暁闇に星ふたつ:39



 ロゼアは微笑を深めてソキを片腕で抱いたまま立ち上がり、一目散に部屋の本棚へ向かった。

 ああぁ、やーっ、だめだめぇっ、とソキがもちゃもちゃ暴れるのをなだめながら、ロゼアは慣れた仕草でしゃがみこみ、本棚の一番下、ソキが髪飾りと日記帳を置いている一角へ手を伸ばす。

 数冊の日記を退けると、隠して置いてあった本があらわになった。それをひょいひょいと回収し、ソキの手の届かない高さに積み上げて、ロゼアはしっかりと言い聞かせる。

「これは先輩に返しておくからな、ソキ」

「やあぁあ……! ないしょの取り引きだったです……! バレてしまたです……。ソキの秘密の隠し場所だったですのに……」

 くにゃりと身を寄せてすんすん鼻を鳴らして拗ねるソキの背を、やんわりと撫でて。ロゼアはさて、と気を取り直し、寝台に戻って腰を下ろした。

「さ、ソキ。『旅行』のおはなし、しような。なんでリボンさんは知ってるのに、俺には話せないの?」

「リボンちゃんは、だってぇ……お迎えに来た時にも、ソキが『旅行』をしてたからです……」

 ソキには妖精にだって、特別なにかを話した訳ではないのである。今までどこに行っただとか、なにをされただとか、そういう話を。したことがあるのは、唯一、白雪の女王陛下そのひとに。

 去年の夜会の前にどうしてもと求められ、なにをされたのか、を告げた時だけだった。その他には決して明かしなどしていないのである。ロゼアが怒られない、ということにはほっとしても、どうしても、口に出してしまうのは抵抗があった。

 それほど強く、なにをおいても、明かしてはならない機密として『花嫁』の心に刻まれていることだからだ。

 ロゼアはソキの目を見つめながら、じゃあ、と静かな声で囁いた。

「リボンさんは、どこへソキを迎えに行ったの?」

 それは。『旅行』のことでは、ない。ソキの中では、それに当てはまらないことだった。ロゼアちゃんはきっと諦めてくれたです、よかったです、と胸をなでおろしながら、ソキはにこにこ口を開いた。

「あのね。お部屋なんですよ。ソキはね、お部屋にいたです。鍵をかけられてたのをね、リボンちゃんが来て開けてくれたの」

「そっか、よかったな。……そのお部屋は、どういう所のお部屋だったの? 宿? 家? 街中? 郊外?」

 眉を寄せてよく考えて、ソキはちょっとだけ郊外です、と言った。街中というには、周囲には広大な土地が広がっていた。宿ではなく、家だった。

 大きいお家で、馬車があってね、お世話をするひとたちもたくさんいてね、とおはなしをするソキに、うん、と柔らかく頷きながら。ロゼアは言葉を重ねて行く。

 その家には何人くらいの人がいたのか、ソキはどれくらいの人と会ったのか、出されたものでなにがおいしかったのか。

 ソキは思い出しながらひとつひとつ丁寧に応え、ソキはえらいな、よく覚えてるな、と褒めるロゼアに、照れくさそうにはにかんだ。

「リボンさんがお迎えに来るまで、ソキはなにをしていたの?」

「眠たかったからね、いっぱいおひるねをしてたです。いっぱい寝たから、お熱もちゃぁんと下がったですし、お咳もでなくなってたです」

「……えらいな、ソキ。熱があったの? お医者さまには診て頂いた?」

 ぎゅ、とロゼアの腕がソキを抱き寄せ、その不安を目の当たりにしたように囁いてくる。大丈夫なんですよ、とソキは頷いた。

 妖精が訪れるまで、ソキは完全にその一室に閉じ込められていた訳ではなく。一定の期間、高名な医者の元へ預けられていたのである。

 入院なんですよ、ソキはちゃぁんと安静にしていたです、と自慢するソキに、いいこだな、と囁いて。ロゼアはその医者の名を問いかけた。

 ちっとも興味がなかったが故に記憶の隅にも留めなかったソキは、素直に分からないです、と言ってロゼアの眉間のしわを撫でた。

「あのね、でもね、白雪の、第三都市で一番のお医者さまだって言ってたです。領主さまのご紹介だからって、ソキをとっても丁寧に見てくださったんですよ」

「そっか。……うん、そうか。分かった。いいこだな、ソキ。その方はよくしてくださった?」

「うん。お医者さまね、お優しかったです。領主さまは良い方だって、お話してくださったです。前の領主さまがね、また悪癖を発揮したらね、連絡しなさいって言ってくださったです。それでね、ソキのお熱が下がるまでは絶対にここへいて、休んでいていいって仰ってくださったです」

 そうか、とロゼアは目を細めて微笑した。

「悪癖ってなに?」

「……ソキに触るです」

 このおはなしはもうしないです、と言って、ソキはくちびるに力を込めた。閨教育はソキに、どこに、どういう風に触れられれば快楽になるかを教え込んだのだけれど。

 服の上からであっても触れられて、撫でられて、あんなに気持ち悪かったのは、はじめてのことだった。それまでも何度か、『旅行』先でそういう風に、ソキの意思を無視して触れてくる者はあったのだけれど。

