今はまだ、同じ速度で 29
ソキ、ソキ。囁きながら、零れ落ちそうな涙を確かめるように、ロゼアの指先がソキの目尻を幾度も撫でる。
「なんで? 一緒に寝ればいいだろ。……どうしたんだよ。誰かになにか言われた? 誰? 教えて、ソキ」
「ちがうです、ちがうです……! ソキ、ロゼアちゃん、困らせちゃうです……ろぜあちゃん、ソキのこと、きらいになるぅ……!」
「ならないよ。なんだよそれ」
恐ろしい鈍く暗い光を一瞬だけ瞳によぎらせ、ロゼアはむずがるソキに腕を回し直し、柔らかく抱きしめる。決して『花嫁』の弱く、脆い体を痛くしない力加減に。ソキは、息ができないくらい胸を痛くした。
もっと。ぎゅってして。ほしいのに。ロゼアは絶対にそれをしてくれない。
「ソキを嫌いになんて、なる筈ないだろ」
わかっている。ソキがロゼアの『花嫁』、だった、から。ロゼアがそう言うに違いないことを、ソキは。
「困ることも、ないよ。何回も言っただろ……? ソキ、ソキ。どうしたんだよ……」
「……ろぜあちゃん」
すきだよ、って。いって。きらいにならないとか、こまらないとかじゃなくて。ソキのことが好きだから、だから、だいじょうぶだよって。いって、と、思いながら。
それをどうしても諦めることができずに。涙ぐんで見上げるソキに、ロゼアはふわ、とやさしく微笑みかけてくれた。
「おいで、ソキ。ねよう」
てのひらが。ソキの背をやさしく撫で、髪を幾度も梳いて行く。ロゼアの指先に絡みつきながら、するすると絹のように滑らかに零れ落ちていく髪が。シーツに散らばって冷えていく。
頭を胸に抱き寄せた手が、世界の雑音を遮断するように、ソキの耳を包み込んだ。
「ソキ」
こつ、と額が重ねられて。ソキの世界はロゼアだけになる。
「ソキ、ソキ。……教えて、ソキ。ソキはもう、俺と一緒に寝るの、いや?」
「……ちぁうです。ちがぁう、です。ソキ、ソキはね、ロゼアちゃんといっしょがいいんですけどね、でもね。……でもね」
さわって、と。吐息に乗せて、ソキは泣き声交じりに囁いた。さわって、ロゼアちゃん。ソキにさわって。失望を呼び起こす裏切りに怯えながら、それでも触れて欲しくて。もっと、熱が、ほしくて。
震えながら囁いたソキに、ロゼアはすこしばかり考える顔つきで沈黙し。やがて、ふ、と笑みを深め、ソキの背をぽんぽんぽん、と手で撫でた。
「触ってるだろ? ……もう寝ような、ソキ。やじゃないなら、俺と一緒でいいだろ」
「……はい、ロゼアちゃん」
「うん。偉いな、ソキ。いいこだな……。……大丈夫、大丈夫だよ、ソキ。ソキ。俺はずっと傍にいるよ」
頬に、首筋に触れ、髪を梳いて額をくすぐるように指先が辿って行く。いつも通りの仕草で。
「俺は……ずっと、ソキの傍に、いるよ」
いつも通りに。おやすみ、いい夢を、と囁いたロゼアに、ソキはぎゅぅっと目を閉じて頷いた。やはりロゼアは、傍にいたい、とは言ってくれなかったので。ソキが求めるから、きっと、傍にいてくれるので。
もういいですよ、大丈夫ですよ、と告げればきっと、ロゼアは。傍にいたい誰かのところへ行ってしまう気がして。ソキはぎゅっと体に力をこめて、まぁるくなって目を閉じた。
撫でられて、全身を熱にくるまれて、それはすぐ、ぐずぐずと溶けてしまったのだけれど。しあわせで、しあわせで。零れた涙をぬぐった指先があったような気がするのだけれど。うとうととして、眠ってしまったソキは、すぐそれを忘れてしまった。
