初下坂
文久三年 四月二十一日
壬生村 前川邸にて
太陽が山際から昇り始める直前、人々を眠りから起こす明六つの鐘が鳴り響く頃、珍しく屯所では既に隊士たちの慌ただしい朝が始まっていた。
夜も明けぬうちから、女は行灯を灯して朝餉の準備に片付けにと邁進し、すっかり明るくなった自室で一人、旅の準備に勤しんでいた。
畳に広げた緋色の風呂敷の真ん中には、隠すように手拭いに包んだ黒の下着と替えの襦袢、いつも履いている草履、土方から護身用にと渡された短刀が置かれている。
そしてその横、誂えと書かれた白の
「……これが、あの有名な段だら羽織か……」
昨日の夕餉後、大広間に再び集められた全隊士に一着ずつ与えられたのは、上質な畳紙に包まれた新品の羽織であった。
先日の武術上覧によって壬生浪士組の実力を買った会津藩は、彼らの初仕事として上洛していた徳川将軍家茂公の大阪に下る道中警護を要請する。
そんな願っても無い大役を得た壬生浪士組の喜びようは半端ないもので、気を良くした芹沢局長から正式な隊服として本日を以て全隊士に着用するよう命令が出ていた。
「──更紗、もう準備は出来たかい?」
開け放っていた戸の向こう側から優しげな男の声が聞こえた為、更紗は包み終えた風呂敷そのままにゆっくりと背後を振り返る。
「源さん。荷物は纏めたんですけど、どうやって持ち運べばいいのか…」
此方の返答を待たずに部屋へ上がり込んでくる他の男たちとは違い、礼儀を持って接してくれる井上源三郎という男は、山崎と同じように何かと甲斐甲斐しく世話を焼いてくれていた。
そんな年長者の親切心に更紗も心を開いて懐いてみれば、当の本人も娘や妹のように可愛がってくれ、気づけば互いに名で呼び合うほどに距離が近づいていて。
「それは、羽織の上から括り付けるんだよ。まずは羽織を着なさい」
「羽織が先ですね……分かりました」
折り畳まれていた羽織の袖を広げて肩口を両手で持ち上げれば、真新しい水色の布地がはらりと重力のままに地面へ落ちていく。
初めて袖を通す浅葱のそれは糊がパリッと効いて予想外にゴワゴワとした硬いものだったが、彼らの歴史の一ページに触れた事が何だか嬉しくて仕方ない。
更紗は気分が弾むようにひらひらと段だら模様に白く染め抜かれた袖を振っていると、緋色の風呂敷を手にした井上が静かに背後へ回っていき。
「これを背負って前で結びなさい」
「はい、こんな感じでいいですか」
「ああ、そうだ。浅葱の色に赤がよく映えるねぇ。この風呂敷は歳さんのものかい?」
「昨日、渡されたので多分そうだと思います。……やっぱ派手で変ですよね?」
「いや、若い
「若いおなごって……源さん。私、別に女に見られたい訳じゃないです」
いつものように本音が口をついて溢れ出せば、またかと言わんばかりに微笑んだその男の眼差しが三日月のように細められていく。
「ならば美男に見られるのも悪くはない。歳さんが呼んでいるから行って来なさい。戸締りはしておいてあげるから」
「……げ、土方さん……すみません、じゃあお願いします。行って来ます…」
縁側の雨戸に手を掛けた井上へ軽くペコリと頭を下げると、この時代に来て初めて履いた白足袋を器用に畳の上で滑らせ踵を返す。
自分の部屋から見て二つ隣が土方の部屋となる為、小走りでその前まで近づいて行くが、珍しくその障子は開けられている。
声をかける前にひょこりと覗き込めば、既に段だら羽織を纏った二人の男たちが、文机の前に座り込んで紫煙を燻らす男と何かを話しているようで。
「……歳、この通りだ。私の顔に免じて此処は折れてくれ」
「そうですよ、これだけ近藤先生が頼んでいるんだから観念して下さい。どうせ大坂にいる人の誰も土方さんを知らないんです。浅葱色を着て歩いたからと言って…」
「……うるせぇな。てめえらみてぇな
「この色味……綺麗な浅葱裏ですかね?」
「野暮の極みじゃねぇか」
「でも、ほら……木綿じゃなくて麻ですし。袖口に段だら模様も入って素敵だと思うけどなぁ。ねぇ、近藤先生」
「おお!総司もそう思うか!これは芹沢先生が赤穂浪士の如く、我々が忠義に厚い武士になるよう考えられて……」
それぞれの男たちの放つ感情の温度がバラバラなもので、更紗は声をかけるタイミングを計れず、気付かれないようにそうっと顔を障子に隠してゆく。
何となく会話から想像するに土方がこの羽織を着たがらないので、近藤と沖田が説得を試みているようだが、全く交渉が上手くいっていないようである。
