俎上の魚

「お嬢ちゃんなかなかの別嬪やなぁ~!今宵の酒はほんまに美味いわ」


「そう言って貰えるなんて、嬉しいです」


「ほら、ぎょうさん飲みいや!儂等わしらと飲めるなんて御利益があるさかいなぁ」


「ありがとうございます。御利益にあやかります」



 さらさらと言葉を紡ぐ更紗の持つ銚子を力士が強引に奪い取ると、否応無しに女に盃を渡し勢いよく注ぎ込む。


 溢れそうな盃を両の手で支えれば、その隙を狙っていたのか、恐ろしく太長い指が着物越しに太腿へ触れてきて。


「いただきます」



 更紗はその男に笑顔を送るとグッと豪快に飲み干し、自分を撫でる大きな手に空の盃を押し付け、銚子片手に再び立ち上がる。



 かれこれ宴が始まり半刻経つが、総勢40名ほどいる力士をもて成すのは、並大抵の事ではなかった。


 はるか昔の大相撲は神前で行われた奉納相撲を起源としているため、江戸時代の大相撲も神聖な武道興行とされていた。


 勿論の如く、力士は神道と結び付く尊い身分と考えられており、もて成すホスト側は下手な態度を取ることは出来ない。


 その上、六月に浪士組と大坂力士が乱闘事件を起こしたように、身を張った勝負をしている彼らも不敵な部分を持っており、更紗はそれを上手くあしらうのに神経を擦り減らしていた。



 一通り、酌をして回れたかと大広間の四方に目をやり、何人もの力士に囲まれ、酌をし続ける梅を遠目に見つめる。



 彼女は元々島原の茶屋に在籍していただけあり、所作は勿論のこと、ずば抜けた器量の良さが一際光っていた。


 自分と同じようにセクハラを受けようとも嫌な顔一つせず、むさ苦しい男たちの中に一輪の可憐な花が咲くような色香を醸し出していて。



(お梅さん凄いなぁ……偽物の愛嬌とは違うもんね。)


