ひとりの。別々の夜。 30
もうちょっとですよ寂しくないですよソキが一緒ですよ、と言い聞かせてアスルをぎゅむぎゅむ抱きなおし、ソキはてちてち歩き出した。寮はどこもかしこも寝静まっていて、灯されている火の数も乏しく、薄暗い。
やぅ、うぅ、と怖がって声をあげながら、てちてち、普段よりずっとちいさな歩幅でちまちま歩き、ソキが『扉』から住居室へ続く廊下を、曲がった時のことだった。
ト、トン、と連続して軽やかな、ちいさな音が響いた。それが急激に動きを止めた靴音と。両膝が廊下につかれた音だと、分かるよりも早く。足元にアスルがぽて、と落ちた。体が引き寄せられる。
「ソキ……っ!」
腕の中に。どんなにか戻りたいと願った、腕の中に。どんなにか聞きたいと思った、声と共に。
「ソキ、ソキ、ソキ……!」
「ロ、ゼア……ちゃ……ん?」
抱き上げる間も惜しいとするように。ロゼアの両腕が、ソキを強く抱きしめていた。ソキ、と聞いたこともない声の響きで、ロゼアが呼ぶ。腕が、そうされたことのない程の力で、ソキの体を抱き寄せた。
かかとが、くっと持ちあがる。背伸びをしながら抱き返して、ソキはロゼアにぴたりと体をくっつけた。
「ロゼアちゃん……」
「ソキ。……ソキ」
満たされた。ようやっと満たされた、熱っぽい掠れた声が、耳元でソキを呼ぶ。はは、と吐息に乗せてロゼアは笑って、ぎゅぅ、とさらにソキを抱き寄せる。ソキのやわらかな体が軋んで痛むほど。その腕に力がこもっていた。
「ロゼアちゃん。……ロゼアちゃん、すき。すき、すき、だいすき……大好きです、すき」
ずっと。ずっと、ずっと。
「すき……!」
こうして欲しかった。痛いくらい抱きしめて欲しかった。脆いつくりの体が、痛いと訴えてもかまわないから。嬉しくて、嬉しくて、息がつまる。は、はぅ、と掠れた響きで息を吸うソキの髪を、ロゼアの手がゆっくりと一撫でする。
「俺もだよ、ソキ。俺もだ……」
「ん。……ん、んっ、きゅ……ぅ」
さらに強まった力に、ソキは眉を寄せて声をもらした。はっと息を飲んだロゼアが、腕から強い力を解いてしまう。ソキ、と気遣う声で頬を撫でられて、ソキは半狂乱の悲鳴をあげた。
「やめちゃやです! いや、いやいやぁっ……!」
「ソキ」
「ぎゅぅして! ぎゅぅ! やめないでやめないでっ……! ソキを離しちゃ嫌です!」
ぐっ、と背が抱き寄せ直される。体をくっつけて、ぎゅっと抱きしめて、ロゼアがうん、と言って笑った。腕は抱き寄せる場所を思い出すように僅かに動き、力が込めなおされる。
ソキが息をできる強さで。弱い体が軋まず、痛まないぎりぎりの強さで。抱きしめ直される。『花嫁』であった時も、『学園』に入学してからも。そんなに強く、抱きしめられたことはなかった。
「離さないよ」
身動きがすこしもできないくらい。ぴったり、体がくっつけられている。ひとつのもののように。ひとつに、なりたがるように。ロゼアはソキを抱きしめて、髪を、背を、撫でていた。
え、えっ、えくっ、ぐずっ、すん、すん、とロゼアの肩に顔を伏せて震えているソキはどう見ても泣いていたが、声をかけるとふわふわした涙声で泣いてないです気のせいですそれはいいがかりというものです、と可愛くないことを言われるので、寮長はなまぬるく放置してやることにした。
まあ、ロゼアが慰めているというか膝の上に抱きあげていつになくぴったりと抱き寄せて撫でているのだし、そのうち落ち着くだろう。
寮長はたたき起こされたが故にひどく鈍くしか動かない頭をもてあましながら、あー、と意味のない声をあげて寮の天井を仰いだ。それにしても。
「大丈夫だから待ってろっつったろ……?」
びくぅっ、とばかりソキの体が震え、えぅ、うぅ、えっく、ううぅ、と声が上がった。ロゼアから寮長を刺し殺したがる視線が向けられるが、ソキが顔を伏せているからだろう。
寮長は一応安全の為に距離をあけながら、呆れ顔でソファに座るふたりを眺めやった。ここ数日のソキなしのせいで、ロゼアが完全に荒れすさんでいる。分かっていないのはソキだけである。
寮に留まるを得なくなった教員たちも、世界に風穴を開けられた衝撃と強大な魔力に当然目をさましていたが、ロゼアにひっつくソキを見て、それを見守るチェチェリアを見て、肩をぽむぽむ叩きながら解散となった。
だいたいロゼアはソキの前で猫をかぶりすぎである、と寮長はこの数日でしみじみ思っていた。
