ひとりの。別々の夜。 46



 ソキがチェチェリアに会いに行くことは叶わなかった。ロゼアちゃんはここから動かないで待っていような、をしたです、と頬をぷっと膨らませたソキが、談話室のソファから動こうとしなかった為である。

 リトリアに同行していたのがフィオーレなら、好奇心ついでに抱き上げてみるくらいは試みただろうが、一緒にいたのはレディである。

 砂漠出身の火の魔法使いは苦笑気味に溜息をついた後、ソキさまがそう仰るのであれば、と指先をしなやかに動かして焔の小鳥を作りあげ、それを伝令として友人に言葉を伝えた。

 授業が終わり次第、チェチェリアはロゼアと共に、この談話室に姿を現してくれる筈である。報告に、ソキは大変満足そうにこくりと頷き、机の上に用意されていたお茶と菓子でふたりのことをもてなした。

 実技授業の時間は、教員の性格や本人の能力のあり方、その時の体調によっても決まってくるから、通常、定められた枠が終わったからと言って、すぐに戻ってくると決まっている訳ではない。

 それでも、とりあえず定刻を過ぎて五分。リトリアとレディが、ロゼアが帰ってくることを確信したのは、ソキの態度のせいである。

 それまで歓談に応じていたソキは、不意に瞬きをした。ぴくん、と瞼を震わせて、その長い睫毛の先までをあまやかに意識させ、くちびるで息を吸い込む。宝石色の瞳に、ひかりが蕩けるように現れた。

 花を支えるがくのような、水から指先によって掬い上げられた翡翠のような。見る者を、そこに存在する、たったそれだけのことで惹きつけ魅了する、魔性の色彩が現れる。

 あっと短い悲鳴めいた、狼狽した声をあげて、ソキは茶器を持っていた指先を、己の胸へ押し当てた。落ち着かずに何度も、何度も組み合わされる手指はほっそりとして白く、透き通る柔らかな肌に包まれている。

 慎ましく、うるわしい光沢を放つ爪は、磨き上げられた真珠の色をしていた。爪は、ほんのすこしの角度の変化で、淡く恋の色に染まる。光に触れて目覚める、咲き染めの薔薇の色を宿していた。

 んん、とちいさな声をもらし、まるで泣くのをこらえるように、何度も、何度も瞬きをして、ソキはやわりと首をかしげ、ぎこちなく息を吸い込むくちびるに、ぎゅっと指先を押し当てた。

 首筋から肩の輪郭線は、触れれば崩れる月のかたちをなぞっている。内側から光を零すようで。そこから目を離せなくなる。

 目尻と頬をうっすらとしら紅に染め、ソキは俯き加減に、そっと髪に手を押し当てた。撫でるようにして整え、髪に編み込まれたリボンに、指の先を淡く触れさせる。かすかな震えは、なにか、祈りを思わせた。

 胸に抱くたったひとつの望みのために、ソキはずっと、息苦しい程にそれを想っている。たったひとりを。その想いだけを。抱いて、抱いて、祈って、そして何度でも。繰り返してきたことを、リトリアは眩暈のように思い出した。

 一瞬だけ、忍び込んだそれは、息を吸い込む間にもうどこかへ消えてしまったのだけれど。この幸せが望みだ、とリトリアは思う。

 この子の、この人の、この存在の、その望みが。それが満たされ、報われる幸福が。全ての魔術師の運命。死のさだめを、覆す先にある。

「――ソキ」

「ロゼアちゃん……! ろぜあちゃ、ろぜあちゃん……! ロゼアちゃぁんっ……! おかえりなさい……!」

「ソキ、ソキ。ただいま、ソキ」

 談話室にロゼアが現れた瞬間。ソキはソファの上で両腕を持ち上げ、ロゼアに向かって必死で伸ばした。うん、と微笑みながら早足に、ロゼアは人の間をすり抜け、リトリアとレディに目礼したのち、ソファの前に膝をつく。

 おいで、とロゼアの口唇が音なくつづる。ひたすら、その腕の中に取り戻される時を待つ少女へ向かって。ソキは、ころん、とソファから落ちるように、ロゼアの腕の中へ身を寄せた。

