一章 エンデリック学園

第一章

 メリルはドアの数歩前で硬直していた。

 無理も無い、見た目十一~十三歳程の可憐な少女が突如、己は吸血鬼で魔王である! とこちらに向けて言い放ったのだ。

 それが例えメリルでなくてもこの二日、少女が倒れていた時間の中で頭の具合がどうにかなってしまったのではないか、そう思うのは仕方のないことだろう。

 故に、メリルが導き出した答えとは――――



「え、と……そっか。うん、うん。貴女の名前は、レティーシアと言うのね。私(わたくし)の名前はメリル、メリル=フォン=ブロウシアよ。それと、年上の人をからかうのは感心致しませんわよ?」


 ――信じないことであった。

 その顔は少しの哀れみと、慈愛に満ちている。

 

「お主、いやメリルと言ったか。妾(わらわ)の言(げん)を信じておらぬな?」

「え? 吸血鬼で魔王だって話? 勿論信じているわ。ただ、まだきっと疲れているのねもう少し横になるといいわ。側で手を繋いでおいてあげましょうか?」



 そう言って全く信じていないといった様子でこちらの手を握ってくると、名乗りをあげる時に持ち上げた上半身をベッドに横たえてくる。

 その仕草は妹思いの姉が、風邪を患い寝込んでしまったのを、献身的に看病するかの如く優しさで満ちている。

 それに対してレティーシアはというと。

 大なり小なり、何事か反応があると思っていた為、そのあまりにもあんまりな反応に硬直してしまい、メリルが為すままになっていた。

 しかし、数秒後。再起動を果たしたレティーシアは、重いため息を吐(つ)き、自身が取り敢えず吸血鬼であることを証明すべく行動を開始した。



「まぁ、簡単に信じられぬのも致し方なき事か……」

 

 メリルの手を払い、ベッドから降りると、彼女の前に立ち瞳を閉じる。


「レティーシア? まだ病み上がりなのだから、無理はよくな――――え?」


 

 言葉が最後まで続けられる事はなかった。

 再度瞳を開けたとき、メリルには其処に立っている人物が少女(レティーシア)であると認識することができなかったのだ。

 先程と違って空間がキシキシと悲鳴を上げていると、そう認識してしまいそうな程に重苦しい空気。

 少女から立ち上る物理的圧迫すらともなう気配は、ゆらゆらと陽炎のような湯気が立ち昇る幻視が見えるほどの領域に到達している。

 いや幻視などではない。魔力があまりの密度に可視光を放つことで起きる現象、魔力光であった。



 それはまるで意思が在るかのように揺らめき、移ろい、全身から立ち昇っている。

 おそよ人が到達する事など叶わぬ領域、一部魔神と称される天外の存在のみが許される世界。

 そんな遥か高みから目の前の少女はメリルを睥睨している。それを理解した瞬間、膝がガクリと崩れ落ちた。

 人としての本能が命じているのだ。目の前の存在に逆らっていけない。

 この者の前では、顔を上げることすら許されない。目の前の存在への不敬、それは即ち“死”を意味するのだと。


「ぁ…ぅ……ぁあ…っ……」


 何とか声を上げようとするが、意思に反して洩れ聞こえたのは、悲鳴とも嗚咽とも付かぬものであった。

 メリルが今感じているのは唯一つ、恐怖である。

 目の前の存在が“怖い”恐ろしくて堪らない。

 喋れればきっと恥じも外見も捨てて泣きじゃくり、足元に縋り付いては許しを乞うていたに違いない。

 それでもまだ上がる、まるで天井等無いと言わんばかりに、レティーシアの存在感が増していく。


 その存在が途轍(とてつ)もなく恐ろしくも、凄いことなんだということはメリルにも理解できる。

 だがしかし、それが一体どれ程の高みに居るのかが理解出来ない、したくない。

 それは例えるなら蟻が目の前の象に対して、その巨大さ故にどれ程の危険なのかを理解出来ないかのように。

 素人の人間が、世紀の大発明の機械を前にそれが凄いと認識しても、どれだけ凄いのかを理解できないかのように。

 あるいはその絶望的な距離に、具体的な差を知ることを恐れるように――――




 その時間は数秒だったのか、数分だったのか。少なくともメリルにとっては、無限にも思える時間であったことは間違いない。

 いよいよその存在感に空間が金切り声をあげ、捩じ切れそうになった瞬間…………

 突如、その暴威の顕現とも呼べる程の圧迫感が消えうせる。

 同時、いつの間にか展開されていた蝙蝠にも似た翼は消え、赤色の瞳は外円に黒から白を取り戻す。

 自身が呼吸すらしていない事を思い出し、汗だくになった顔を拭おうともせず、懸命に酸素を取り込もうと空気を肺に詰め込んでいく。


 

