ささめき、よすがら、そして未来と引き換えに 38(終わり)

 かたかたと、シークの服を掴む手が、腕が震えている。怯えるように。泣く寸前のように。訝しげに、やや不愉快そうに眉を寄せ口を閉ざすストルも、要求は同じようだった。

 リトリアちゃん、とシークは囁く。リトリアは、こくん、と無言で頷き、シークの背にすがりついていた体を離し、怖々とその前へと歩み出る。強張った指先がもじもじと、何度も何度も組み合されながら、震えをどうにか隠そうとしていた。

「あ……」

 ひりついた声が押し出す声が、裏返っていて。泣きそうになりながら、リトリアは顔を赤くした。

「……の。えっと……。あ、あの……その……。……こんにちは」

「はい。こんにちは。……それで?」

「ご……挨拶も、せず、に……しつれい、しました」

 ツフィアの瞳にさっと広がったのは、失望と怒りだ。俯いたきりのリトリアには分からなかっただろうが、シークからはよく見えた。違う、とその瞳が言っている。

 そんなことを言わせたいんじゃない。こんな言葉を聞きたいんじゃない。どうして、あなたは。どうして、わたしに。

「ストルさんも……」

 ごめんなさい、と視線を向けずに吐き出された声はあまりに泣きそうで。握り締められたきりの少女の手は開かれず、どこへ伸ばされることもない。誰のことも求めないまま。

 リトリアは震えながら、ストルとツフィアに向かって頭を下げた。

「ごめんなさい……失礼を、致しました。お……おひさし、ぶりです」

「……俺は」

 くしゃりと前髪を片手で乱しながら、ストルが苛々とした様子で目を細める。その瞳にあったのはツフィアと同じ感情だった。失望と、そして怒りが火のように揺れ。それを宿す声は熱のように肌を痛ませる。

「俺は、君に、なにかしたか? ……なにか、してしまっていたのなら、教えて欲しい」

「私もよ。どうしてあなたは、そうしていつも、私に……私たちに、怯えるのかしら」

 くちびるに力をこめて、リトリアはふるふるふる、と勢いよく首を横に振った。ごめんなさい、と零れ落ちたのは謝罪の言葉。ごめんなさい、ごめんなさい、と震えながら、リトリアは囁いて。

 苛立ちを募らせる二人に、ようやっと、怖々と視線を向けて、息を吸い込む。

「ツフィア……さん、も。ストルさんも。なにも……して、いません」

「ソウダよネェ……。キミと来たら入学以来、ずっとずぅーっとこの調子ダモノ。避ケル、逃ゲル、隠レル、怯エル……挨拶できるようにナッタだけ、頑張ったネ。キミたちも、そうやって突いていじめるのは止めてくれないカナ? ほぉら、見てご覧ヨ。カワイソウニ。泣きそうジャナイカ」

 リトリアが。『学園』に入学したその時から、シークの傍にちょろちょろとまとわりつき、ストルとツフィアを徹底的に避けている、というのは有名な話だった。

 話しかけようとすれば走って逃げ、用事があって探せば隠れ、顔を合わせれば怯えるように震えるばかり。まともな会話になったことなど、一度としてないだろう。

 シークが言う間にもぼろりと涙をこぼしてしまったリトリアに、ストルからも、ツフィアからも、溜息が洩れる。それにますます体を強張らせ、怯えるように俯いて。リトリアは繰り返し、ごめんなさい、と言った。

「今度、から、ご挨拶……ちゃんとします。だから……わたしの、ことは」

 強張った指先を、腕を、なんとか動かして。リトリアはそれを、己の胸へと押し当てた。決して伸ばしてしまわないように。また視線を反らして、かたく目を閉じる。見てしまえば、どうしても。

「ほうっておいて……ください……」

 どうしても、どうしても。

「おねがい……」

 好きだという気持ちが、零れてしまいそうで。

「おねがいします……。おねがい……」

 けれどもどんなせかいでも、それはふたりを、しあわせにすることはできなかったので。だめよ、だめよ、と繰り返し言い聞かせる。だめよ、だめよ、もうだめよ。あいしてはいけないし、あいされてもいけない。

 大丈夫、ほら、見て。二人にはちゃんと、たくさんの友達がいるし、いつも誰かと一緒にいるし、とてもとても楽しそうで。笑っているから、幸せでいるから。

 傍にいられないことくらい、好きって言えないことくらい、好きになってもらえないことくらい。がまんできるの。

「……お二人が来てくださったことは、フィオーレとラティにすぐお伝えします。陛下のお耳にも、起きたらすぐに……ですから、どうぞ、今しばらく……別室で、お待ちください」

 顔をあげて。青ざめながらも微笑み、告げたリトリアに、ストルもツフィアもそれ以上はなにも求めなかった。分かった、とふたりは頷き、足早に立ち去って行く。

 その背が、一度も振り返ることも立ち止まることもなく立ち去って行く、その姿が、廊下の向こうへ消えるまで、見送って。リトリアは瞼の上から強く手を押し当て、その場にずるずるとしゃがみ込んだ。

