月見酒に差す影

 壬生での御礼相撲一日目は大盛況のうちに終了した。


 滅多に見られない大阪力士の取り組みを見た地元の老若男女は、大満足の足取りで家路についた。


 招待された会津藩士も御満悦の様子で、近藤を引き連れ黒谷本陣で飲み直しの宴会をすると壬生寺を後にした。



 一日働き詰めであった試衛館組の面々は、壬生相撲興行成功の前祝いと称して前川邸の広間でこじんまりとした宴会を催していた。



「どれだけ呑んでも底が見えねぇのは、有り難ぇもんだなぁ……総司、空になったなら持ってこい。酒の前で遠慮は無用だ」


 大きな酒樽から柄杓で掬った酒を溢れんばかりに枡へ注ぐ永倉は、昼間から甚く上機嫌であった。


 そんな侍の珍しく浮かれた様子を見ていた沖田は、飲み干した枡を片手に苦笑いを浮かべる。



「…新八さん、明日の売り物でもあるんだし、程々にしとかないと。鬼が金棒持って現れちゃいますよ」


「ならば俺が桃太郎侍になるまでよ。互いに酒が入った状態で遣り合うなら、俺ァ負ける気はしねぇからな」


「まぁ、確かに土方さんは酒には弱いですからね。弱い者苛めは好まないので、俺は赤鬼を助太刀するかなぁ…」


「お、総司が青鬼とくりゃァ退治の致し甲斐があるじゃねぇか。仕方ねぇ、俺も猿と雉と犬をお供にけしかけるか」


「じゃあ、俺が猿をやってやるよ!先陣を切って斬り込んでやる」



 口につけていた枡を天へと掲げて八重歯を見せる藤堂に、一人寝転がって寛いでいる原田が声を掛ける。



「平助は雉子だろ。ちっせえが故に風貌は綺麗なもんだし、生まれも良いもんだし」


「べらんめぇ!ちっせえは余計じゃねぇか」


「悪りぃ悪りぃ!戯言に悪意はねぇんだ。どっちかっつうと俺が猿だろうと思ってな!」


「いやいや、左之さんは犬じゃねぇか?俺の方が猿っぽい気がするけどなぁ」


「確かに。左之さんは天下にはびこる狂い犬の素質はありますね」


「小雉に狂犬ときたか。連れて歩くのは勘弁してぇぜ」



 拗ねてうつ伏せになる原田を見ながら、沖田、永倉、藤堂はほろ酔い加減を匂わせ、カラカラと楽しそうに大笑いしている。


 更紗はそんな男たちの賑やかな声を彼方に聞きつつ、縁側の障子に背を預けて一人、満月を眺めていた。



 予想以上の集客に皆一同やたらと上機嫌で、今宵のふざけた喧騒さえも心地良く感じていた。


 しかしながら、日中の出来事のせいでイマイチ気分が盛り上がらない事もあり、場の雰囲気を壊さないためにも皆から少し離れた所へ座っていた。


「……気持ち良い風…」



 草の茂る庭から縁側へ吹き抜けて行く秋風は、更紗の柔らかい髪をふわりふわりと揺らして遊んでいるようであった。


 なびく下ろし髪を押さえながら板間に置いた酒へ手を伸ばした刹那。


 視界の端に黒い影が映り込んだため、顔を上げると優しく微笑んでいる山南が佇んでいて。



「月見酒、私も御一緒してもいいかい?」


「是非どうぞ。…土方さんとの話し合いは終わったんですか?」



 少し場所を空けて座り直した更紗は、ゆっくりと山南を見つめてほろ酔いのまま微笑んだ。



「ああ、今し方終わったよ。少し立て込んだ話しだったから私も市村君のように、静かに飲みたくてね」


 腰を下ろした山南がチラリと酒樽の近くを見入って苦笑を漏らす。


 更紗も釣られるように顔を向けると、騒がしい男たちの横で不機嫌そうに柄杓で酒を掬う土方の姿が目に入り。



(……こっちへ来るな。)


