言葉を鎖す、夜の別称 14

 風呂からあがり、濡れた髪をタオルで拭いながら部屋まで戻ってくると、すでに寝台にはソキがいた。あまり機嫌がよくない様子で枕に顔をうずめ、もおおおおおっ、だの、やぁんやぁんっ、やぁんっ、と声をあげてはじたばたもぞもぞしている。

 洗われ、乾かされたであろう髪からはふわりと嗅ぎ慣れた香油のにおいがした。この様子では今日も、ひとりで風呂には入れなかったらしい。

「……ソキ?」

 ぺちぺち、ぺちぺち叩いていた枕から顔をあげ、ソキは半泣き声でロゼアちゃんっ、と言った。

「そきねえひとりでおふろはいれるんですよ! ほんとですよ、ほんとですよっ……! ひとりでできるもんっ、できるもん……!」

「うん、知ってるよ。手を痛くするから、枕叩くのはやめような?」

 ソキの腕の中から枕を取りあげて遠ざけ、ロゼアは寝台へ腰かけた。ぷーっと頬を膨らませながらなお手を伸ばす、その腕の中にアスルを抱きこませて、ロゼアはソキの顔を覗き込む。

「ソキ、今日はなにしてたんだ? ……疲れた顔してるけど」

 熱は出てないな、頭痛くないか、と額に頬に触れてくるロゼアの手に、ソキはようやく落ち着いたように息を吐き出した。頬にロゼアの手を押しつけるように触れながら、ソキはあのね、とたどたどしく言葉を紡ぐ。

「れんしゅう、してたです……ソキねえ、がんばるんですよ」

「うん。……うん、ソキ。なんの練習してたんだ? 魔術?」

「……なぁいしょです」

 でもねえソキじょうずになってロゼアちゃんに褒めてもらうんですよー、とすでに半分寝ているような口調でほやんほやん話すソキに、ロゼアはそっと苦笑を浮かべた。よし、寝かそう。

 ソキの体をそっと寝台に横にさせ、その隣に転がりながら灯篭を枕元まで引き寄せる。中の火を吹き消せば、灯りはその熱の名残だけを肌に残して薄暗闇を呼びこんだ。

 毛布を胸元まで引き寄せると、眠たげな仕草で、ソキがもぞもぞとすり寄ってくる。その柔らかな体を腕の中に抱きよせ、髪を撫でてやりながら、ロゼアはやわり、響く声で囁いた。

「おやすみ、ソキ……良い夢を」

 うん、とちいさく頷いて、ソキの体からあっけなく力が抜け落ちる。体のどこにも力が入らないくたくたの眠りをやわらかく見守り、ロゼアもまた、夜の中へ瞼を下ろした。




 雨上がりの石畳に光と、笑い声が弾けていた。調弦も兼ねた淡い音楽が、気まぐれな旋律を風に流している。楽師たちは音を整える手を止めないまま、室内からそっと、中庭へ視線を投げかけた。

 中庭へ直に出て行ける一階の、開け放たれた硝子戸の向こう。眩いばかりの光に照らされて、この楽音の国の王と、その王宮魔術師の少女が踊っていた。王の髪と眼差しは青く、対する少女のそれは薄い花の紫を宿しているからだろうか。

 ふたりは青く晴れ渡る空と、それに見守られ咲き誇る藤の花のようだった。午後三時から一時間ほど設けられた、王宮魔術師たちの休憩時間のことである。

 リトリアが楽音の王宮に魔術師として身を寄せるようになってから作られたその時間は、他国からは『楽音のおやつ休憩』と呼ばれていた。純粋な事実である。三時に休憩を取るならおやつが必要ですよね、と王が麗しい笑顔で申し下した為だった。

 毎日リトリアにおやつを食べさせる為に休憩時間をねじ込んだんですか、と王に問う者は楽音にはあまりいない。結果が分かりきっているからである。

 それが例え呆れた問いであろうと、憤慨に満ちた糾弾であろうと、王はただ微笑みを深めて告げるだろう。うつくしく紡がれる旋律の外枠、それをなぞるきよらかな白い指先の、空恐ろしいまでに惹きつけるなにかを笑みの中へ落とし。