ぱらぱらぱら。どこかで。白い本が、言葉の書かれていないページが、風にめくられていく。必死に、純白を守るように。祈りのように。言葉が。黒い染みのように落ちてしまわないように。インクの汚れをはねのけるように。
ぱらぱらぱら。本がめくられて行く。
『……だ。……め、だよ……ちゃん』
泣き声混じりの、願いのように。どこかで。
『ソキちゃん……!』
誰かが。
『ロゼアを離さないで、いいんだ……! だって、ロゼアは……!』
『ナリアンさん』
大丈夫、と。聞き覚えのある声がやんわりと響く。響く、それは花の香のように。
『わたしが行きます』
遠い世界の果てから。遠い世界の、果てまで。つらぬく願い、祈りのような、声が。
年が変わるまで、もうほんの数日となった、ある日のことだった。
朝からソキはひとり、赤いはなびらが覆い尽くす湯の中で女たちに世話をされていた。女たちは、ソキの慣れ親しんだ屋敷の世話役ではない。王に命ぜられた城勤めの侍女たちだった。
きよらかな花とハーブのかおりに満ちた湯の空気を吸い込みながら、ソキはふぅ、と気乗りのしない息を吐きだした。髪は女たちの手によって丁寧に洗い清められ、湯の中を漂っている。今は肌を磨かれている段階だった。
半身だけを湯に付け、浴室の中につくられた段に腰かけたソキの背や腕を、女たちが洗い、拭い、香油を刷り込んで整えて行く。
体調はそれなりに良いが、なんとなく屋敷に行く気にならず、ロゼアを見送って部屋でメグミカと話をしていたソキの元に、王が訪れた為だった。
王は、ちょっと身綺麗に整えてこいお前に見せるものがある、と告げ、ソキを城の女たちに預けてしまった。『お屋敷』から来ているソキ世話役たちは、別室で待機し、ソキの仕上がりを待っていることに、されていた。
ソキは別に身綺麗にすることも、整えられることも、嫌いではないのだが。それでもうんざりと息を吐きだしたのは、ソキに触れ整える女たちの様子が、すこしばかり変わったのを感じ取った為だった。
だからソキは、屋敷の世話役たちがいい、と言ったのに。たまには城の女にも仕事をさせろと退けた王をすこしばかり恨みつつ、ソキはや、と身をよじり、肌に触れてくる女の手を遠ざけた。
いくつもの手や腕から逃れ、湯に身を沈めてしまいながら、ソキは息を吸い込んだ。
不安はない。信頼だけがあった。
「――メグミカちゃん! シーラ! ウェスカ! アザ! ユーラ!」
がつんっ、と扉が苛立ちと共に蹴られたような音を立てて開き、少女たちがかけ込んでくる。ソキが名を呼んだ、屋敷の世話役たちだった。
濡れるのもためらわず湯に入ったメグミカがソキの体を抱き寄せ、四人の女たちがふたりを背に庇うようにして立つ。はー、と安心した息を吐き出し、ソキはメグミカにぴったりと体をくっつけ、瞼を下ろした。
ほの暗い欲に輝き、『花嫁』の肌に溺れる者の目など、あまり長く見ていたいものでは、なかった。
「あとは、わたくしたちが」
「王にはこうお伝えください。城仕えの皆さまからお仕事を奪ってしまい、申し訳ございません。ですが、どうかご理解頂きたく思っております、と。……さあ、どうぞお下がりください。ソキさまを、さらにうつくしく、あいらしく整えるのは、わたくしたちの役目」
「いましばらくのお時間を頂きます、と陛下にお伝えください」
さあ、はやくこの場から消えなさい。無言で告げる女たちに侍女たちは悲鳴のように息を飲み、ばたばたと部屋から走り出して行く。
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