 直ぐに庭へと向き直った女は暗闇へ小さく溜め息を吐き、枡の中に浮かぶ丸い月へと視線を落とす。


 今日はやたらと訳もなく憂鬱が襲ってくるが、自覚している原因の大半はあの男が絡んでいた。


 浮かない気分のまま横を見れば、山南が何か言いたげに微笑を浮かべていたので、更紗は慌てて口角を上げて言葉を放つ。



「大坂力士の相撲はどうでしたか?近くで見れました?」


「原田君が席を譲ってくれてね。お陰で土俵際で堪能する事が出来たよ」


「そうですか、それは良かったですね」


「観客もとても楽しんでいるように見受けられたからね。このまま壬生村の人たちと結びつきを強めて、馴染んでいけたらいいんだがね」


「本当ですね。このまま良い関係になれるのが理想ですよね」



 柔和な笑みを浮かべながら酒を傾ける山南に同意するように更紗も深く頷いた後、微かに水面の波打つ枡を口元へ運んでいく。



 壬生浪士組に身を置く武士としては珍しい程に、山南敬介という男は平和主義者であった。


 純粋に人々の幸せを考えて行動するその人格を知れば知るほど、沖田同様に信頼し、心から慕うようになっていた。


 一方で、争い事を好まない山南にとって浪士組に与えられている血濡れた仕事は、天職とは思えるものではなく。


 その矛盾に気づいたところで小娘の手に負える問題ではないのだと、口を衝いて出そうになる言葉を酒と合わせて身体の奥へと流し込んでいった。



「そんな飲み方すんな。また酔っちまうぞ」


 呆れを滲ませた言の葉が静やかな鼓膜に入り込んでくるも、更紗は顔を向けずとも置かれる状況を察し、即座にその男以上の吐息を口から零した。


(……来るなって念じたのに。)



 腰を下ろした土方の眼差しを感じながらも、空の枡を口につけたままでいるとスッと引き締まった腕が伸びてきて、いとも簡単に取り上げる。



「おい、聞いてんのか。今、何杯目だ?」


「……返して下さい。まだ二杯目だし……この位じゃ、私は酔わないですよ」


「莫迦か、もう二合飲んでんじゃねぇか。止めとけ」



 更紗は不貞腐れた表情で声のする方角をチラリと見やるが、眉間に深い皺を寄せた土方ががんを飛ばして自分を見据えていた。


 無論、この男に抗っても勝ち目はないため、早々に諦めの境地に入り、夜空を照らす幾らか赤みのある満月へと目線を上げた。



 月の光を浴びた女の肌は一際白く絹のような光沢を放ち、上向きの睫毛の下に隠れた猫のような瞳は不思議な色に輝いている。


 風で揺れるしなやかな髪をかき上げながら、ふと口元が酒に濡れたままだと気づき、桃色の下唇を指先でなぞっていた刹那。


 酒を飲むのを止めてこちらを見ていた山南が、少し照れた表情を浮かべ、笑いかけてくれる。



「…市村君はやはり浮世離れしているというか…神秘的な美しさを秘めているね」


「……そんなの、初めて言われました」



 山南からの褒め言葉に苦笑混じりで返答する更紗へ、同じく自分を見ていたらしい土方が含みを持たせた声色で口を開く。



「つっても、それなりにつらが良い事は自覚してんだろうに」


「……そういう言い方しないで下さい」



 更紗自身、母が美しい人であったことや外国人の血が混じっているため、平成の世において美人の類に入ることは認識していた。


 ただ、純日本人とは言い難い顔立ちやメリハリの効いた身体つき、高い身長など…江戸時代の美人とは異なる容姿であるがゆえ、物珍しさだけで幕末でも目を引いている気まずさを感じずにはいられないもので。



「……楽しいお酒も飲めないなら…さっさとお風呂でも入って寝ようかなぁ」


「…こ、近藤局長はおられますか?!大変な事になってしまいました…!」



 小さく呟いた女の嫌味は、勢い良く開けられた襖の音と天井まで伸びる黒影から放たれた大声によってかき消されていく。


 只事でない音量に身を強張らせて襖の先を凝視すれば、今夏より入隊した浪士組一の大男が、戦いに挑む大鬼の如く入室してきた。



「…土方副長!京の町が大変な事に…!!」


「……島田、戸ぐれぇ静かに開けろ。一体何事だ」



 至って冷静に話す土方の前まで転がるように進んだ監察方の島田は、慌てふためきながら畳に頭を擦り付ける。



「も、申し訳ありません!されども申し上げます!芹沢局長が先程、葭屋町一条通りにある大和屋を襲撃しました!火を放ち、蔵もろとも燃えている有様です!!」



 静寂に響き渡る大男の蛮声が、全ての喧騒を引き裂いて無音に変えていく。


 騒ぎ寛いでいた男たちも表情を変え、姿勢を正して座り直せば、黙り込んだまま酒を仰いだ土方が、枡を畳に置いて口を開いた。



「順を追って説明しろ」


「…はい!今朝方に水戸一派が大和屋へ資金調達に出向いた話しは……御存知でおられますか?」


「斎藤から文で知らされている。大和屋庄兵衛が天誅組に資金提供をしたっつう噂を掴んで乗り込んだが、主人が留守で諦めたと」


「…そうなのですが……実は腹に据えた芹沢先生が新見殿に内密で件を頼んだらしく…宵五ツにそれらしき男が、今晩大和屋の蔵を焼き討ちするので火消しに来ないようにと、町年寄に予告したようでして…」