 それまでは必ず、同行の者たちが助けに来てくれた。怒鳴りこんでくれた。すぐに。でも、その時にはもうすでに、彼らは『お屋敷』に帰されていて。

 破談になれば砂漠との貿易を打ち切る、と脅されていたのだった。抵抗などできなかった。してはいけないことだ、と思った。『花嫁』は砂漠の国に幸福をもたらさなければいけない。多額の金銭と引き換えにされなければいけない。

 それでもって、ひとときの安寧をもたらす存在でなければ、ならないのだ。だから、そのことで。砂漠に不利益など、あってはならないことだったのだ。ソキ、とロゼアの声が、耳に触れた。

「大丈夫だよ、ソキ。今、ソキに触ってるのは俺だろ」

「……ロゼアちゃん?」

「うん。俺だよ、ソキ。ほら」

 頬を両手で包んで。首筋を撫でたてのひらを、肩へおろして。じわじわ、体温を染み込ませるように、ゆっくりとロゼアは触れて行く。抱き寄せた背を撫でて。ぽんぽん、と服の上から胸や、腹にも触れて。ふとももも、脚も。

 つま先を手で包みこんで、温めるように擦って。くた、と力を抜いて持たれるソキの耳に、口付けるように近く。ロゼアはゆっくりと、言い聞かせるように、囁いた。

「ほら。全部、俺だろ? 分かった?」

「……うん」

「いいこだな、ソキ。いいこだから……それはもう、忘れような。俺のだけ覚えてような」

 うん、とソキは頷いた。全身が暖かくて、心地よくて、体にうまく力が入らないでいる。いいこだな、と耳元でロゼアが笑った。ふるりと体を震わせて、ソキはロゼアの腕にじゃれつくように手を伸ばし、もっと、とねだる。

「ソキ、ロゼアちゃんの言うとおりできる……。だから、ね……? さわるの、もっと。もっとぉ……!」

「んー……? ……うん。いいよ。おいで、ソキ」

 強く。『花嫁』では決してそうされなかったであろう強い力で、肩が抱き寄せられる。きゅぅ、とつぶれた声をあげたソキを宥めるように、ロゼアは首に顔をうずめて笑った。きゃぁ、とソキは身をよじる。

「くすぐったぁいー……!」

「ソキ。……ソキ、ソキ」

 背中が。ゆっくり撫で下ろされる。何度も、何度も。その手の感触を、熱を。もう一度ソキに教えるように。は、と熱っぽい息を吐き出して、ソキはロゼアの肩に頬をくっつける。

「ロゼアちゃん……」

「ん?」

「すき」

 首筋に腕をまわして、体をくっつける。すき、ともう一度告げれば、ロゼアはソキの頭を柔らかく抱いて笑った。

「俺もだよ、ソキ」

「はぅ……ろぜあちゃ……」

 すき、すき、と感極まった声で囁くソキに、ロゼアはうっとりと目を細めて。俺もだよ、と言って、抱く腕に力を込めた。




 朝の光が差し込む談話室の片隅。新入生の定位置たるソファの前で、妖精は深々と息を吐き出した。まあ、だいたい毎日の恒例行事だと聞いていたので、予想していたのだが。

 べっこべこのめこめこにヘコんでいる顔で、ソキにいらっしゃいませですぅー、と出迎えられて、妖精は額に手を押し当てる。言葉を探すが中々出て来ない。諦めて沈黙した。

 申し訳なさそうな顔で、ロゼアがソキを宥めているのが見えるが、いや原因全部お前に決まってんだろうが、と言いたくてならない。

「……まあ、一応聞いてやるわ。ソキ? 今日はどうしたの?」

「さわってもらたけどさわってもらうんじゃなかたです……」

 うやぁあん、と悲しげな声でロゼアにぎゅっと抱きつき、体をすりつけるソキは、今日も愛らしい白のワンピースに身を包んでいる。髪もきちんと編み込まれ、赤いリボンが揺れていた。

 深く長く息を吐き出して、妖精はまあアタシも色々考えてあげるけど、と言って、ソキを膝の上に乗せたまま、下ろす気配もないロゼアを見た。おはようございます、と微笑まれる。腹立たしい。

「……で? アンタはなんでここにいるの? アタシはソキと出かけるんだけど?」

「はい。それじゃあ、行きましょうか」

 ソキ、おでかけだよ。嬉しいな、とソキを宥めながら抱き上げ、立ち上がるロゼアに、妖精は言葉もなく。思い切り溜息をついて、ソキの頬を指先でつついた。デートなんじゃないのか、と言ってやりたい。

 妖精はこれでも、まあこうなるだろうな、と予想はしていたにしても、それなりには、ソキと二人きりで出かけることを楽しみにしていたのである。旅の最中は、ずっと、ソキと妖精は一緒だった。

 頬をつつかれるのに、いやんや、と不機嫌な声でぐずるソキに、妖精は指を引っ込めて。まあ、また機会もあるか、と諦めてやることにした。

 妖精はソキの不機嫌を放置するか観察するくらいしかしないが、ロゼアにひっつかせておけば、ほどなく直ることはもう分かっている。で、アンタどこへ行きたいっていうの、と問いかける。

 『扉』に向かう道すがら、あのね、とほわほわ響く声は、もうすでに機嫌を上向かせかけていた。蜂蜜みたいな響きをしていた。

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