「ハァハァ……ごほっ…ぁぐ……ハァハァ…」



 急激な酸素の供給に、肺が一杯となり、咽込んでしまう。

 まるで酸素の海で溺れる様な、まな板の鯉が無様に口をぱくぱくと開閉するように空気という見えない糧を貪る。

 それでもなお深呼吸をメリルは繰り返す。先程の恐怖を少しでも払拭しようと懸命に足掻く。



「ふむ……少々加減を間違えてしまったようであるな。許せ、どうもまだ本調子ではないらしい。さて、落ち着いたかの?」

「え、えぇ……」


 

 そう答えるも、メリルの反応は正直であった。震える身体を止められない。

 トラウマなどと生易しいレベルなどではなく、本能のレベルまで刻み付けられた恐怖はそう簡単には消え去らない。

 公爵令嬢である身は魔物を直接見たことがない。

 だが、目の前の少女がそんな生易しいものでないのは間違いなかった。

 先程とは比べるべくもないが、未だ目の前のレティーシアは人ならざる存在感を放っているのだ。


「まぁそう怯えるでない。何も妾とて、そなたを取って食おうなどと思っている訳ではないのだからな」


 表情は相変わらず精巧な人形の如く変化が無かったが、その声音には僅かな気遣いが含まれている。

 その言葉に少しだけだが安心し、安堵の溜息がメリルの口を吐いて出た。



 (そうだわ、彼女が本当に吸血鬼だとしても、そうじゃなくても、襲うなら今までだって何度となく機会はあったわ……)


 今になってどうしてこんなことを仕出かしたのか。

 それはメリルには分からないのだが、それでもそう思うことで心の平穏は取り戻すことができた。

 心臓がすくみ上がるような思いはしたが、少しでも恐怖を、いや……畏怖を心の底に飲み下す。


「ふむ。どうやら得心がいったようだな。では、妾が吸血鬼であると言うのも分かった筈であろう、この通り牙もあるからな」


 

 そう言ってその白くたおやかな指が口元に伸び、そっと引き上げると、そこには確かに犬歯と呼ぶにはあまりに長く鋭い牙が覗いていた。

 その奥にはぬめる小さな舌が覗き、その淫靡さに思わずメリルの顔に朱が差す。

 幼い姿に反して、垣間見える所作がどうも艶やかなのはどうしてか。 


「さて、妾の正体を話したところで、そなたには幾つか質問に答えてもらいたい。なお、これに拒否権等ないことを先に告げておく。先ず、妾の瞳を見つめよ」


 その注文に少しばかり疑問をメリルは覚えるも、どうせ反対してもどうにもならないことは目に見えていた。

 ならば、と。彼女はレティーシアの真紅に輝くその瞳を覗き込む。


 (あ……れ? 頭がくらくらする……わ。それ、に。意識もなんだ――――)


 レティーシアはメリルが“支配”の術中に掛かった事を確認すると、更に“先覚”と呼ばれる吸血鬼の能力。

 有体に言えばESP《超能力》を行使し、今現在必要であろう情報をその記憶から読み取っていく。

 


 …………一時間後。レティーシアはあらかた読み取った情報を分析していた。

 それらを纏めると。

 先ず、どうやら此処は彼が居た地球は元より、レティーシアが生まれた世界でもないということが一つ。

 次に、確かにレティーシアの居た世界ではないのだが、その生態系は極めて酷似していること。

 吸血鬼と呼ばれる存在も居るが、彼女の世界の吸血鬼とはちょっと趣きが違うらしい。

 それと、神という存在は伝説上や宗教上での存在で、代わりに“精霊”と呼ばれる高位存在が居るとのこと。

 それがどれ程の存在かは目下不明だが、記憶から考えるに自身程の力はないと判断する。



 この世界を含めて、意思ある存在は例外なく“格”と呼ばれるものが定められている。

 それは存在としての強大さとでも言い換えることができるだろう。

 種毎にその存在の“格”の平均値は定められており、例外的な出生やその他特別な方法以外では、基本その後の極限の鍛錬によってでしか、その存在の“格”を上位へと昇華することは出来ない。

 一部邪法の類による上位位階への昇華もあるのだが、ここでは割愛しよう。

 この存在の“格”が高ければ高い程、その種、もしくは個人の潜在能力(ポテンシャル)が高いと言える。

 なお、この存在の位階には名が存在し、下から、


  “akhat”    アハートゥ

  “shtayim”  シュターイム

  “shalosh” シャローシュ

  “arba’”    アルバー

 “khamesh”  ハメーシュ

 “shesh”  シェシュ

 “sheva’”  シェーヴァ

 “shmoneh”  シュモネー

 “tesha”    テーシャ

 “‘eser”    エーセル


 の一~十があり、一が“アハートゥ”で十が“エーセル”となっている。

 ここに、更に各位階とその一段上の上位に近い位階とを分ける“melior=メリオル”が加わる。

 つまり、アハートゥで表すなら、普通の一の位階がアハートゥであり、二の位階であるシュターイムに近い一の位階、数字で表すなら一・六~一・九辺りの者は“メリオル・アハートゥ”と呼称されるのだ。