 不穏を警告するように冷たい夜風が吹き抜けていき、傍にあった行灯の明かりが一瞬にして消されるが、土方は動じることなく落ち着いた声を放つ。



「続けろ」


「…はい、その後に屯所に残っていた平隊士を幾人か唆して連れて行ってしまったようで……土蔵周辺の建物を壊して延焼を防いだ後、筆頭局長の到着を待ってから蔵に火を放った模様であります」



「……何て事を…」


 ポツリと嘆いた山南の声さえも深い闇に吸い込まれ、それぞれの隊士の心の内に捉えようのない漠然とした恐怖が押し寄せていた。



「…斎藤殿が芹沢先生へ考え直すよう説得にあたったようですが叶わず……どうにも身動きが取れないため、代わりに私が馳せ参じた次第です。そして…別件なのですが…」


「構わん、続けろ」


「はい……山崎殿からの伝言なんですが…どうやら、近々政局が動くかも知れないと…僭越ながらこの状況下での浪士組の失態は命取りかもしれません」


「それは……洒落になんねぇな…」



 息を吐き、切れ長の瞳を細めて思案に耽る土方へ、島田は動揺しながらも丁寧な口調で言葉を投げかけた。



「……どう致しましょうか?近藤局長は今…どちらに?」


「…悪りぃが、島田。黒谷まで走ってくれるか?そこに近藤局長は居るんだが、おめえの役割は足止めさせることだ。大和屋には来させねぇようにしろ」


「…それはどうしてだい?浪士組の失態なんだ、組の頭が出向いた方が…」


「だからだよ、山南さん。組の頭が二人揃っちまったら、もう言い逃れは出来ねぇだろ。…勝っちゃんが行った所で芹沢の暴挙を止められる訳がねぇ。そうなったら浪士組の行く末は容易く想像できんじゃねぇか」



 更紗は、目の前で繰り広げられている男たちの会話を何度も心の中で反芻し、一人冷静に思考を巡らせていた。



 太陽の下、礼相撲の店番の際に土方が真剣に読んでいた手紙、その後の芹沢派の動き、近藤と会津藩のやり取り。


 点でしかなかった出来事が少しずつ線として繋がり、起こり得る未来を浮かび上がらせてくる。



 相撲興行に時間を割いたお陰で、芹沢が再び新見を傍に置いた意図を見抜けなかったのは、試衛館組の痛恨のミスである。


 且つ、政局が動くかも知れないという山崎からの伝言は、忘れていた過去の記憶から突如、日本史の教科書の文面を蘇らせていた。


(……そういえば、八・一八の政変という単語にマーカー引いたっけ…)



 八月十八日に会津藩や薩摩藩などの公武合体派の武力で、長州藩を主とした倒幕派が京都から追放されてしまうクーデター事件が起こることは何となく知っている。



(……今日って何日だっけ?)


 毎日の時刻すらざっくりとした感覚で過ごしている更紗は、曜日や日にちの把握自体、余り出来てはいない。


(…確か、祇園北林の相撲興行の初日は8月7日だった筈だから…)



 殺伐とした男たちの会話が聞こえてくる中、仄暗い闇の内側で一人右手の指を折りながら、無言で過ぎ去りし日々を数えていく。


 右手の指が闇の広がる掌に全て閉じ込められ、反発するようにその小指が伸ばされ光を欲す時、更紗は静かに息を呑んでいた。


(……今日がもし12日なら……後、6日後だ…。)



 水面下で会津藩が過激尊攘派の志士を排除しようと動いている時に、仮にも会津藩預かりの身である壬生浪士組が別問題を起こすのは問答無用、自らを破滅に追い込む行為でしかない。


 この危機的状況を打破しようと近藤が駆け付けたところで、あの芹沢の横暴を止められるとは微塵も思えず、詰まるところは───



「……存続の危機…」


 無意識に口から零れてしまった更紗の言葉を打ち消すかのように、土方は気の張った厳しい声色を室内へ響かせる。



「頭の首一つ残ってりゃ、後は何とでもしてやる。だから、近藤局長には件を知らぬ存ぜぬで通させろ。いいな島田、おめえに任せたぞ」


「御意」



 即座に立ち上がった島田は巨体を揺らしながら遠慮の無い足音を立て、闇のはびこる板廊下へ消えていく。


 先程までの喧騒はどこへやら、会話の途切れた空間を侵すのは、それぞれの右横に置いていた大刀を袴の腰元に差す侍の衣擦れの音。


 誰一人、言葉を発することなく、身支度の整った者から部屋を後にするため、女も躊躇いがちに彼らの進んだ暗い廊下を歩んでいく。



(……新撰組になる前に解散とか……大変なことになっちゃう…)


 事の重大さを理解した更紗は、鼓動が早鐘のように打ち始める胸元に自身の両手を重ね合わせ、角が欠けている下駄へ足を通した。


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