 更紗はふぅ、と静かに息を吐いて懐に入れていた白檀の花袋を着物の上からそっと撫でてみる。


 性格上、まやかしの姿にも限界が迫り、力士たちが自分から目を離した隙に身を隠そうと、時が満ちるのを今か今かと待ち構えていた。



「更紗、もう終わったの?だいぶ、飲まされてたみたいだけど、大丈夫?」


「沖田さん、その間に入れて下さい。隠れたい」


「どうぞ、どうぞ。美人は、頭だけじゃなく尻も隠した方がいいですね」



 ひょいと身を浮かして沖田が場所を空けると、女は沖田と井上の狭間へ倒れ込むように座る。


 すぐさま井上が纏う段だら羽織を脱いで更紗の肩にかければ、向かいに座る原田は、はぁ、と大袈裟に溜息を吐いていた。



「女傑のケツを触り放題とは羨ましい限りよ……俺も力士になりてぇ人生だったぜ…」


「また、お前さんはそんな事を言って……更紗の気持ちも考えてやりなさい」



 苦笑いの井上から水を手渡された更紗は、浮かない顔のまま、ゆっくりと飲み干していく。



「源さん……私…もう戻らなくてもいいですか?」


「ああ、構わんよ。よく頑張ったねぇ。何かあれば私が行ってこよう」


「ありがとうございます…これ以上、知らない人にベタベタ触られるのは…」


「つう事は…知ってる奴だったらいいんだな!?俺みてぇなご存知様なら…」


「蹴り上げていいですよ。玉は二つありますし、何なら竿は俺が斬ってしまいましょうか」


「総司、手の早いお前が言うと笑い話にならねぇぞ。この場では自重しろ」


「ぱっつあん!助太刀ありがてぇ!伊達に大坂で痛苦い経験は積んでねぇな!」


「総司、根っこから斬ってやれ」



 普段と変わらぬ空気感の中、内輪で楽しく笑いが起きるも、更紗は皆と一緒に声を出して笑うことができない。


 ぐったりと項垂れる姿を心配そうに見ていた藤堂は、煮込んだ鍋の料理を器に取り、箸と共に差し出した。



「空きっ腹に酒はよくねぇから、少しは料理で腹を満たした方がいいよ」


「……藤堂さん、ありがとうございます。あんまりお腹減ってないけど、少しだけ…」



 更紗は受け取った器に盛られたぶつ切りの料理を恐る恐る口に運んでいく。


 妙にとろみのある見たことのない食材が煮込まれているが、それが何かを聞く気力もなく。


「……美味しいけど……プルプルしてる。ゼラチンとかコラーゲンぽい…?これ、何の料理ですか?」



 不思議そうな顔を覗かせる更紗の背後に現れた原田は、井上を押しのけ座り込むと、華奢な肩に腕を回し、上機嫌に酒を煽る。



「これァすっぽん鍋だぜ。女も精力付けるに越したことァねぇ。今宵、火照って寝られねぇなら俺の部屋へ来い。相手してやる」


「分かりました。亥の刻でいいですか?」


「馬鹿!お前じゃねぇよ!相変わらず、近藤さんとこの坊やは場の空気を読まねぇよなァ!」


「左之さんだけには言われたくありませんね」



 肩をなぜる男の大きな手を沖田が力尽くで退けていたが、更紗はそれを気にも止めずに目先の料理を凝視していた。



「……すっぽん鍋とか、誰が作ったんですか?すっぽんて…今も昔も、高級食材ですよね?」


「作ったのは芹沢派の誰かだよ。ほら、刺身も普段はありつけねぇ代物だから味わって食べなよ」



 藤堂が追加で差し出してきた皿に盛られた刺身を、更紗は一切れ取って口へ入れていく。



「…何か…泥臭い…?食べれなくはないけど、私の知ってるお刺身じゃない」


「まぁ、ここは海も遠いし、生魚には殆どありつけねぇもんなぁ」



 江戸時代は冷蔵庫がないため、新鮮な魚を食べられるのは海に程近い地域のみ、且つ、刺身は庶民にとっては高嶺の花であり憧れの料理である。


 例に漏れず、更紗が暮らす京の町まで刺身用の魚を輸送する手段もなく、食べられるのは専ら干物ばかりだった。



「これ…海の魚じゃないですよね?何のお刺身なんですか?」


 事の重大さに気づいた更紗は口にしてしまった正体不明の魚におののくが、藤堂が楽しそうに刺身を摘みながら答える。



「これは鯉だよ。寺で泳いでいたやつを食べるとは思わなかったけど」


「……えっ?…今、何て……?」


「芹沢先生が壬生新徳寺の池を勝手に掘って、鯉とすっぽんを捕っちゃったんだよ」


「…嘘でしょ?!…私、お寺の鯉とすっぽんを食べちゃったの?!……最悪…」


「池っつっても、海や川とそんなに変わんねぇと思うけどなぁ。どれも水は綺麗だし」


「いやいや、問題はそこじゃないです!生け簀ならまだしもお寺の池で飼ってるものを食べるなんてあり得ない……そもそも鯉は食用じゃなくて観賞用じゃん…ショック過ぎる……」



 現在でも鯉料理を出す地域はあるのだが、都会で育った更紗にとっては全く馴染みのないものであった。


 その上、寺の池の魚を食してしまったという倫理的にも許されない非常事態に、底知れぬ衝撃と悲しみに暮れていた。


「……どうしよう……お寺のお魚さん…」



 そんな女の落胆した様子を見た藤堂は、近藤、山南と共に上座へ座りながらも酒に手をつけず、むっつりと不機嫌そうにしている男を眺める。



「…きっと、更紗と違う意味で土方さんも落ち込んでるだろうな。夕刻、寺の住職が来て弁償金やらの話しを山南さんにしたみたいでさ…」


「…芹沢先生はよ、興行の礼として力士に何か御馳走したかっただけなんだよ。浪士組には金もねぇし、たまたま屯所から見えた新徳寺の池の魚が生け贄になっちまっただけで…」


「…だから、それが駄目なんです。力士に礼をするのに、他の何かを犠牲にするのは人としての道理がなってないと俺は思います」


「総司、お前はまだ分かんねぇんだよ。先生は先生なりに浪士組の行く末を考えてだな…」


「どんなに偉い先生だったとしても、近藤先生に迷惑を掛けるのは筋違いです」



 沖田は意志を孕む双眸で芹沢を庇う永倉を見据えると、いつもは見せない厳しい顔つきをみせる。


 その様子を静観していた井上と原田は、顔を見合わせて苦笑いを浮かべていた。



 出来事一つとっても、それぞれの思いが複雑に交錯し、確実に歴史の歯車は音を立てて廻り始めていた。


 更紗は妙な胸のざわつきを感じずにはいられず、無意識に芹沢の姿を探していた。


 目に映る堅牢な男は酌を終えた梅を肩に抱き、力士たちと豪快に笑いあっては、終始機嫌よく酒を煽っていて。


(……まだ、大丈夫だよね。)



