暁闇に星ふたつ:32


 ツフィア、と叫んで走りより、かけ、リトリアはつんのめるような動きで立ち止まった。誰かにそうせよと命ぜられた訳ではない。己の意思で足に力をこめたのだ。

 訝しく視線を向けてくるツフィアにとっさになにも言えず、リトリアはもじもじと手を組み合わせて立ち止まった。

 えっと、と口ごもる。反射的に助けを求めて振り返った先、戸口で見守ってくれていた筈のレディとチェチェリアが、感激で目元に手をあてているのが見えた。

 一々泣かないで欲しい恥ずかしいから、と思い、リトリアはまたもじもじとツフィアと向き直った。数歩の距離。少女めいた、ふわりと裾の広がる蒼い花模様のドレスを着るリトリアをゆったりと眺め。

 黒色のスリップドレスに身を包んだツフィアが、呆れ一色のまなざしを保護者たちに投げかける。

「……なにをしているの、あなたたち」

「ツフィア、安心していい。すぐに分かる」

 次はお前だ、と呪われたような気がする。意味が分からない。しぶい顔をするツフィアの前で、もじもじ、もじもじしていたリトリアが、ようやく覚悟の決まったまなざしで、きっと顔をあげた。

「あ、あの、あの! ツフィア……!」

「なに、リトリア」

 視線を重ねると、それだけで藤花色の瞳に涙が滲む。花開くつぼみの微かな震え。ふわりと赤らむ頬がゆるく微笑んだ。嬉しい、と告げている。怯えはなく。怖がることもなく。全幅の好意が差し出されている。

 ツフィア、と歌うように響く、祝福を載せた声でリトリアが笑う。網膜に焼きつくような微笑み。ゆっくり、礼儀正しい仕草で頭が下げられた。

「今日は、エスコートを受けて頂き、ありがとうございます。よろしくお願いします。……チェチェ、もう! 泣かないで! レディさんまで、なんでっ?」

「……分かったわ」

「ツフィアまで……!」

 もう、と照れと困惑と淡い怒りの入り混じった声で怒って、リトリアは手に持っていたちいさなポーチをごそごそと探った。数歩の距離をなんのためらいなく駆け寄り、ツフィアの手にハンカチを差し出してくる。

 ねえ、そんな風になかないで、と囁かれ、ツフィアは息を吐く。その吐息にも、リトリアは体をびくつかせることはなく。怯えてツフィアを伺うような真似をしなかった。ただ、待っている。

 すこしだけ不安そうに。背をまっすぐ伸ばして立っている。その少女に。意思を乗せる言葉が、どうしても見つけられない。

 ツフィアの知るリトリアは、幼かった。幼いままだった。まるで成長するそぶりが見られなかった。時間だけがその精神を通りすぎて行って、ツフィアの望む成長の、予兆さえないままだった。礼儀も、作法も、リトリアは知っていた。

 質のいい幼少教育を受けたのだと伺わせる。知識ではそこにあった。あるだけで、時折、所作に浮かび上がってくるだけで、こころが追いつくことは、終ぞなかったように思われる。『学園』にいる間も。卒業して、稀に会うことがあっても。

 最後に見た姿も。知識の使い方を分からない幼さが、それを役に立たないものにしていた。

 重ねる視線の角度にも、成長を知る。

「……こちらこそ」

 届いた、と思う。ようやく。まだ十分と思える程では、決してないのだけれど。知識を。本を贈り、重ねた言葉たちを。知識として降り積もらせるだけではない、使いこなすだけの成長を。リトリアが、し始めたのであれば。

「今日はよろしくね、リトリア」

「……うん!」

 反射的に抱きつき、かけ、慌てて降ろされた手は体の前できゅっと握り合わされた。あとでうさぎちゃんをぎゅっとするから我慢、がまん、と何度か繰り返して、リトリアはツフィアの目をまっすぐに見上げる。

「あの……手を、繋ぐのは……いい?」

「もちろん。なにを遠慮しているの」

 望まれるままに手を繋いでやると、リトリアはとろけるように笑みをこぼした。嬉しい、と告げられる。嬉しい、うれしい、ありがとうツフィア。頷いて、ツフィアは戸口へ歩き出す。リトリアの手を引いて。

 泣いていたレディとチェチェリアの目が、それを見てまたうるむのに溜息がでた。もしや一日これなのだろうか。正直とてもうんざりしたが、とと、と傍らを歩くリトリアが、あまりに幸せそうなので。

