ひとりの。別々の夜。 48


 仲間だった。友達だった。妹みたいに思っていた。泣きながらチェチェリアに訴えられた言葉。そんなことは、聞いた覚えのない筈なのに。腕に抱えた血の温度を、チェチェリアは知っている気がした。

 最初から刺し違える気しかなかったのだろうと。死にゆくリトリアに、誰かが囁いたことも。こうしないと巻き戻せない、と。予知魔術師が笑ったことも。

「でも、私は、知ってる。私だけが、知ってる、のに……ぜんぶ、幸せになって欲しい、だけなのに」

 さあ、もう一度。息絶えたソキの手を握って、リトリアが凄絶に笑ったことも。

「シークさんの望みだけが叶わない……叶えられないよ。どうしても、どうしても、どうしても……!」

『馬鹿だね』

 取り巻く闇が。リトリアの表情を隠す、その夜が。震えて笑ったような、声だった。

『キミはもう、しあわせな夢をボクにくれた。そう言ったろう……?』

「でも!」

『イチバン初めの、たったヒトツの願い。それを抱き続けて、叶えることだけが、幸せじゃないヨ。……願いが、叶うコトだけを、幸せと呼ぶんじゃないだろう? 願いが叶わなかったことが、必ず、辛い訳じゃないんだよ』

 幸福を願うことが、愛だとするなら。その為に祈りを繰り返すことを、愛だとするなら。リトリアのそれは、愛だった。相手の痛みを理解し、分かち合い、癒そうとする。思いやって涙を流す。同調的な愛。

『キミは、ボクの願いを潰して先へ行くべきダ。そうだろう……?』

「わたしは、あなたに……あなたにも」

 しあわせになって欲しかった。その望みを捨て切れないで、ここまで来てしまった。顔を覆って泣くリトリアに、夜が寄り添い、触れていた。しばらくは、なにも語らず。ただ、傍らにあった。

 しゃくりあげながらも、リトリアが顔をあげるまで。じっと、その時を待っていた。

『リトリアちゃん』

「……うん。うん……うん、分かってる。分かってます」

『ありがとう。ボクはしあわせだ』

 うん、と頷いて、リトリアは一歩踏み出した。くらやみの隙間から、ようやく、ひかりに触れる。見つめてくるチェチェリアに、ふわ、とリトリアは笑った。咲くことを思い出した、花のように。

「チェチェ」

 ふっ、と悪夢がかき消される。記憶も。覚えていたことがなにもかも遠ざけられる。ああ、と瞬きをしながら呻くチェチェリアに、リトリアは切なく目を細めて。その瞼のむこうに、同じように、全てまた置き去りにして。

「行こう?」

 手を差し出した。言葉に詰まるチェチェリアに首をかしげ、食堂へ行くんでしょう、とリトリアは問いかける。そうだ。そういう話をしていた筈だった。頷いて、チェチェリアはリトリアの手を取った。




 誰かが泣いている。聞き覚えのある声だった。ああぁん、と声をあげて泣いている。知っている声だった。ソキは重たく痛む頭に苦しみながら、ぺたんと地に座り込んだ。額に両手を押し当てる。

 目の前には本があった。白い帆布で包まれた上製本。手に取った時には教本と同じ大きさだった筈のそれが、いつ文庫本の大きさになったのか、ソキはどうしても思い出せない。

 泣いている、泣いている。誰かが泣いている。声をあげて。知っている筈なのに。頭が痛くて思い出せない。呻いてうずくまるソキの頭の先で、白い本がひとりでに開く。

 風もないのにぱらぱらとめくられていく。地に置かれたまま。誰かが読んでいるかのように。白い本がめくられて行く。ぱらぱら、ぱらぱら。未だなにも書かれていない白いページが。頭が痛くて。泣き声がして。

 ソキはそれがなんだかわからない。

『――して』

 泣き声。悲鳴。声が。言葉が。頭の奥で痛みになって反響する。

『して、る……』

 ぱらぱら、ぱらぱら。白いページがめくられていく。執拗に、執拗に。何度も、何度も、繰り返し。文字が書き込まれていないことを、確認する。ぱらぱら、ぱらぱら。

 雨のように。金の砂が降っている。砂時計の世界のよう。ひっくり返されて、天から、金の砂が降り注いでいる。

『わたしも……ソキ、も』

 泣いている。伝えられなかった言葉を繰り返しながら。

『あいしてるの』

 金の砂が。

『ロゼアちゃん……!』

 降り積もっていく。




 ぱた、と本が開かれたまま動かなくなる。

 文字が。白いページに。言葉が、書き込まれていた。




 悲鳴をのんだ喉が引きつって、苦しい咳が何度も出て行った。ソキ、と慌てて身を起したロゼアが、体を寝台から抱き上げた。膝上に抱え込まれて、背が撫でられ、耳元で声が繰り返す。