 なお、この位階での十“エーセル”とは絶対神。

 宇宙創造、真理創造だとかいう、もはや馬鹿げた観測不能な存在に対する位階なので実質の空席である。


 次の“テーシャ”の位階が所謂“神の領域”であり、現在レティーシアはこの“テーシャ”の位階に存在している。

 世界創造であるとか、天地創造クラスで“テーシャ”の位階に相当する。

 これは即ち条件さえ揃えれば、限定的な創造の真似事が出来ることを指している。

 尤もそういう創造より、破壊の類の方にレティーシアはベクトルが向いてしまっているのだが。



 これに当てはめるなら恐らく精霊とは、精々が“シェシュ”から“シェーバ”である。

 精々とは言っているが、六~七の位階とは十分高位存在である。

 因みに人の平均的な格は第三位階である“シャローシュ”とされている。

 これは十分高いと言えるだろう。

 あらゆる生物の平均の格が二のシュターイムとされるのだから。

 ただし人は揺れ幅が大きく、個人でその資質は大きく変動する事が多い種族でもある。


 レティーシアが過去見た中には、人でありながら第六位階“シェシュ”の領域に足を踏み入れた者も存在した。

 あるいは、見たことはないながら、人はそれ以上へと至る可能性を保有しているのかもしれない。

 他には吸血鬼の基本的位階なら“メリオル・ハメーシュ”。

 上位吸血鬼(マスターヴァンパイア)や貴族位吸血鬼(ノーヴルヴァンパイア)だと“シェーバ”や“メリオル・シェーバ”にすら達するものも存在している。

 エルフや獣人も揺れは大きいが、概ねは“アルバー”の位階だ。




 ――――それから更に一時間で殆どの情報の整理及び統合を済ませたレティーシアは、テーブルの椅子から立ち上がると、未だベッドの横でぼぅっと突っ立っているメリルに声を掛けた。

 一部例外をのぞき、この世界において自身を害せる存在はほぼ皆無と判断できたのだ。


「そなた、今この屋敷に当主は居るのか?」

「……はい、父様は現在書斎で政務を行っておりますレティーシア様」



 催眠状態である為か、どこか幽鬼染みた返答を返すメリルには構わず、これからどうするかのあらかたの道筋を組み立てる。

 慌てる事は無い、彼女には悠久の時があるのだから。

 世界を席巻するにしても、調べた結果、どうやら居城足るヴェルクマイスターは彼女の世界に置き去りらしく、それを召還するとしても時間は大量にある。

 あせる必要はない。彼女が居ないだけで回らないような、そんな柔な国でもないのだ。

 ゆえに優雅に行こうとレティーシアは考える。



 ではどうしようか? と考えたところで、そういえば学園がどうのと記憶にあったなと思い出す。

 そこで、彼は兎も角、自身がそういった学校と言う物に通ったことが無いことに思い至る。

 途端、悪戯を思いついたかのような、しかしどこか妖艶で可憐な笑顔をレティーシアは浮かべる。



「うむ。決めたぞ。妾は学園に通うことにしよう」



 歓声一つ、学園に行くにしても身分は必要だと考え、レティーシアは右手を上空に持ち上げると、その中指と親指を合わせパチンッと一回鳴らす。

 すると、指の周りに小さな魔方陣が発生し、数秒の後には一瞬で屋敷中を覆う大きさに変化し、発光と同時に消滅する。

 それと同時に、今まで催眠状態であったメリルが正気に戻った。



「あれ……私(わたくし)いったい……何を…?」

「ん? 覚えておらぬのか? そなたは二日前、夜道に倒れていた妾を屋敷に連れ帰り、帰る家が無いという妾を不憫におもうてか、父君と相談し養子に迎えてくれると言ったのだぞ。しかし、その矢先に疲れのせいか妾は倒れてしまい、二日程寝込んでいたが、先程目が覚めたという訳だ」



 そう言って、先程メイドの一人が部屋に立ち寄り淹れてくれた、紅茶と思わしき飲み物を優雅に飲むレティーシア。

 その佇まいにはどちらがこの屋敷の居住者か分からなくなるほど、遠慮と言うものが感じられない。

 

 

「え、ええ。そうだったわね! 私ったら、どうしてそんなことを忘れていたのかしら? 今日から貴女は私の義妹(いもうと)になるというのに……」



 不思議そうに首を傾げるメリルを尻目に、レティーシアは一人、これから楽しくなりそうだと心の中で呟いた――――


 ――その思考がすでに人、いや、この身となる前とはもはや隔絶しているという事実すらさほども気にかからなかった。


 

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