今はまだ、同じ速度で 31

 正午を告げる鐘の音が、ゆるく、ゆるく、空気を震わせた。澄んだ音色を肌に触れさせながら、ソキはどこかぼぅっとした眼差しで、その一室を見回していた。広い部屋だった。

 居室に限れば、ハレムの中で唯一城の外が、街の風景を眺めることのできるつくりなのだと告げられた通り、開け放たれた窓から見えるのは広がる砂漠ではなく、整えられた庭園ではなく、とある広大な敷地を有す建物群の一部だった。

 密に咲くはなびらのような外観のそれを、なんと呼ぶかソキは知っている。『お屋敷』だ。窓辺に歩み寄り、それに手を伸ばしかけ、ソキはふと微笑んで指先を折り曲げた。なにをしようというのだろう。触れられる訳でもあるまいに。

 そこに宿るやさしい記憶にすがって、どうしようというのだろうか。そこへかえれもしないのに。ゆるゆると息を吸い、吐き出し、ソキは『お屋敷』を背に振り返った。

 戸口に立ち腕を組み、ひどく冷静な眼差しでソキを見つめてくる男に、この砂漠の国の王たるひとに。誰もが見惚れるようなうつくしい、うるわしい、やわらかな花のような微笑みを浮かべたまま、一礼する。

「すてきなおへやを、ありがとうございます。陛下……」

「……気に入ったか? 仮押さえだから、不満があれば変更できる。一応、あと二つほど候補はあるが」

「いいえ。こちらで十分です。……ソキの、すんでいた、区画に……お部屋に、すこしだけ、似てるですよ」

 王に連れられて歩いたハレムを、詳しく見回した訳ではないが、そこには様々な建物があった。恐らく、住まう女たちの好みや、出身国にも合わせてあるのだろう。

 ソキが連れてこられた楼閣は、ハレムの最深部にほど近い、ひっそりと静まり返った雰囲気の中にあった。壁や柱は乳白色に染め抜かれ、ごく一部が艶のない金と、黒に近い緑で装飾されている。

 広々とした庭園は花に溢れ、緑が多く、触れる空気は冬に冷やされてなお、どこか温かくも瑞々しい。そうか、とだけ呟き、王は腕組みをして部屋を見回すソキを、睨むように見つめていた。

 機嫌が良くない、ということだけはソキにも理解することができた。それ以上のことは分からない。だから声をかけず、ソキはゆっくり、部屋をみてまわった。

 しばらく使われていなかった部屋なのだろう。直前になって清潔に整えた独特の香りがするも、端々までがきっちりと整えられている。天井は高く、空間はどこかがらんとした印象だ。

 ものが多く置かれていない為だろう。部屋には壁際に空の本棚が置かれ、その前にソファが置かれ、机が置かれ、それだけだ。机の上には白い鈴蘭の形をした呼び鈴が置かれていた。

 ひやりとするそれを指先でつまみ上げ、ソキはそっとそれを降り鳴らす。陶器の澄んだ音色が響き、王がはじめて、気が緩んだ微苦笑になる。

 遊ぶんじゃない、とたしなめるような表情に、そっと呼び鈴を机に戻し、ソキは視線を部屋の奥へと向けた。二部屋続きになっている空間の、開け放たれた扉の向こうに、広々とした寝台が見えた。

 王の愛妾の為の部屋である。そこでなにをされるのか、ソキは知っていた。

「ソキ」

 指先の震えを押し隠し、ソキは微笑んだまま、砂漠の王に視線を向け、はいと返事をした。

「俺は個人的には、お前がハレムに入ることは歓迎してる……正直嬉しいとも思ってるが、それは俺の個人的な理由だ。……確認しておくが」

 はじめて、男が、背を預けていた扉から体を離し、室内に足を踏み込んだ。歩み寄り、伸ばされた手でおとがいを捕らえて上向かされる。凍りついた森色の瞳で微笑み、ソキは砂漠の王の言葉を待った。