 ソキ、ソキ。ソキ。けふ、ごほっ、とむせかえって、ソキは鈍い頭の痛みに、訳も分からずロゼアの胸に両手を押し当てた。怖かった。逃れたかった。ソキ、ソキ。どうしたんだよ。

 俺だよ。俺だよ、ソキ。こわくないよ。だいじょうぶ。大丈夫だよ、ソキ。怖い夢はおわり。おわりだよ、おわっただろ。ソキ、ソキ。繰り返されているのに、ソキはロゼアの胸をぽかぽか叩いて、いやいや首を振ってむずがった。

「ろぜあちゃんのだもん……」

 強くつむった瞼から、涙がにじんで流れて行く。しゃくりあげながら、ソキは必至に、くらやみのむこうへ訴えた。

「ソキは、ソキは、ぜんぶロゼアちゃんのだもん……! ちぁうもん、ちがうもん……!」

「ソキ? そき、そき。どうしたんだよ……」

 答える声を。反響する泣き声が塗りつぶして奪っていく。夢の中から現へと手を伸ばして。耳を塞いで意識を奪う。強く咳き込みながら、ソキはろぜあちゃん、と涙声で訴え、呼んで、ふつりと意識を途絶えさせた。

 ぱらぱらと、金の砂が降っている。寝台で青ざめるソキの元へ。




 誰かが泣いている。

 誰かが泣きながら、短剣を。

 あいしてると一言告げて。




 なんだか、とってもソキは寝不足なのである。腫れぼったい瞼をのたのたと動かし、くちびるを尖らせ、頬を膨らませて、ソキはいやんと寝台の上を転がった。室内にひとりきりである。

 遠くで鳥が朝の挨拶を交わす声が聞こえていたが、ソキは室内にひとりきりである。ぷっぷぷー、ぷーっ、と思う存分頬を膨らませ、アスルをよじよじと引き寄せて、ソキはまたころんと寝返りを打った。

 夜に起きた記憶もないのに、なんだかとっても寝不足で、その上けふんと咳が出るので、今日のソキは外出禁止をロゼアから言い渡されてしまったのだ。

 ロゼアは朝食をとりに食堂まで出かけているから、ナリアンもメーシャにもそれは伝わっていることだろう。

 ぷー、ぷー、ぷー、と頬を膨らませ、ソキはころんころんと、右に左に寝台を転がった。

「……あれ?」

 ぴんと張られたシーツの上に。金の砂が落ちているのを見つけて、ソキはぱちくり目を瞬かせた。そーっと指先を伸ばして、触れる。宝石が砕けたような、うつくしい、透き通る砂粒だった。

「んん……?」

 恐らく。雲が太陽を隠したのだろう。ふっと部屋が薄暗くなる。砂に触れていたソキの指先に、誰かがぬくもりを与えた。ぱちん、と瞬くソキの視線の先に、ひとりの少女が現れる。頭が痛い。

 泣き声がする。その姿も、声も、ソキは。

『……どうか、わたしの記憶が、今度こそ』

 知っているのに。

『助ける、糧となりますよう』

 思い出せない。

『あいしてるの。あいしてるの……。ずっと、ずっと、あなただけを。わたしは、ずっと……あいしてる、あいしてるの。すきなの。すき、すき……』

 零れ落ちた涙を、拭う指先を持たず。

『ろぜあちゃん……』

 囁く声は、同じものなのに。その存在の名を呼ぶことができずに、ソキはふっと意識を失い、寝台にうずくまった。夢を見る。短い夢を、繰り返し見る。何度も、何度も、失ってしまった夢を、ソキは見る。

 助けて、と悲鳴じみた声が響いている。泣き声の合間に。助けて、助けて。今度こそ助けて。こんなにも縺れ絡み合い集束してしまった世界では、もう繰り返すことができない。だから、お願い、今度こそ。

『ロゼアちゃんを助けて……!』

 あいしていると。一言。告げられなかった世界の彼方から。声が響いている。

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