それもその筈、土方歳三という人物を少ししか知らない女でも、黒と赤をやたらと好む男が、水色と白で作られたパステルカラーの羽織を喜んで着るとは到底思えないもので。
「おい、市村。突っ立ってねぇで早く入れ。時間がねぇんだよ」
苛立ちを含んだ低い声が障子越しに放たれれば、びくりと肩を揺らした更紗が躊躇いがちにその場でお辞儀をして、そそくさと部屋へ入っていく。
「……はい、すみません。失礼します……」
機嫌の悪さは一目瞭然、部屋に立ち込める白煙の香りの濃さが起床してから煙管を手放さずに吸い続けている事実を暗に肯定してくれている。
胡座を掻いたまま気怠そうに煙管を咥える男の髪型がもれなく髷に変わっている事に気付いた女は、その違和感に思わず面食らってしまうが。
「おめえは道中、これを被るようにしろ」
「……え、…これですか?これって……笠?」
「その目と髪色じゃあ、宵はともかく昼間は目立って仕方ねぇだろう。面を隠してりゃ一隊士として男に見えるだろうが」
「……成る程。ありがとうございます…」
文机越しにひょいと手渡された菅笠はいつぞや旅装束の斎藤一が手にしていたそれと同じもので、円錐型に編み込まれ紐が付いていた。
屯所にいる全隊士が普段と異なる装いでいる事に更紗も変にそわそわと落ち着かない心地に苛まれるが、近づいてくる大きな足音が不思議と安堵を与えてくれて。
「おうい、そろそろ出立するぜ!土方さんよ、田舎侍と冷やかされる腹は決まったか?」
「てめえら全員出て行きやがれ」
「まぁまぁ、そうツンケンすんなよ!俺ァ更紗に言付けがあって来ただけだからよ。新見がお前に戌の刻にと伝えてくれって言ったんだが……どういう意味だ?」
ドスドスと土方の言葉を無視して歩み寄る原田は、その長身かつ浪士組一整った美貌を生かして浅葱色の段だら羽織を爽やかに着こなしていた。
自分のようにその背に荷物はなく、代わりに弁当箱のような四角い竹籠の荷物入れが麻紐と手拭いを器用に使い肩を通って胸前にぶら下がっている。
「……ああ、何か魚の美味しいお茶屋さんが宿の近くにあるらしく、一緒に行こうと誘われてて。海沿いにある貸座敷とか言ってたっけな…」
「……ちょっと待て……おま…それ……何て答えたんだ?!」
「分かりましたって。最初は断ってたんですけど、しつこくて……会う度に言ってくるから面倒くさくなっちゃって…」
武術上覧で酌をして以降、屯所でよく声をかけてくれるようになったが、決まって茶屋への誘いを頻繁にしてくれ、徐々に煩わしく感じるようになっていた。
それでも局長職の人間を無下にする訳にもいかず、仕方なく一度だけ食事に付き合えば、新見の気も済むかと半ば諦め気味に了承したのだが。
「戌の刻って言われても何時か分からないし……鐘が幾つの事ですか?」
試しに菅笠を頭に乗せてみた更紗は思いの外、目深に被れてしまい、遮られた視界を確保する為に両の手で少しずつ前を持ち上げていく。
すると何故かその数秒の間に部屋にいる男たち全員が、鳩が豆鉄砲を食ったような顔つきで自分を眺めている光景に変わっていた。
「…え、何ですか…?そんなにこの笠似合わない…?」
「なぁ、更紗。単刀直入に聞く。もう
「ちょっと…!左之さん更紗に何てこと…!」
「総司、てめえは黙ってろ。俺にとっちゃあ一大事なんだよ!」
慌てた様子で上ずった声を上げる沖田に反して、その言葉を制すように放たれた原田の声は野太く、妙に真剣味を帯びたものである。
両極端な二人の態度に更紗は戸惑うものの、近藤、土方ともに無言のまま視線だけを寄越してくる為、止むなく耳に聞こえたままの言葉を口にしてみるが。
「……言ってる意味が分かんないんですけど、はかってお墓の事…?」
「分かんねぇっつう事はしてねぇんだな?!よし、じゃあ!お前は新見に惚れてんのか?」
「……私が?新見さんに?惚れてる?…何のために?」
「お前の気持ちは分かった。二度と口に出来ねぇように俺が断ってやる!!」
「……え、ちょっと……原田さん……!?」
鎖を引き千切った狂犬のように走り出した男は四角い荷物を靡かせたまま部屋を飛び出し、荒ぶった足音を板廊下へ響かせていく。
一体、原田が何に対して怒り始めたのか理解出来ず、答えを求めるように見渡せば、近くにいた近藤と沖田は顔を見合わせては苦笑いを浮かべていて。
「言ってる事がほんと分かんないんですけど……私、何か原田さんを怒らせるような事、言いました?」
「いや、どっちかと言えば喜んでるのかな……まぁ、怒ってたとしても、それは更紗にじゃなくて、抜け駆けした新見さんにだけどね」