 それになにか悪いことがありますか、と。王の側近、臣下たち、そして王宮魔術師は決して国王の命令全てに唯々諾々と従っている訳ではないのだが、一度下された決定がさほど覆されないのは、その王の性質故である。

 幼馴染である砂漠の王は、彼の王の性質をさしてこう言った。限りなく恐怖政治に近い魅了っていうか支配っていうかなんかそんな感じのアレ。具体的になにも分からない、つまりどんなだ、と突っ込みは入ったが、誰も否定はしなかった。

 楽音の王はそういう性質の人である。男性だが、五ヶ国の王の中でもっともうつくしく、麗しく、そしてどこか冷たい、と囁かれる王。孤独ではなく、孤高でもないのだが、どこか寄り添う者の数は少ない。そう、思わせる王が。

 やたらと甘く楽しそうな笑みを浮かべて、お気に入りの少女魔術師の手をひき、調弦に合わせてでたらめなワルツを踊らせているさまは、ひたすら、城にある者たちの心を和ませた。

 ぐん、と王が繋いだ腕を上にひき、リトリアの体を導いて、回らせる。きゃぁ、と悲鳴めいた声をあげながらリトリアの足はごく正確に石畳に靴音を奏で、花びらがやさしく風に抱かれるように、まさしくふわり、とそう表すに相応しい動作で舞った。

 うつくしく、やわらかく。繊細で慣れ切った動きだった。もう、と怒るリトリアに、楽音の王は満足げに目を細め、肩を震わせて笑っている。

 こころゆくまでまっすぐに黒い、腹黒いじゃなくて黒い、と諸国の王に真顔で告げられる楽音の王は、ダンスパートナーに決して優しくない。相当の技量を当然のように求めるし、それのない相手には手を伸ばそうともしないのが常だった。

 その王が、本当に楽しそうに手を引き、わざわざ踊らせている相手がリトリアだった。恐らくはこの城に存在する者の中で唯一、王が自らそうする相手が、お気に入りの少女魔術師である。

 ひとみしりかつ運動神経が優しく表せば良い訳ではないリトリアは、けれど、なぜか社交に必要とされるダンスなら誰よりも麗しく舞うことができた。

 その理由はリトリアにも分からないという。魔術師には時折あることだが、少女は入学時に行われた適性検査において魔力暴走を起こし、その結果『学園』に辿りつくまでの全ての記憶を、失っていた。

 楽音は、リトリアの出身国だ。だからこそ王は、両親のことすら忘れた少女を慈しみ愛すのだろう。父親のように、あるいは、歳の離れた兄のように。

 その事実を知る王宮魔術師たちは、だからこそ、妙な邪推もせずに二階や三階の窓辺から、あるいは楽団の傍に椅子をおいて、王と年下の魔術師の戯れを眺めている。

 あれは兄が妹を可愛がるようなもので、恋愛感情といったものは一切存在していない。しみじみとそう思いながら、二階の王宮魔術師休憩室で、ひとりの女が溜息をついた。

「……でも、陛下があんな楽しそうに笑っているとなぜだかとても不安になってくるのは私だけなの……? あっ、陛下今度はなにをたくらんでらっしゃるんですか、いえ説明してくださらなくてもいいですけれど。でも今度は、今度こそは、被害が……被害があんまり……でないものに……していただけると……私どもも大変助かりますというかやっぱりリトリアに一日くっついてもらっているのが一番だと思うのよ間違ってなくない?」

「リトリアが来てから、陛下の……陛下が仰る所の、ささやかな御茶目は、ものすごく減ったからな……」

「ありがとう! リトリアちゃん本当にありがとう! 陛下がなんであんなにきゃっきゃうふふリトリアちゃんを猫可愛がりしているのか分からないけど、でもでもありがとう……!」

 感動のあまり涙ぐむ同僚たちを一定の理解がある視線で振り返り、チェチェリアは静かに息を吐き出した。

「……いやなことを思い出した」

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