 ツフィアはそれを気にしないよう、意識の端へ投げ捨てた。




 本日はどうぞよろしくお願いしますと一礼されて、ストルが感動した風でもなく無言になってリトリアを見つめたので、レディは本能の判断に従い、かつ予知魔術師の殺し手として正しく、男と少女の間に体をねじ込んだ。

 背後ではツフィアが戸惑うリトリアに、いいこと今日は絶対にストルと二人きりになってはいけないわ約束できるわね、とさっそく言い聞かせている。チェチェリアは遠い目をしながら、ツフィアの発言に頷いている。完全に同意のようだった。

 女性たちの反応にやや不愉快げに眉を寄せた同僚に対し、レディは臨戦態勢を整えながら言い放った。

「むらっとしたのを否定できるなら機嫌悪くなりなさいよ」

「……せめて返礼くらいさせてくれないか、レディ? チェチェリア、ツフィアも」

 五秒待っても情欲にかられたことを否定されなかったので、レディは振り返り、まっすぐな目でツフィアに問うた。

「コイツ燃やしていいと思わない?」

「この場所で騒ぎを起すなら賛成はしないわ」

 場所を移動させてから葬れ、ということで間違いないだろう。魔術師たちの聖域たる廟の入り口で、焼死事件などレディも発生させたい訳ではない。

 成長を喜びなさいよ食べ頃になったことに浮かれるんじゃないわよと苛々しながら、レディはストルに対して宣言する。

「言っておきますけど。リトリアちゃんに危害を加える相手に対して、殺害許可は得てるんだから! 注意して行動しなさいよ!」

「リトリアが嫌がることを俺がする筈ないだろう?」

「砂漠系男子の! 相手が嫌がることなんてしないは! 言いくるめた結果論!」

 断言するレディの背が、指の先でつつかれる。なに、と振り返ったレディに、リトリアは恐る恐る問いかけた。

「ストルさん……いじわる、するの……?」

 リトリアにはいじわるっていう単語の発音制限をさせたほうがいいと思うと立案した白魔法使いに、あなたなに言っているのと却下した過去の己を、レディは全力で殴り倒したかった。間違っているのは私だと懇々と言って聞かせたい。

 眩暈と共に沈黙するレディの肩に、男の手が置かれた。

「しないよ。したことないだろう?」

「会話に混じってこないでちょっと、私を挟んで! 会話しようとしないで!」

 今にも火の粉を生み出さんばかりに殺気立つレディから、リトリアは慌てた仕草でもちもちうさぎを回収する。ぎゅむりと抱きしめ頬をくっつけて堪能したのち、リトリアは真っ赤な顔でツフィアとストルを見比べた。

「ち……ちがうの! これは違うの……!」

 うさぎをだっこ、抱きしめる、頬をくっつける、堪能する、が一連の流れとして染み込んでしまっているだけである。違うの自立なの大人になったの、とうさぎを腕に抱いたまま訴えるリトリアに、ツフィアは息を吐いてたしなめた。

「リトリア。自分で管理できないなら、持ち込んでは駄目よ」

「はぁい……」

 だってこれから振られるかも知れないからそのあとで抱きしめて泣くんだもの、という後ろ向きでこじれきったありえない可能性の為に持ち込まれたのだと、知ったらストルはうさぎを奪って彼方に投げ捨てかねない。

 もしくはうさぎつきでリトリアが拉致されて、部屋から出てこなくされかねない。もしかして私は今日この夜が終わるまで胃痛と戦い続けなければいけないのではないかしらとレディがしにそうになっていると、あっ、とほわふわした声が場に響く。

「リボンちゃんりぼんちゃんりぼんちゃ! リトリアさんがいるぅー!」

「なんでアンタは走ろうとするの! お前はすぐ抱き上げようとするなーっ!」

「あっ! リトリアさんが可愛いうさちゃんを持ってるううううソキがぎゅっとしてあげてもぉ、いいんですよ?」

 アンタはなんで貸しての一言がちゃんと言えないのっ、と雷を落とされながら、とてちて早足でソキが歩み寄ってくる。片手はしっかりと妖精と繋がれていた。エスコートしていると見るより、保護者をしている、という風だ。

 嫌な顔をしてロゼアを追い払いたがっている点を除けば。ロゼアは苦笑してふたりの後ろをついて歩き、傍らにはシディの姿もある。

 こんばんは、先生。ストル先生、レディさん、リトリアさんも、と礼儀正しく挨拶されて、チェチェリアは思わず微笑した。

「こんばんは、ロゼア。シディは今年もお目付け役か?」

「……いえ。『リボンさんを思い留まらせるくじ引き』に細工がされていた話はしましたっけ?」

「三日以内に首謀者を特定してぎったぎたにしてやるから参加者含め覚悟しろ」

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