 危なげなく受け止め、抱き寄せて、ロゼアはほぅと息を吐いた。てのひらをソキの頬、首筋、額と滑らせ、押し当てて。立ち上がりながら抱き直し、すりついてくる頭に、頬をくっつけて目を細める。

「ソキ」

 一言で。その声だけで。満たされたことが。求めていることが、分かる。どんなに望んでいることか。どんなに、待ち焦がれたことなのか。己の腕に、ソキを取り戻すその時を。

「いいこにしてたか?」

『ボクの言う通りにできタ?』

 それなのに。歪んだ気配が忍び込んだような気がして、リトリアは額に指を押し当てた。抱き上げたままソファに腰かけるロゼアの腕の中、ぎゅっと頬を押し付けて目を閉じていたソキが、はにかんで淡く、瞼を持ち上げる。

「ソキ、ロゼアちゃんのいうとおり、できたです……」

『偉いネ』

「そっか。偉いな、ソキは。いいこだな」

 ぎゅぅっとロゼアが腕に力を込めて、ソキの柔らかな体が抱きつぶされる。きゅぅっ、と喉の奥であまやかに笑い、ソキはくてっと力を抜いて、拘束の中で落ち着いた。

 はうー、はふーっ、と幸せでいっぱいの息を零し、ソキはぱちぱちっと瞬きをして、すいとリトリアに視線を移動させる。まるで、リトリアがソキを呼んだような仕草だった。

 ロゼアの頬に肩をくっつけなおすついでの風に、ソキがほにゃりと首を傾げる。

「リトリアちゃん。なぁに……?」

「え、えっ……っと……? な……なにも?」

「うにゃん? ソキは、リトリアさんに呼ばれた気がしたです。気のせい?」

 いぶかしむソキに怖々頷き返し、リトリアは魔力を見る目に集中した。ソキを注視する。空の、乾いた花瓶にほたほたと、水が注がれているような気配がする。魔力だ。

 もうソキは十分に満ちているのに、それでもどこか空虚な場所に、その洞に、魔力が確かに注がれていた。胸騒ぎがした。けれど。リトリアの、本能に近い所にある直感が、思考よりはやく言葉を叩き出す。

 これはおかしいことではない。異変かも知れないけれど、おかしい、ことでは、ないのだ。それは予知魔術師として、正しい。予知魔術師が、そう機能する為に、正しく使われる為に、必要な準備だ。

 リトリアにだけは、それが分かった。この世界で唯一、ソキと同じ適性を持つ、予知魔術師であるからこそ。

 見誤った。異変であることを。予知魔術師であるからこそ、おかしくない、と判断して。言葉魔術師の武器として、ソキが整えられ始めているなら。それは魔術師に与えられた正当な権利であるから。

 予知魔術師はそれを、おかしい、と思うことはできないのだ。




 残っていた仕事を片付けてきたのだろう。帰り支度を整えて談話室に現れたチェチェリアは、ゆったりとした歩みでリトリアたちとの距離をつめながら、ソキに目を向け微笑みを深めた。

 もう微笑む以外にどう気持ちを表現したらいいのか分からない。そういう表情だった。

「……程々にな、ロゼア」

「はい? あの、なにをでしょうか」

「うん。……うん、リトリア、帰ろうか。レディも、『扉』まで送ろう」

 己の魔力でソキを染めることに、であるのだが。素直に不思議がって問いかけられるので、チェチェリアにはどうしても言えなかったらしい。

 担当教員といえど、だからこそ、生徒の色恋沙汰に口を挟むべきではないと我が王も仰っていた、気がするしとチェチェリアが遠い目になるのに、リトリアはそぅっとソファを立ち上がった。

 二人の主君である楽音の王は、口を挟んで私におもしろい結果が跳ね返ってくるのであれば、あなたたちは私の魔術師として積極的にそれをなすべきですね、と告げる想像がたやすい性格をしているが、幸い、聞いたことはなかった。

 これからも聞かないでおこう。精神安定と、なにより己の身の為に。視線を交わし、苦労を分かち合って、リトリアはきょとんとするソキの顔を覗き込んだ。

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