 その前に溜息をついてしゃがみこみ、シークはひょい、とリトリアの顔を覗き込む。視線が重なることなど、ないままで。

「リトリアちゃん」

 優しく、やさしく、名を呼んだ。

「キミは、『学園』に入学してすぐ、ずっと……ボクの傍にいてくれたね。あの二人をずっとずぅっと避けながら、気がつかれないようにずっと、見つめて……それなのに、一度も傍に行くこともしないで。ボクの傍にいてくれた」

 ためらいがちに伸ばされた指先が、やわやわと、ぎこちなく、リトリアの髪を撫でていく。声もなく泣くばかりのリトリアに、言葉はやわらかく降り注いでいく。雨のように。

「いつからか、ボクはさびしくなかったヨ。友人も出来たし、周りとも打ち解けるコトがデキタ。こちらのセカイに落とされて、帰るコトしか考えられなくて、乾いた日ばかりを過ごしていたボクに……生きる喜びを、教えてくれたのはキミだ」

 ダカラね、と言葉魔術師は笑う。

「もうイイヨ。もう、イイ。十分ダ。……馬鹿なコだねぇ、キミは……」

 ボクは大丈夫だと言っただろう、と囁く声に。リトリアは顔をあげて、シークをみた。シークさん、と信じられない気持で呼びかける。頬を零れていく涙を拭う袖口は、指先が肌に触れてしまわないよう慎重な仕草で。息が詰まった。

「覚えて、る、の……? こことは、ちがう、せかい、なのに……」

「覚えてる、というのはすこし違うネ。キミだってソウだろう? ……ボクが、ボクとして繰り返されただけのことサ。はじまりのキミ。キミがどうしてか、この世界でキミのまま、いつしか存在していたのと同じダヨ」

 なにが、どうなってしまったのか。リトリアにはよく分からなかった。

 ただ気がつけば、世界を繰り返し繰り返し改変していた筈の、姿無く風のように耳元で囁くだけの意思として存在していた筈の『リトリア』という存在は、もう一度産まれたかのように、ただ世界にあったので。

 外側から観測して、願う世界ではなく。内側から書き換えていく世界として。リトリアは己の間違いを、失敗を、変えられなかった結末を書き換えるように、生きてきた。それを誰にも言ったことはなかった。

 愛された記憶だけが心に熱を灯して。愛してくれたことをいまもちゃんと覚えているから。今度こそ、望む幸せに辿りつけると、そう思ったのに。

「うまく……うまく、行ってるもの! もういいなんて、言わないで……! シークさんはソキちゃんを誘拐しなかったし、お友達だってたくさんいる! 私も魔術師として安定してるから、いつかシークさんを向こうに帰すことだって、できるかも知れない……!」

「ウン」

「ストルさんも、ツフィアも、わたしがいなくても大丈夫だったもの! ストルさんはやっぱりお友達が多いし、ツフィアだって……あの時みたいに、孤立していないもん……! 入学が、私よりすこしだけはやければ、ツフィアは大丈夫なの。お友達ができるの。わたしがあまえたりしなければ、それでいいの。ストルさんも、ツフィアも、ほら、星降の王宮魔術師になって……! みんな、ふたりを、すごいって言ってる。有能だって! ふたりとも、わたしがいなくてだいじょうぶだったもの! わたしが一緒じゃない方が、ふたりとも、ちゃんと……! しあわせに、なれるんだ、もの……好きになってなんて言えない。愛してなんて、思えない。……愛してくれた、ことがあったって、ちゃんと覚えてる。だから、もう、いいの」

 ロゼアくんとソキちゃんも、大丈夫。二人でいればきっと幸せになれるわ。泣きながら囁くリトリアに、シークはソウカモしれないね、と頷いてやった。

「キミがしあわせになれないダケだ」

「……みんな、しあわせになったもの。この世界は大丈夫。あの世界みたいに、壊れてしまったり、しないもの」

「ソウダネ。……ボクがあの二人に、こっちは理由も分からないで怯えられて話もできないのに懐かれやがって人気のない場所では背後に気をつけろ、みたいな目で睨まれるくらいのモノだよね……」

 深々と息を吐くシークに、リトリアはぱちぱちと瞬きをした。なぁにそれ、と首を傾げるリトリアに、今後の身の安全の為に詳しく教えてあげるコトができないカナ、と苦笑して。シークは立ち上がり、座りこんだままのリトリアに手を伸ばした。

「しあわせのままで時を止める世界が、ひとつくらいあってもいいと思わないカイ?」

「……うまく、いっているもの。なにがだめなの?」

 キミが。いつまでもいつまでもしあわせになれないままだろう、と。告げることなく。シークは苦笑して、てのひらに乗せられたリトリアの手を、そっと握り締めた。寄り添うぬくもりはあたたかく。触れた肌の熱は、やわらかな幸福を教えた。