なんだってロゼアが不機嫌で苛々して落ち込んでヘコんで不安定だということを告げただけで、正常な認識の存在から疑われる眼差しを向けられなければいけないのか。それはまったく寮長の持つ想いである。
普通なら、こんなにべっとりしているソキがロゼアの傍から離されるというのは、考えただけでもおおごとだと分かるのに。
ソキはなぜか、かたくなに、無意識なまでに、ロゼアがいつもと変わりない日常生活を送っていると考え、それを寮長の口から聞きたがった。
まるで、それで安心したいのだと言うように。あんなにも不安で瞳を揺らし、魔力を震わせておいて。まったくどうして、そんなことが聞けたことだろう。
一回くらい、こいつらまとめて医者のトコにぶち込んだ方がいいんじゃねぇの精神的な問題で、と思いながら、寮長は浮んで来るあくびをそのままに、いまひとつ動いてくれない頭でぼんやりしながら、あー、とまた声をあげた。
ものすごく眠くてつかれて眠くてだるくて眠くて眠いので、これだけは、ということを終わらせて、さっさと寝台へ戻らなければいけない。
起き出してきた教員も寮生たちも部屋へ引きあげ、談話室にいるのはふたりと、寮長だけだった。ロゼアの部屋で一緒にごろ寝していたナリアンとメーシャは、寝ぼけまなこでやって来てソキを確認したのち、寝具を回収しに戻って行った。
今頃は自分の部屋で寝なおしている頃だろう。明日お見舞いに行くからね、と囁くナリアンはソキが起き上がれないだろうと予想をつけていて、メーシャはよかったねロゼアと目頭を押さえていた。
ソキは二人に対して顔をあげ、あうあうとなにかを言いかけたが、すぐにロゼアの肩にぺとりと額をくっつけなおし、ぐりぐりと擦りつけて甘えていた。
う、うっ、ぐずっ、くすん、すん、としゃくりあげる響きが、静まり返った真夜中の談話室に響いている。ロゼアは寮長をどう殺すか考えていた視線をソキへと戻し、ぽん、ぽん、と背を撫でて髪に指をからませた。
「ソキ、ソキ。もう大丈夫だよ。……大丈夫。俺はずっと傍にいるよ。ソキのことを離さないよ」
ぎゅむううう、とソキの腕に力が込めてくっつきなおされるのに、ロゼアからふわりと満ちた気配が零れ落ちる。太陽の黒魔術師の、ここ数日の苛烈さが。冷えた肌を柔らかく温めるだけの陽光と変す。
「あー……あー、ともかく、だ。……お前たぶん向こう一月は反省札だな」
「うやぅ! う、うぅ、うー……! ぐずっ……」
「俺たちの転移と違って、お前のは風穴を開けて通ってきたってことなんだよ……。お前この修復にどんだけ時間と労力かかると思って……あああ、だから……だから待ってろっつったのに……。あー……あああ……」
楽音から『学園』のある世界に向かって、くっきりと魔力で線が引かれたのを、魔術師であるなら誰もが感じ取っただろう。それは本人の魔力量の少なさと、維持しようという意思がなかった為に、すでに消えかけているかけ橋ではあるのだが。
本来、そうでなかった二点を貫いたものの為に、世界を包むまぁるい膜に、黒々とした孔が開いてしまっていた。予知魔術師は世界すら壊す力を持っている。その願いひとつ、叶える為に。
ロゼアの元へ帰るという願いひとつの為に。ソキは、一歩間違えば世界を突き崩す真似をしてしまった。
未だ安定しきらない、未熟な予知魔術師であるというのに。
「……よし、考えるのは明日から。俺はとりあえず寝る! 寝るぞ……!」
「おやすみなさい、寮長」
「お前のそうやって律儀に挨拶してくる所が地味に嫌いだばーかばーか猫かぶり……!」
礼儀正しくしたのに罵倒されたロゼアは、ぬるい笑みを浮かべて寮長を見送った。追わなかったのはもちろん、腕の中にソキがいるからである。
先程からずっと、ロゼアの肩にくしくし額や、頬を擦りつけることに忙しいソキは、怒られたのに反応したものの恐らく話は聞いていなかっただろう。ソキ、ソキ、と囁き落とし、ロゼアはぎゅっと柔らかな体を抱きなおした。
「眠りに行こう」
「ぎゅって、して、寝てくださいです……。ぎゅぅ。ロゼアちゃん、ぎゅぅ……!」
「うん」
ぐずるソキの体をぴっとりくっつけて、ロゼアはその腕に力を込めなおした。きゅぅ、と嬉しそうに鳴いて、ソキはその腕の中で動かなくなる。うとうと、すぐに眠たそうに意識をまどろませる額を重ね合わせ、ロゼアは満ちた思いで囁き落とした。
「おやすみ、ソキ。いい夢を」
数日ぶりに聞くことのできた言葉に。ソキはあどけなく笑い、ロゼアの額にすり、と肌を擦り合わせた。
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