言葉を鎖す、夜の別称 06

 隣室の嵐とは裏腹に、女王の執務室はやんわりとした空気に包まれていた。静かではないのは、女王と共にいる案内妖精がきゃあきゃあとはしゃいだ声をあげ、それでねあのねっ、と相談事をしているせいだった。

 質の良い作りの執務机は、今日もきちんとした印象で整頓されていた。未処理の仕事などもないのだろう。机の上にはいくつか、本と色とりどりの液体を封じたインク壺、羽根ペンと硝子ペンが立てて置かれ、窓から差し込む陽光に淡い影を広げていた。

 薄青い透明な影の中で、妖精がくるくると踊っている。それを机に肘をつき、うっとりと眺めていた花舞の女王の視線が、持ちあがり。静かに入室してきたロリエスを認めると、くちびるの動きだけで御帰り、と言った。

 傍へ呼んで結果の説明を求めながらも、花舞の女王は、はしゃぐ案内妖精の歌のような囁きを、恋の言葉を聞き続けていた。

「ナリちゃんはね、ナリちゃんはね! とっても、とっても素敵なの! 笑ってくれた、ニーアって、名前を呼んでくれた……! ひかりでいっぱいになったの! 心が、気持ちが、きらきらって。ナリちゃんだけなの、ナリちゃんだけが、私をそうしてくれるの! ずっとずっと昔から、ナリちゃんは私の特別。……ふふ、うふふ! 嬉しいな、ナリちゃんに会える。ナリちゃんに、もうすこしで会えるの!」

「そうだね、とても楽しみだ……ああ、ロリエス。もっとこちらへ」

 机をぐるりとまわって本当に傍らまでおいでと手招く花舞の女王に、ロリエスは柔らかな微笑みでもって頷いた。ゆったりとした足取りで、机を回り込む。インク瓶の青い影の中、ナリアンの案内妖精、ニーアはまだくるくると舞い踊っていた。

 女王は妖精をやさしい眼差しで眺めつつ、ひそめた声でロリエスに問う。

「それで、私と共に行く魔術師は決まったのかい?」

「いいえ」

 女王の影に控えるように立ち、ロリエスはきっぱりとした声で言い切った。

「残念ながら、我が女王陛下。最終的な勝利は私のものに」

「手加減しておあげ、ロリエス」

 くすくす、仕方がないなぁと肩を震わせながら、ロリエスを一瞥する眼差しは柔らかい。長い睫毛が影を落とす、女王の瞳は不思議な色をしていた。薔薇のような高貴な赤と、地平を貫く夕日の濃い橙の二色が、ゆらゆらと濃淡を変えて混ざり合っている。

 背を流れる髪もまた、暖炉に積もる灰と、春に散り咲く桜の二色が織り交ぜられていた。うつくしい、ひとだった。柔らかな女性の印象と、きよらかな青年の印象。どの両方を合わせ持つ、稀有な存在感をもつひとだった。

 今はまごうことなき女性に見えるそのひとが、ほんの数年前までは男として、王宮魔術師の目の前に立っていた。その姿を、ロリエスは今でも瞼の裏に描くことができる。鮮やかに。

 大きな印象の違いはないように思われた。男にも、女のようにも見え、それでいてその時は間違えようもなく『男』だと思えた花舞の王。

「……ロリエス?」

 なにを思い出しているの、と静かな声で問う女王に、ロリエスはただ、あなた様のことを、と告げた。かつて存在していた国王、今、存在している女王。その違いのことを、考える。昔、昔の記憶を手繰り寄せて。考える。

 幼い頃、この国には一人の王子と、一人の王女が存在していた筈だった。どちらが世継ぎと指名されることはなく、時がすぎ。ひとりが死に、ひとりが、生きた。その知らせだけが風に流れ、そして。残されたのは王子である筈だったのだ。

 年を重ね即位した『国王』が、ある時、自らは女であるのだと。生き延びたのは王女の方であったのだと、その口から周囲へ告げる、その時まで。全ては欺かれた。全ては隠されていた。

 不思議に思う意識は丹念に摘み取られ、混乱させられ続けていた。誰かの手によって。誰かの意思によって。

 まるで魔法のように。

「……ロリエス」

 名を、呼ばれ。ロリエスは息を吸い込んで首を振る。いけないよ、と咎めるように微笑されては、それ以上のことは考えるまいとして。断ち切ろうとした思考の名残が、ふと、それを引き寄せる。

