呼ばれる名を確かに受け止めて、妖精は、はきと響く声で言ってやる。

『アタシがいるわ。おかしいことがあったら、すぐ、アンタを起こす』

「うん。……うん」

『……おやすみなさい』

 うん、とソキは素直に頷いて。ふらふらしながら、ロゼアの元へにじり寄った。先程は触れるのさえためらったのに。てしてしと腕を叩いて、囁きかける。

「ろぜあちゃ、ろぜあちゃ……ぎゅう。ぎゅう……!」

 ん、と寝言のようにロゼアが呟く。一度だけ、ロゼアは目を開いた。ぼんやりと。ソキ、と幸福に溢れる声が囁き、呼ぶ。おいで。広げられた腕の中に、飛び込むようにソキは身を寄せた。まあるくなって眠る体を、ロゼアの手が触れて宥めて行く。とん、とん、指先が鼓動と同じ速さで肌に触れる。

 すぅ、とソキはすぐ眠りに落ちた。初めはまるくなろうとしていたのに、今はぜったいにはなれないです、といわんばかり、ロゼアにぎゅうぎゅうに抱きついている。んー、と寝ぼけた声でもぞもぞと姿勢を変えて、ロゼアはソキを抱きしめなおし、頭に頬をくっつけて、また深い眠りへ戻っていった。

 コイツほんとに意識ないんだろうな、と苛々と羽根をばたつかせながら、妖精はロゼアをじっくりと睨みつける。先日感じたような嫌なにおいが、濃くなっているように思えたのだが。同時に、ロゼアそのものと混ざってしまっているような、ひどく奇妙な感覚を覚えた。

 なにも言わず、妖精はシディを見る。ロゼアの案内妖精は険しい顔で、妖精の不安を肯定した。すなわち、目覚めたばかりのロゼアと、魔力の様子が違ってきている。嫌な、と感じる感覚も理解できる。でもそれが僕たち妖精の好みなのか、それとも害なすものなのかの判断ができない。

 そしてこれが、太陽の黒魔術師たるロゼアの、研鑽の結果でないとも言うことができない。魔力はいきものである。日によっても色を変えかたちを変える。未熟な成長期であるなら、なおのこと。

 妖精は舌打ちをして、己の不運を呪った。常のロゼアの魔力がどうであるか、知るチェチェリアは今日から砂漠に出かけている。よりにもよって、砂漠である。ソキが怯えるから追いかけていく気にもならないし、そこへ立ち入った者をここまで招こうとも思わない。

 一歩遅かったのだ。ほんのわずか。機会を逃してしまった。そう思う。

『……様子を見ましょう、リボンさん。とりあえず、いまは、ロゼアは落ち着いている』

『暴走はしない、ってことね。信じても?』

『ええ。なにか不安定であったことは確かです。この部屋の守りは常と変らず……いえ、常よりしっかりしていた気がしますが、内側の魔力が妙にざわついていたのは確かだ。でも……ソキさんと一緒に眠ってから、ゆっくりと落ち着いて行っています。様子を見ましょう。様子を……』

 数日。あるいは、それ以上になるかも知れないが。チェチェリアが、教員として『学園』に戻ってくる日まで。傍にいて。僕らが守りましょう、と告げるシディに、妖精は当たり前よと頷いた。そうすることに迷いはない。その為に、シディを連れてきた。異論はない。ないのだが。それはそれとして。

 ソキはぴすぴす、しあわせな眠りに落ちている。ロゼアも、表情が穏やかになっているように見えた。よかった、と安堵するシディの隣で。妖精は隠すことなく、盛大に舌打ちをした。




 白い本が落ちている。一冊の本が落ちている。砂漠に。砂の上にひろげられて。ぱらぱらと風にページがめくられている。

 泣き声が聞こえる。泣き声が。なにも書かれていなかったページにインクを落としている。塗りつぶされている。言葉は奪われている。

『……って、みせる……』

 言葉が囁く。白い本が歌う。風にページをめくられながら。塗りつぶされた言葉を、それでもなお、守りながら。

『守ってみせる。今度こそ……今度こそ!』

 触れられない紙面を探すように、風がページをめくっている。

『言葉に惑い、それでも……祝福を信じ、呪詛を捧げた。私の魔術師。あなたを、今度こそ、わたしが……アタシが、絶対、絶対に……!』

 突風。荒れ狂う風に悲鳴をあげるよう、乱暴にページがめくられていく。どこまで行ってもインクが染み込んでいる。どこまで行っても言葉が奪われている。けれど、最後の。一番最後の一枚が。まだ守られている。白い本はそれを守り続けている。

『ソキ……!』

 繰り返される時の果て。擦り切れ摩耗し果てる運命の、これが最後だと。白い本だけが知っている。




 夢をみていたことは分かるのに、中身をちっとも覚えていない。なんだか損をした気分ですと頬をふくふく膨らませながら、ソキはけんめいに妖精に説明をした。あのね、白くてね、ぱらぱらでね、いっしょうけんめいでね。それでね、白いの。なんだかわかるぅ、と問いかけられて、妖精は素直に微笑んだ。

『分かる訳ないだろよく考えろ』

「あ! もう、やぁんですぅー」

 リボンちゃんなら分かる気がしたです、ほんとに心当たりがないのと眉を寄せられても、ソキのそのちんちくりんな説明でなんらかに辿りつけるのはロゼアだけである。そのロゼアは、まだ眠っている。室内は陽光に満ちていて明るく、夕刻までは時間がある。目を覚ますのはまだ先だろう。

 ぴすぴすしあわせそうに眠ったソキは、しばらくすると気持ちよさそうに起き出した。ソキが、大きなあくびと一緒におやーつーですぅー、とほわほわ告げたので、腹時計は正確らしい。旅の間はそれでも昼夜を問わず眠っていたのに、と思い、妖精はロゼアの用意した品々を見つめて納得した。

 ロゼアの手作りおやつがある。なるほど、これは絶対に起きてくる。ほんと腹立つロゼアのヤロウと舌打ちを響かせながら、妖精は爪先で、数分を図る砂時計をつっついた。

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