「抜け駆け?」
「うん、宵の茶屋に誘ったでしょう。左之さんはああ見えて我慢してたからなぁ」
自分の常識は相手の非常識。
例え月明かりのない夜だったとしても、隊士たちと近くに食事をしに行く位なら、此方から頑なに断る理由もあえて我慢される理由も思いつかない。
只、血相を変えて飛び出していった原田の様子から考え直してみれば、自分の知識とは異なる意味合いが含まれている気がしなくもないのであり。
「夜のお茶屋さんに誘うのは悪い事なんですか?」
「いや、悪い事とも言い切れんが……本来であれば出会茶屋は
「出会い茶屋?ねんごろ?よく分からないんですけど、そこは仲間内で行く所じゃなくて恋人同士が行く所なんですか?」
「まぁ……恋人に限った話しでもなくてなぁ……うら若き乙女に何と言えばいいか…」
どうにも歯切れの悪い返答を重ねる近藤を見つめていた更紗は小首を傾げ、視界の端でゆらりと立ち上がった土方へと腑に落ちない顔を向けていく。
「……もう少し、分かるように教えて下さい」
珍しく黒袴を纏うその男が慣れた手つきで腰に刀を差していけば、綺麗に結わえた髷も相まってまるで本物の武士のような風格が漂ってくる。
眉間を寄せたまま畳紙に置かれた浅葱色の段だら羽織を手に取ると、土方はあえて此方を見ずに黙りを決めていた口を動かしていき。
「貸座敷には
相手の常識は自分の非常識。
薄々好意を持たれている気はしていたが、熱心に誘ってくれていたのが純粋な食事ではなく、その後に繋がる下心があったのだとしたら心外である。
「……そういう事なら……行きません」
物事を己の物差しで見る危うさを知る以上に、今の自分に誰かと恋をする気力が欠片も残っていない事をたった一人に囚われたままでいる心が教えてくれる。
この時代に来てから一度も思い出す事のなかった在りし日の残像が脳裏をよぎろうとすれば、それを拒否するように胸が息苦しく締め付けられるのであり。
「──更紗、大丈夫か?もう少しで船着場だから、頑張ろうな」
屯所を出発してから四時間以上が経ち、既に十数キロの道程を歩いてきた更紗は心身ともに疲労困憊、菅笠の下に浮かない顔を隠していた。
「……はい、藤堂さん。日頃から運動しなきゃ駄目ですね……こんなに沢山歩くとは思わなかった…」
石清水八幡宮の参拝を終えた徳川将軍家茂御一行と昼前には合流した壬生浪士組は、会津藩の指示通りに長い列を成して将軍警護を開始する。
勿論、その列には大勢の会津藩士も混じっていたのだが、当然の如く浪士組の配置は一番遠いもので、将軍の駕籠が米粒のように見える列の末席に連なるのを許されただけであった。
蓋を開けてみればお世辞にも警護とは呼べないぞんざいな扱いに芹沢は一気に不機嫌になっていたが、こればかりはどうにもならない状況で。
「……大きな川が見えてきた。これが淀川かぁ……」
壬生の屯所から南へひたすら進んでいけば、石清水八幡宮の近く京都南端にある橋本の船着場で桂川、宇治川、木津川が合流し、淀川という大きな河川を形成していた。
此処から船で大阪湾まで出ることが出来るため、一行は緩やかに流れる淀川を下り、将軍家茂公は大坂城へ、壬生浪士組は船宿である大坂八軒家の京屋に約三週間ほど世話になる運びとなり。
「……建物が沢山ある……ここは宿場町なんだ…」
だだっ広い平原に延々と続く畦道が徐々に人の手が加えられた土道へ変わっていけば、比例するように点在していた平屋の木造住宅が段々と二階建ての店舗家屋へと変貌を遂げていく。
町を行き交っていた人々は皆、一様に道の両端に寄って末尾の自分たちが通り過ぎるまで土下座の如く地面に手をついているが、その視線はどうやら前方の幕府御一行ではなく浅葱色の集団を見つめているようで。
「………これ……目立っちゃってるじゃん……」
時代劇で見た大名行列さながらの光景に意味もなくばくばくと胸が高鳴ってしまった更紗は、菅笠で赤らんできた顔を隠しつつ、後方から前方へと視線を這わせていく。
浅葱の段だら羽織を纏った壬生浪士組の闊歩する姿は、黒や紺など、落ち着いた色味の羽織袴を連ねる幕臣や会津藩士たちとは明らかに一線を画していた。
本人たちの気苦労をよそに、天下の土色を一変する涼やかな色合いと男たちの若々しい美貌が相重なって、勇壮な侍の魅力を引き立て、町の中で一際、異彩を放っていた。
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