「もう一度、やり直してオイデよ。……そこではボクに優しくシテハイケナイヨ。もう、二度と、こんな風にしてはイケナイよ。ストルと、ツフィアの元へお帰り、お人形ちゃん」

「でも、ふたりとも……わたしがいないほうが、しあわせになれるの」

「ストルのしあわせも、ツフィアのしあわせも。キミが決めていいコトじゃないだろう?」

 泣きそうに首をふる予知魔術師に。言葉魔術師はじわりと魔力を滲ませながら、静かに静かに囁いた。

「どこかの世界デ、ボクはキミを憎むだろう。羨むダロウ。それでいい。キミはボクの敵でなければいけない。ボクの傍に来てはイケナイ。ストルとツフィアのトコへお帰り。……これは長い永い、シアワセな夢だった。夢のような日々だったヨ。でも、夢だ。……さあ、もうお行き、リトリアちゃん。もう、間違えてはイケナイよ」

「……シークさん」

「大丈夫。もうボクはさびしくない。キミのおかげだ」

 ただ、ひたすら、元の世界に戻りたいと。その渇望だけが残ってしまうなら、そのことは繰り返し続けられていく世界で、さらに己の心を壊してしまうだろうけれど。幸福はここにあり、そしてこの世界と共に眠りにつく。

 いつか、どこかで、あったという熱が、どうか。どこかで優しくありますように。シークは眠りに落ちてしまったリトリアを抱き寄せ、ぽんぽんぽん、と背を撫でて笑った。しあわせだったヨ。シアワセなユメだったよ。アリガトウ。

 おやすみ、と囁く世界のどこかで、時を刻む時計が少女の手の中に戻る音がする。針がくるくると逆回り、砂時計がひっくり返されて零れ落ちはじめる。




 もういいの、と思ったけれど。もう一回、と願われたので。




 七歳の誕生日を迎えたその日に案内妖精に導かれ、リトリアは『学園』へ続く門をくぐった。入学式を前にした適性検査でリトリアは魔力を暴走させ、それまでの記憶をすべて失ってしまったのだと聞かされても、幼子はただ頷くばかり。

 ひとみしりをして、不安そうに俯くばかりで、笑うことはなかった。幼く、なにもかもを失ってしまったリトリアに、周りは心を砕いてくれたのだけれど。その中になぜか、望むひとの姿がないような気がして、リトリアは部屋を抜け出してしまった。

 さくさく、朝露に濡れた草を踏みながら歩けば、辿りついたのは学園の裏に広がっている林で。その先に白い花が群れて咲き、いつかの夜に、誰かがそこへ迎えに来てくれたような気がしたのだけれど。

 あんなに避けてしまっていたし、あんなに怒っていたから。きっともうそんなことには、ならないんだと、どうしてか、思って。

 リトリアは声をあげて泣いた。泣いて、泣いて、やがて息を吸うくちびるが歌のことを思い出す。歌声を、紡いだ。世界に祝福をぶちまけるように。なにもかもわからないけれど。

 また、わからなくなってしまったけれど。しあわせをいのった。あのひとと、そして、あのひとの。しあわせになってほしかった。どうしてもそれを諦められなかった。

「……あなた」

 ざく、と背後で草を踏む音がして、リトリアは振り返る。その先に立っていたのは少女だった。夜のような肌色に、火のような赤い瞳を持った少女。魔術師の。言葉魔術師の。少女。

 それを追いかけてきたように、ひとりの少年が姿を現す。青空のような髪に、漆黒の瞳の。腰には銃を持っていた。占星術師だと、どうしてだか思う。

「きみは……」

 震えながら。リトリアは息を吸い込んで、現れた少女と、青年を見つめて。声をあげて泣いた。ふたりが。リトリアの、名を呼びかけようとしたのか開いた唇が、言葉を知らず閉ざされる様を、見る。

 それでも、ふたりが。その、くちびるが。

 名前を呼んでくれることを、リトリアはどうしてか、知っていたので。あいしてくれるとわかっていたので。もう一度、今度こそ、と思い、けれどもすぐ、それを忘れてしまいながら。リトリアは二人に向かって手を伸ばした。

 抱きとめてくれる腕の温かさを。その愛しさを。しあわせだと、誰かが。




 繰り返される世界のどこかで。シアワセになってオイデよ、とくらやみのなかから誰かが言ったのだけれど。

 ボクのコトは全部忘れて、もう二度ト思い出してはイケナイよ、と記憶を白く塗りつぶす喪失の中で、時間を、世界を貫くように紡がれた魔術が、そう囁いたので。リトリアがそれを、思い出すことはなかった。



 幸福は今も停止した世界の中で眠りにつき、すべての時間は巻き戻された。

 もう一度、もう二度と、と祈りの先に。

 運命が覆される、その果てまで。

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