梅雨明け

文久三年 六月初旬


壬生村 八木邸前にて



 薄らと雲が棚引く空の下、浅葱色の隊服に身を包む十人の男たちが徐々に遠ざかって行くのを、女は静かに見守っていた。


 暫し降り続いていた長雨はここ数日止むことが増え、雲の隙間から晴れ間を見せてくれるようになった。


 しかしながら、雨の気配が消えても京の町には湿気が立ち込め、じわりと汗が滲むような、盆地特有の夏がもう直ぐそこまで近づいていて。



「行っちまったかぁ……ぱっつぁんも総司もいねぇ屯所は寂しくなるねぇ。一に限っては元から喋んねぇし変わんねぇけど、ぱっつぁんがいねぇのはよ……」


「左之さんは大袈裟だなぁ。今生の別れでもないんだし、直ぐに帰ってくるんだから。それに、そんなに寂しいんだったら芹沢先生にお願いして連れてって貰えば良かったのに」


「いや、それはいい。俺ァどう考えても芹沢の鴨さんには好かれてねぇからな。平助、お前こそ何でついて行かなかったんだ?誘われてただろ」


「だって……今回の下坂には、近藤さんも山南さんも参加するでしょ?そうなったら、こっちのが手薄になっちゃうから、残った方がいいと思ったんだよ」


「何だよ…!女みてぇな面してやがるくせに色々と考えてやがったか!流石、魁先生!小せぇのに頼りになるじゃねぇか!」



 まるで動物を可愛がるようにワシャワシャと藤堂を撫で回す原田は、最近よく着流しの裾を尻端折りし、引き締まった脚を露わにしていた。


 その姿は何も伊達男だけに留まらず、屯所で暮らす隊士たちはおろか、道を行き交う人々も皆一様に、自分なりの涼の取り方を思案しているようであり。



「…もう……左之さんのせいで髷が崩れちまう!一昨日、山崎さんに結わえて貰ったばかりなのに…!」


「悪りぃ、悪りぃ!後で俺がびん付け油で寸分の狂いなく直してやらぁ」


「いいよもう……そういやぁ、更紗は行かなくて良かったのか?大坂に行ったら暫くは風呂入り放題なのに」



 ぬかるんでいた足元が少しずつ乾き始めた六月の始め、局長の芹沢と近藤は即戦力となる隊士八名を連れ、再び大坂の地へ足を踏み入れる。


 というのも、攘夷期限を布告した五月十日以降、煮え切らない態度を取り続ける幕府に不満を募らせる浪士が全国各地から海路伝いに上方へ集結していた。


 日毎に仰々しくなる水の都の取り締まりを強化するため大坂奉行所は、会津藩お預かりとして名を売り出した壬生浪士組へ白羽の矢を立てるのである。


 突然訪れた願ってもない好機に芹沢は勿論の如く飛びつき、粒ぞろいの剣客を揃え万全の体制を期して、意気揚々と戦地へ赴くのであり。


「……お風呂は惜しいけど、今回はいいです。行っても邪魔になるし、私も芹沢さんに嫌われてるし…」



 後ろを振り向いて大きく手を振ってくれる沖田へ同じように手を振り返した更紗は、胸の奥底でわだかまる陰鬱な気分を吐き出すように小さくため息を落とす。


 