 出来れば今のまま、誰も失いたくないと考えてしまうのは、未来を知る傲慢さからなのか。


 不意に脳裏を掠めていく新撰組の行く末を思うと、更紗はどうにも出来ない苦悩に苛まれ、悩みの坩堝るつぼに陥っていた。



「…大丈夫か?酔っ払って気分でも悪くなったか…?」


 藤堂が心配そうな表情で顔を覗き込んだため、更紗は慌てて意識を戻し、ニコリ、と微笑んでみる。


「…確かにちょっと酔ったかも。ところで、山崎さんと斎藤さんは?まだ、見かけてないような…」



 夜の帳が下りた大広間には、屯所内から掻き集められた沢山の行灯が灯されていた。


 更紗は大勢の男たちの中から二人を探すが、それに気づいた沖田が表情を戻して、いつもの声色で話し出した。



「一はあそこの隅で飲んでるよ。そういえば、山崎さんは奉行所に行ったきり、戻ってきてませんね」


「奉行所?もしかして、また何かあったんですか?」



 山崎が奉行所へ駆り出される時は、壬生浪士組の身辺に何かあった時なのだと、相場が決まっていた。

 

 訝しげな顔つきを見せる更紗へ、渋面のまま盃を仰いでいた永倉が言葉を投げていく。



「まだ聞いてねぇか。まぁ、あったと言やぁあったんだがよ…また勝手にお前に話したら土方さんに怒られちまうし、差しで聞いてみりゃいい。お前にとっちゃ悪りぃ話しじゃねぇからな」


「……気になるけど…今はいいや」



 大丸呉服店を後にしてからというもの、まだ一度も土方と目も合わせておらず、今日は話す気すら起きない。


 目下、賠償の問題が降りかかっている事を少しは気の毒に思わなくもないが、だからと言って女を無下にした態度は帳消しにはならず。


(…いや、同情の余地なし!)