 どこか苛立たしげな息を吐き、王が口唇を開く。

「お前が生涯ロゼアを愛すことを許せば、お前は……俺に、恋をしない。いとしく思うことはあれど、愛すことはない。そうだな?」

「はい、陛下」

「……俺は女は好きだから、お前のことも、わりと容赦なく甘やかすし、やさしい言葉もかけるだろうし、やさしくするが。それでも?」

 煮詰めた飴色の肌に包まれた指先が、くすぐるようにソキの喉を、頬を、撫でて行く。恥じらう乙女のように震えながら、ソキはそっと目を伏せ、男の手を包み込むようにもって微笑んでみせた。

「はい。陛下。……それを、お許し頂けるのであれば、わたしは……ソキは、この場で誓いましょう」

 決してあなたさまに恋をしないと。ロゼアによく似た面差しの、端正で精悍な顔つきの男に、ソキは愛を誓うようなうっとりとしたまなざしで、声で、囁きかけた。花のようにあいらしく、うつくしく、微笑みながら。

 その手に触れ、言葉を捧げ、誓った。

「ソキの、この恋だけを、お許し頂けるのならば……」

「……俺が、この国の跡継ぎを孕めと命じても?」

「砂漠の幸福の為にこの身を捧げます、陛下。ソキは……ソキはこの国のしあわせのために、つくられた、『花嫁』です」

 瞳に、涙すら滲ませず。ひかりあふれる、しあわせそうな、うっとりとした笑顔で、『花嫁』は言い切った。

「この国と、あなたさまの治世の平和の為。砂漠の民の幸福の為に。どうぞ、ソキを、おつかいください」

「……ソキ」

「はい」

 あいらしく笑って返事をするソキの前にしゃがみこみ。王は溜息をつきながら、ソキの頬を指先で摘んだ。

「さっきも言ったが、これは最終手段の為の準備だ。必ずこうしろよ、こうなるぞってことじゃない」

「……やぁん。陛下、ほっぺ、むにってしちゃ、やです」

「守護役と殺害役を決めれば、お前はどこかの王宮魔術師にだってなれる。さすがに、楽音に行くのは無理だと思うが……なにもなく卒業すれば、お前は、ハレムに来ることしかできなくなる。あの時とは事情が違う。お前は、砂漠の王宮魔術師にすら、なれない……許されないだろう」

 リトリアの事情がもうすこし改善してればなんとかなるかも知れないが、とそれを期待できないとみなしている風に告げ、砂漠の王はソキの瞳を睨みつけるようにして見た。

 無防備な予知魔術師を『学園』においておくことは、できない。『学園』は未熟な魔術師たちを守る為の場所でもある。そこに予知魔術師の保護をもさせるのは、荷が重すぎることだった。

 かといって、リトリアのように王宮魔術師として動かすことも難しい。リトリアにそれが許されたのは、少女が体の完成しきらないうちに『中間区』に足を踏み入れたからであり、そしてこちらの空気が毒であるからだ。

 弱ることの分かり切っている籠の鳥であるからこその、慈悲として、リトリアは王宮魔術師であることを許された。

 そうでなければ何処とも知らぬ場所で、幽閉のような生活を強要しなければならなかったかも知れないと、砂漠の王は知っていた。それは恐らく『中間区』のどこか。あるいは星降の王の目が届くどこかだ。楽音に戻ることは難しかったに違いない。

 ソキは、二人目の予知魔術師だ。砂漠に戻ることを許されるのは、そこに王のハレムがあるからである。やさしい王の花園に囚われるなら、魔術師としてすら、生きないので、あれば。

 ソキは守護役と殺害役を得ていなくとも、監視のない生活を許される。状況は刻一刻と変わっていく。半年前は悪戯な可能性にしかすぎなかったソキのハレムいりが、卒業後の選択肢のひとつとして確定しかかっているように。

 四年間。王が一番はじめにソキに許したその時の長さが、状況をやさしくほどくかも、知れなかった。

「……へいか」

「なんだ」

「もし……もし、ソキの希望を、ひとつだけ、きいていただけるのであれば……」

 はじめて、感情の滲むふるえた声に、王は許そう、と発言を促した。

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