 家里次郎の切腹の日以来、人の生き死にを独断で決めた芹沢鴨という男が恐ろしく、その苦手意識から彼らの住まいである八木邸に近づくことさえ億劫でならなかった。


 命の重さは皆同じ、そんな当たり前だと思っていた価値観すら、この時代の男たちと共有できない現実に絶望を感じることもあるが、悩んだところで生きる世界は変わらない。


 諦めに近い感情のまま持ち上げていた手を下ろせば、代わりに伸びてきた長く温かい指先が栗色のおさげ髪を退けて、白い首筋に残る小さな痣をツンと刺激してきて。



「だな。浪士組の嫌われモン同士、互いの傷を舐め合おうじゃねぇか」


「ちょっと……勝手に触んないで貰えますか」


「いいじゃねぇか、俺ァ正直言うとお前の首にコレを見つけた時は落ち込んだんだぜ。いつの間に身を開いてんだと…」


「だから、違いますって!これは酔っ払ってコケて角屋のどこかの角にぶつけたんです」



 ハラハラと昂ぶり始める胸懐を押さえつけるように眉根をひそめた更紗は、興味深そうな眼差しで見下ろす原田を冷たく一瞥する。


 持ち合わせる中身とまるで違う精巧な顔立ちの後ろに見えるのは、諸悪の根源である色男が旅路につく男たちの姿を見据えている様であった。



「角屋の何処にぶつけりゃあ、首だけに痣ができるんだよ?」


「分かりません」


「つうか、お前はいつ角屋から帰ったんだ?」


「覚えてません」


「じゃあ、誰と帰って来たんだよ?流石に宵の道を一人で歩かねぇだろうが」


「記憶にありません」



 小首を傾げて思案気な表情を繕うのはいつもの事、何十回も重ねてきた似たような詰問には、相手が誰であろうともお決まりの常套句を並べていた。


 決して本当の理由を明かさない強固な姿勢を貫いて早一週間、興味本位の詮索に飽きた隊士が脱落する中、原田だけが迷惑極まりない執着を見せてきて。



「……ほら、更紗もこう言ってんだから、本当に打撲したのかもしれないし…」


「な訳ねぇだろ!平助、お前も経験あるだろ?ちょいと強く吸やぁあんな感じで血が浮き出たみてぇに…」


「ああ、もう分かった分かった……左之さん、先越されて悲しかったんだね」


「あたぼうよ!俺を差し置いて破瓜しやがったクソ野郎なんざ、斬り捨ててやる」



 鼻息荒く腰に差した刀に手を添えた原田は、抜刀する真似をしたまま腰を落とし、目に見えぬ真剣を振り下ろしていく。


 たくし上げられた裾に邪魔されることもない足捌きは見事なもので、背後の人の気配に気づけば即時、下駄を擦り上げ身を翻すのであり。



「近藤さんも出立したんだ。おめえらも無駄口叩いてねぇで、不逞浪士の探索にでも行ってきたらどうだ」


「そうは言うけどよ。土方さんは胸糞悪くならねぇのかよ。うちの大事な隊士を傷モンにされた恨みは…」 


「……あ、…あの……」



 刹那、ポツリと頼りなさげな女の声音が更紗の鼓膜を震わせる。


 その声に誘われるように背後を振り向けば、壬生村に似合わぬ愛くるしい少女が、何やら躊躇いがちに佇んでいて。



「……お話しの途中でお声掛けてしもうてすんまへん……うちはあぐりと申します。この文を……佐々木愛次郎様へお渡し頂きたいんどすけど…」


「愛次郎さんですか?今、多分道場にいると思うので呼んできましょうか?」

 