 それよりもこの鬱憤を晴らしたいと、女は銚子を手によろり、と立ち上がり、ふわふわした足取りのまま歩き始める。



 気づけば力士たちもだいぶ出来上がっており、近くを通る時に優しく微笑めば、機嫌良く大きな身体を寄せて道を開けてくれた。


 道の先に見えるのは、誰も話しかけるなと言わんばかりの孤高のオーラを漂わせ、独り静かに盃を傾けている若侍の姿で。



「斎藤さん、良かったらお酌しましょうか?」


 柔らかい微笑みを浮かべながら更紗は斎藤の元へ歩み寄るが、その青年はチラリとこちらを見やるとすぐに視線を外し、盃に口をつける。


「別にいらん」



 予想通りの反応に思わず苦笑が零れるが、更紗はそれを気にも止めず、隣に腰を下ろした。


「じゃあ、私がお酌して貰お。一緒に飲みましょうよ」



 笑顔のまま盃を手に取る更紗を斎藤は怪訝そうに横目で見ていたが、やがて一つ溜息を吐くと、銚子を掴んで少しだけ酒を注ぎ入れる。



「女が無理をするものでは無い。これで終いにしておけ」


「…ありがとう、助かります」



 接待から解放された安堵からか、先ほどより酔いが回ってきていた更紗は、それに気づいて配慮してくれる斎藤のさり気ない優しさに、じんわりと心が温かくなっていた。


「斎藤さんて、実は優しいですよね」



 ちびちびと口をつけるたびに、盃の水面に小さな波紋が広がっていく。


 男の周りを包む空気感は、まるで宴の喧騒から切り離してくれるような、自分たちだけ別世界にいるような、不思議な心地にさせてくれるもので。



「副長と何かあったんだろう」


「…何かあったって…何でそう思うんですか?」


「お前は意外と分かりやすいからな。宴が始まってから一度も副長の傍へ寄っていない。これには訳があるのでは無いか?」


「…まぁ…確かに今、絶賛無視中ですけど…」



 歯切れの悪い返事をする更紗を見据えていた斎藤はフッと軽く笑うと、空の盃を女へ向けて差し出した。



「大方、俺に愚痴りに来たといった所か。まぁ、いい。話し位は聞いてやろう」


「……全てお見通しってわけですね」



 更紗は苦笑いを浮かべながら銚子を手に取り、斎藤の持つ盃へゆっくりと注ぎ入れる。


 絶え間なく落ちる酒のように、大丸呉服店やら祇園での出来事を話し、思いの丈をぶちまけてみたものの、斎藤は口を噤んだまま酒を仰ぐのみである。



「…何か感想とかないですか?別に反論でもいいですし…」


 話し終わってもむっつりと無言でいる斎藤に、更紗は痺れを切らして急かすような物言いを見せる。


 暫しの間の後、その青年は白濁に満たされた盃を喉へ流し込み、無表情のまま口を開いた。



「では言わせて貰うが、俺から見ると副長に非は無い」


「……えぇっ!?」


「好いてもいないお前の女心とやらに副長が気を使う必要は無い。褒美が仕事に生かせるのなら、一石二鳥では無いか。それの何が悪いんだ?」



 素っ頓狂な声を上げてしまった自分を突き放す言葉の羅列に、更紗はぐうの音も出なかった。


 そんな自分に更に追い討ちをかけるかの如く、目先に座る斎藤は畳み掛けるように話しを続ける。



「お前の言っている芸舞妓は玄人だ。己が情報源として利用されている事ぐらい心得ている。それに彼方も客商売だ。客に気を持たせるような媚びた態度を取るのは当たり前であろう。まぁ、副長に至っては、本当に惚れられているのかもしれんが」


「…………。」


「そこが素人と玄人の違いだ。だから、お前のような素人は面倒くさい」



 淡々と紡がれた言葉である筈なのに、頭をバットでフルスイングされたような衝撃が走り、更紗の視界がグラリと揺れていた。


(…今…面倒くさいと…?)



 生まれてこの方、サバサバしていると言われたことはあっても、人に面倒な性格だと言われたことはなく、ある種、初めての感覚を味わっていた。



 自分の価値観がおかしいのか、男たちの価値観が飛び抜けてドライ過ぎるのか、正常な判断すら出来ない。


 しかしながら、女だからと気を使うでもなく、正直な意見を述べてくれる斎藤の存在が、この時代の常識を計る上でとても重要かもしれないと思い始め。


 (下手に慰められるより、よっぽどいいかも。)



 第一印象は最悪であったが、自分が唯一、本音で語れる良き友人になれるのではないかと、じわじわと親近感が湧いてくる。


 強張っていた表情を緩めて、微笑んでみれば、こちらを一瞥したその男は徐に面食らった表情を浮かべ。



「…今の発言に笑う所は無いと思うが」


「いや、ごめんなさい。私の中でね、問題が解決したの。斎藤さんのお陰です。ありがとう。きっと私たち、良いお友達になれそうですね」


「お前と友など…あり得んな」


「…斎藤さんのそういう反応、私、嫌いじゃないですよ」



 即座に嫌そうにする斎藤を見つめながら、更紗は酔いが回って紅く染まる頬に両の指先を寄せ、ゆるりと笑う。


 そんな普段見せない更紗の女らしい仕草を見つめていた斎藤は口の端を持ち上げ、慣れた手つきで手酌を始めた。



「まぁ、お前にも朗報が無い事もない。店で副長から本鼈甲の櫛も買って貰ったと言っていたな?」


「…あぁ、腹が立って先に店出たんで、まだ受け取ってはないんですけどね…」


「相変わらずの勝気さだな。本来、鼈甲櫛はお前のような庶民が手にする物では無い。太夫や天神など高い位の遊女の気を引くために贈る物だ。上を見ればキリがないが、質の良い物なら二両するぞ」


「二両って…まさかお風呂屋さんに1000回行けるってこと…?」


「まぁ、そうだが……何だその例えは?」



 眉を寄せて訝しそうにする斎藤に反して、更紗はぐっと眉を下げ困った顔つきを見せる。



「どうしよう…大金じゃないですか。そんな高いもの貰えないです。今から返品出来るかな…」


「お前が欲しがったのでは無いのか?」


「まさか!簪も櫛もいらないって断わったんですけどね……でも、結局選んだのは私だし……困ったな…」



 悩ましげに吐息を漏らす更紗を眺めていた斎藤は盃を膳に置き、無意識に表情を柔らかくしていて。



「女の癖に簪も櫛もいらんとは、変な奴だな。まぁ、俺ならば、どうでも良い女に高価な物は買わんぞ。副長の行動は解せぬが…お前の頑張り次第ではひょっとするかもしれんな」