 隣国。砂漠の白魔術師。白の称号を持つ魔法使いの出身国は、花舞。そして、彼は。瞬間。吹きだまりに押しこまれていた花びらが、嵐のような風に舞い上げられるかのごとく。濃密な魔力が意識を白く途絶えさせた。

 ロリエスの思考が断ち切られる。くらり、一瞬の眩暈。女王が苦笑しながら誰かの名を囁く。愛しげに、切なげに。告げられた名に覚えがある。その名は。確か、その名は。この国から失われた筈の。

「ロリエス。……もうすこし、もうすこしだけ待っていて。あと、すこしだけ、忘れていて……」

 倒れかけるロリエスを抱き寄せ、背を撫でながら女王が囁く。浅く息を繰り返しながら目を閉じ、ロリエスはただ頷いた。頷けば、その意志を受け入れれば、呼吸が楽になる。体から重苦しい圧迫感が消え、動きの鈍っていた思考が正常な回転を取り戻し、けれど。

 なにを考えていたのかは、思い出せない。それはとても大切なこと。けれども、女王が決して望まぬこと。花舞の王宮魔術師は、それだけを分かっていればいいのだ。その意志を守ることを。ロリエスは呼吸を整え、女王からそっと身を離し、立ちなおした。

「失礼致しました」

「いいや。……ありがとう、ロリエス」

 いつも、忘れたままでいてくれて。告げる女王に、ロリエスは静かに跪き、頭を下げた。私の女王、それがあなたの望みであるならば。誓いの言葉はこれまで幾度も繰り返され。今もまた、凛と響いて。

 その姿を、人の世の魔力の影響を受けぬ妖精だけが、不思議そうな眼差しで見つめていた。彼らは知っている。彼らは覚えている。だからこそ、花舞の女王はそっとニーアを振り返り。微笑みながら、その唇に人差し指を押し当てた。




 ようやく完全に己の魔力が鎮まったのを確信し、ロリエスは静かに立ち上がった。その眼前に、女王は笑顔で一枚の紙を差し出してくる。恭しく受け取り、そこへ視線を落として。ロリエスは不思議そうに、これは、と呟いた。

「砂漠の……男性の、正装のように見えますが」

 ナリアンのものを選んでいたのでは、とロリエスは目を瞬かせた。ロゼアのものでも紛れ込んでいたのだろうかと思うが、そもそも、各国の新入生の正装の候補はそれぞれの王宮が抱えた衣装係が女王へ提出してくるものだ。

 訝しむロリエスに、背幅のある本に腰かけて角砂糖をかじっていたニーアが、光輝くような笑顔で顔をあげた。

「ナリちゃんのです!」

「……だが、これは」

 五ヶ国の中で最も衣装に特徴のあるのが砂漠の国である。星降、花舞、楽音、白雪のそれに特徴がない訳ではないのだが、それは比べた時に強いて言えば出てくる特色的なものであって、砂漠のように、すぐに見て分かるそれではない。

 最も寒い冬の王国、白雪のものであれば生地や肌の露出などに特徴が出てくるのでまだ分かりやすいのだが、強い日差しと吹きつける砂を避ける為の砂漠のそれは、どこの国とも共通しない。

 ニーアが選んだそれは、その砂漠の正装そのものであった。ゆったりとした丈の長いシャツに、同じくゆったりとしたズボン。シャツの襟と肩のあたりには精緻な刺繍の指定がされていた。共布で作るスカーフと、ターバンの指定もある。

 色や生地については未だ迷いがあるらしく、決められてはいなかったが、形は間違えようもなく砂漠のものだった。

 頭の中でナリアンに着せ、まあ服に着られはしないだろうがと思うロリエスに、ニーアはぴょんっと本の上で飛びあがった。さっと広げられた妖精の羽根が、机の上に淡い影を落とす。

「ナリちゃんのね! お父さまのね! 出身国が砂漠の国なんです! だから、絶対、ぜったい、ナリちゃんに似合うとおもうの! ぜったい……! ……ああ、ちいさいナリちゃん、ほんとうに可愛かった……! 今のナリちゃんが着たら、とっても、とっても格好いいと思うの! きゃぁっ!」

 どうしようナリちゃんの顔が見られなかったらどうしようだってだってナリちゃんは絶対格好いいの絶対なの決まってるのだってだってナリちゃんは今だってとてもとても格好いいんですものきゃああぁあっ、と顔を真っ赤にしてはしゃぎたおすニーアをひとしきり微笑ましい瞳で見つめ、うん、と頷いて花舞の女王は背後へ視線をやった。

「と、いうことだそうだよ、ロリエス?」

「……我が女王。あなたがそれで良いのであれば」

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