「いえ、お仕事の邪魔はしたくないのでこれで失礼します……文だけどうかお頼もうします」


「分かりました。じゃあ、私が責任を持って愛次郎さんに渡しますね」



 緊張した面持ちでいる美少女から手紙を受け取った更紗は、何度も振り返っては頭を下げる幼気な後ろ姿から目を逸らすことができない。


 自分を見て瞳を瞬いたあぐりは市松人形のように可憐なもので、小さな赤い唇を動かす仕草ひとつとっても、胸がキュンと震えるものであった。



「……か、可愛い。ちっちゃくて…お人形さんみたいでしたね」


「俺よりも全然ちっさかったもんなぁ。幾つだろう。十五、六かなぁ」


「何だよ、天下の左之様がこう悶々としてるっつうのに愛次郎だけいい思いしやがって。後で絞めてやる」


「そんな事言って……愛次郎君の方が左之さんより柔術は上手うわてだよ。反対に絞められないように気をつけた方がいいよ」


「そん時は更紗の力を借りるまでよ。何せ近頃は髪を捕物とりものの縄みてぇに編んでやがるからな」


「縄って……三つ編みにしてるだけじゃんか」


「だいぶ跡も消えたんだ。そろそろ妙な髷は止めて、町の女みてぇに粋に結わえたらどうだ」



 無造作に撫でられた頭はボサボサとなり、文句を言おうと原田を見やれば、藤堂と共にそそくさと前川邸へと戻る始末である。


 先ほどまでいたあぐりと自分への態度が雲泥の差である事にムッとするが、確かに綺麗に結わえられた女髷は着物姿をより華やかに見せるもので。


「……そんなに変かなぁ?三つ編み」



 胸下まで編み込んだ毛束を持ち上げ眺めて見れば、背後からゆらりと近づいていた人影が、低い声を響かせてくる。



「髷が羨ましいなら、潰し島田に結わえてやるぞ」


「別に羨ましくないんでいいです。これで間に合ってるんで」


「そうかい。総司がおめえに土産を買うつもりでいるみてぇだが、お縄で十分だと言ってやりゃあ良かったか」

 

「……誰のせいだと思ってるんですか。誰のせいで暑いのに三つ編みなんかに…」


「さて、誰のせいだかな」



 悪びれもせずに言葉を返してきた土方は、自分を置き去りにするように背を向けると、文武館のある八木邸へ颯爽と歩んでいく。


 確信犯であるのは間違いないのに、さも他人事のような素ぶりを取られるとそれ以上、踏み込んで話しはできない。


 泥酔した自分を恨むべきか、誰にでも手を出す色男を憎むべきか、内から湧き上がる言いようのない怒りは、いつしか血となり肉となり、その華奢な身体からは想像もつかない力となって現れていて。



「高い位置まで膝を上げて下さい。足を軸に大きな円を描くように、グッと思い切り上げて…」


「……こんな感じでしょうか?」


「もっと振り切っていいです。何してくるか分かんない敵に遠慮なんかしないで、より早く確実に仕留めるように」



  壬生浪士組の朝、それは八木邸の敷地内に佇む道場、文武館で若き隊士たちが熱心に稽古に励むのが常であった。


 汗を滲ませる隊士から数歩離れた更紗は、自身の袴を膝上までたくし上げると、敢えてスローモーションの蹴りを見せる。



「ここをもう少し伸ばせたら安定してくると思いますよ。こういう風に」


「…は、はい!分かりました!」



 食い入るように自分の足を見つめていた男は、顔を真っ赤にしながらも一生懸命に声を出し、柔術の稽古に打ち込んでくれる。


 そんな様子に新たな遣り甲斐を感じ始めていた更紗は、微笑みながらこちらを眺めていた坊主頭の男と恋文を手に持つ青年の元へ鼻歌交じりに近づいていた。



「愛次郎殿、更紗殿の指導がある限り私達の出番はありませんね」


「松原さん、仰る通りですよ。大坂で見た更紗さんの蹴り技は誰もが見惚れる素晴らしいものでしたから」


「大坂で見た、というのはよく原田殿が酒の席で話している新町遊郭での…?」


「左様。初めて女というものはこんなにも美しく、恐ろしいものだと思い知らされました」



 厳つい顔に似合わず穏やかに笑うのは、大坂の茶屋で小袋を忘れたまま立ち去ろうとした恰幅の良い長身の男。


 その名を松原忠司という齢三十手前の男だが、奇遇にも山崎が勧誘していた柔術の道場主であった。 



「松原さん酷い。そんなに笑わなくてもいいじゃないですか」


「面目ない。傷付けてしまったのなら不徳の致すところだ」


「愛次郎さんも。いい加減、あの事は忘れてください」


「御免、御免。なかなか忘れられるものではないから……気をつけます」


 