「…頑張り次第ではひょっとするって……」



 斎藤の言葉を反芻しながら、更紗は酔いと共にグルグル廻る思考を動かしていた。



 土方がそんな高価なものを買ってくれた意図がどれだけ考えても、よく分からない。


 別に嫌われていないとは思うものの、女として見られていないことは明らかで、寧ろ、事あるごとにガキだガキだと馬鹿にされる日々である。


 客観的に見ても変わり者で通っている自分の魅力は内面にはなく、幕末の女性とは異なる外見なんだろうと、更紗はぼんやりと過去を思い出し。



「……でも、それって…興味本位のってヤツでしょ?」


「そうかもしれんが……副長のような手練れの男を知るのもお前の経験として悪くは無いと思うぞ。…まぁ、心まで繋がれるかは俺には分からんがな」


「……それ言わないで下さい。軽く死ねます…」



 酔いなのか羞恥からなのか顔を真っ赤にさせた更紗がへにゃりと項垂れる姿に、斎藤は柄になく小さな声を出して笑い始め。


「酔うと少しは可愛げもあるか。だが、軽く死ねるとは…やはり変な女だな」



 初めて見る斎藤の笑い顔は、思いの外、少年のように愛らしいものであった。


 大人びたいつもの姿とまるで違う、沖田のような邪気のない笑顔に、更紗は見惚れてしまっていたが。


「斎藤が笑うとは、珍しい事もあるもんよのう」



 背後から聞こえた男のがなり声が現実へと引き戻してくれるように、目先で笑っていた少年が顔色を変え、丁寧な所作で低頭する。


 更紗も慌てて後ろを振り返れば、上質な着物を纏った芹沢が梅を引き連れ、自分たちの方へと歩んでいた。



「碧目、鬼から斎藤に鞍替えしたのか。さかしい判断とは是れ也。播磨国明石藩は剣腕も家柄も確かなものよ」


 頭上から落ちて来た言葉の意味が理解できず、更紗は小首を傾げるが、隣の斎藤は姿勢を正して落ち着いた声色で話し出す。



「先生、我々はそのような関係では御座いません」


「何だ、碧目では不足か?この女は根性もある故、万一の時に傍に置いて損はない。お前は百姓上がりでなく生粋の武家の出。先に妾を囲うのも悪くはなかろう」



 侮辱を含んだ芹沢の言葉に一瞬で周りの空気に緊張が走るが、山南が柔和な笑みを浮かべこちらへと歩みを進めていた。



「芹沢先生、楽しい宴なのですから其処までにしましょう。此処に集まった壬生浪士組に身分の差はありませんよ。皆、尽忠報国の志を抱いた武士です」


「山南、お前も確か、陸奥国仙台藩の出だったな」


「脱藩した身であります故、浪士であることに変わりはありません」



 何事かと大坂力士が顔を見合わせる中、殺伐とした室内の雰囲気を変えようと、憂いを帯びた梅が芹沢の腕を引いて出口へ向かう。


「…なぁ、せんせ。うち疲れてしもうたし、早う部屋戻ろ?」



 山南をひと睨みした芹沢は梅の手に引かれ歩くが、すれ違う二人の男を一瞥すると嫌悪感を露わにして言葉を吐き捨てた。


「お前らの農民気性に反吐が出るわ」



 江戸時代の身分制度については、教科書程度の知識しかない更紗であったが、芹沢の侮辱の言葉が百姓出身である近藤と土方へ向けられている事は、嫌でも理解できた。


 身分制度の根深さを見せつけられた重苦しい雰囲気の中、傍まで歩いて来た男たちへ山南が落ち着いた声色で話しかける。



「気にする事は無い。私たちに何も違いは無い」


「気になんざしねぇよ。面倒しか起こさねえ彼奴の方がよっぽど士道から外れてやがる。浪士組の瘤じゃねぇか」


「まぁ歳、そう言わずに。興行が終われば芹沢先生の腹の虫も収まるだろう。あと二日の辛抱だよ」


「…勝っちゃんは甘ぇんだよ」



 土方は溜息を一つ落とすと、苛立ちを足音に滲ませ大広間を立ち去っていく。


 全ての喧騒を奪い去られた宵の室内は、不気味なほどに静まり返っていた。

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