 コホン、と小さく咳払いをした青年は見目麗しい顔をこちらに向けたまま、更紗が手渡した文を稽古着の懐に押し込んでいく。


 佐々木愛次郎といううら若き隊士は、過去に上覧試合で柔術稽古を披露した程度には武術に秀で、年も同じということもあり、自然と意気投合していた。


 いつものように三人が集えば仲睦まじい平和な空気が流れるが、その横では一転、雷鳴が轟くような音と振動が場内を駆け巡っていて。



「俺を前にして余所見するとは、大した度胸だな」


 聞き馴染んだ沖田の怒声よりもよっぽど恐怖を覚えるその声は、緩んでいた場の空気を一瞬で張り詰めたものに変えていく。


 誰もが固唾を飲んで見守る視線の先では、朱塗りの皮胴を身に付けた一人の男が周りを取り囲むその他大勢の若武者を竹刀一本で打ち伏せていた。


「……副長って……やっぱ、強いんだなぁ…」


 

 気が向いた時だけふらりと現れる土方歳三の剣さばきは、見るたびに流派が変わるような、掴み所のない独特なものあった。


 皆が口を揃えてアレは我流という言葉がぴったりなように、迎え討つ相手の剣筋を見極めるや否や、相手と息を合わす事もせず、強硬に打ち込んでいく。


 それが良いのか悪いのか判断に困るところはあるものの、更紗も比較的、自由な感覚で武術を楽しんできているため、癖の強い手法は存外嫌いではなく。



「お疲れ様でした。はい、どうぞ」


 相手が平隊士とて一切の加減なく稽古をつけていた土方は、肩で息をしながら道場の端に腰を下ろすと、赤の面紐を緩め、ゆっくりと防具を外していく。


 無意識に手拭いを差し出していた自分の手とは明らかに違う、血管の浮き出た逞しい腕は、普段見ることのない武士としての一面を垣間見るもので。


「……気が利くじゃねぇか」


 

 額に光る汗を浮かべ、徐に口元を緩ませてくる横顔が悔しいかな絵になる男前ぶりで、予想外に胸がドキドキ張り詰めていく。



「……使わなかったので。気まぐれです」


「おめえはよ……建前っつうもんがねぇのか」


「そんなのここに来る前に置いてきました」


「さっさと拾って来い」



 互いに不躾な言葉を投げ続けるもそれはいつもの事で、タイムスリップした直後と比べれば少しはその距離は縮まったように感じる時もある。


 受け取った手拭いを広げ躊躇なく顔を埋める土方の様子にみぞおち辺りが痒いような、妙な心地を覚えた更紗は、咄嗟に意識を逸らそうと横へ目を向けるが。



「お更はぁん、お稽古終わらはった?」


 綺麗に女髷を結わえ、濃紺の着物の襟をゆったり抜き気味で着付ける艶やかな女が、内股ではんなりと歩み近づいてくる。



「あ、お梅さん。今、終わるところです」


「それはお疲れはんどした。今日はお天気もええから、たくさん汗かかはったやろ?行きたがってはったお風呂屋はん行こかぁ」


「えっ本当に?!行きます行きます!…あ、でも…お風呂屋さんてタダじゃないですよね?私……自分のお金、一文も持ってないし…」



 女中兼副長付の小姓として食費や雑費を預かることはあっても、個人的に自由になるお金を恵んで貰ったことは未だかつて一度もなかった。


(……昨日買った野菜のお釣り、まだ返してないよね…)


 薄らと脳裏を掠める悪巧みに半月以上ご無沙汰な風呂への渇望が膨らんでいくが、その裏に佇む亡霊が、金銭問題が絡むと浪士組では地獄に落とされるのだと暗に教示してくれ。



「しょうがねぇから出してやる」


「……え…本当ですか…?土方さん……ほんとのほんとに…」


「但し、湯屋代だけだ。それで十分だろう」


「やったぁ…!マジでありがとうございます!!十分です!コーヒー牛乳は飲まなくても全然…!」


「……おめえは何を言ってんだ」



 土方が訝しげな顔つきで喜ぶ更紗を見やるように、更紗も土方が眉をしかめて小首を傾げるその意図を理解していなかった。


 この後一刻も立たないうちに、少しでも疑問を持って、もっと事細かに話しを聞いておけば良かったと後悔に打ちのめされる事となる。

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