29・100メートルを8秒台で走る女が出たらどう思う?


「――めでたしめでたし、といったところね」


 美桜は、飲みかけの緑茶をすする。

 日本茶が好みのようだ。

 しびれないのか、語っている間ずっと正座だった。

 ティーテーブルにあるマグカップ。響歌さんオリジナルのようで『なほか』の文字にハートマーク、姉貴の顔のイラストが付いていた。美味い珈琲を不味くする効果のあるマグカップだったが、響歌さんがこれを渡したのだから仕方がない。

 中身のコーヒーに口をつける。

 冷め切ってしまい泥水のようになっていた。ぐいっと胃の中に一気に流し込んだ。


 澄佳を助け出した俺たちは、姉貴と響歌さんのマンションに連れてこられた。


 十二階建ての八階。

 共働きで金の余裕があるようで、3LDKの中々の部屋に住んでいる。俺の六畳一間のオンボロアパートと大違いだ。

 澄佳も暮らす余裕はあるけど、そうせずに寮に入ったのは、二人に遠慮してだろう。

 俺はリビングのソファーで一夜を明かした。

 爆睡だった。

 澄佳と美桜がここで朝食を取っているときも、鼻をこちょこちょくすぐったり、マジックで顔を悪戯書きされようとも、目を覚まさず夢の世界にいた。

 昔の女が出てきた気がするが、細かい内容は覚えていない。

 目覚めたのは、昼の十二時過ぎだった。

 十五時間超えの睡眠時間。こんなに寝たのは久しぶりだ。それだけ体を酷使していたということでもある。


「ざっと、こんなところね」


 起きてからの俺は、美桜から、魔法少女についての講義を受けていた。


「よくわかった。ありがとな」

「聞きかじった知識しかないから、正確とは言えないわ。詳しいことは本人に聞きなさい。そこにいるんだし」


 姉貴たちに目線だけを動かした。


「澄佳、ごめんね、私がふがいないばっかりに~っ!」

「もう分かったから、ひびねぇ、抱きつかんといてー」


 響歌さんはワンワン泣きながら、澄佳をひしと抱きしめていた。

 今回の事件の犯人であるイッヤーソンを捜索していた響歌さんと姉は、さきほど帰ってきたばかりだ。

 それも、俺たちとお昼を食べるための小休止でしかなく、また直ぐに出かけなくてはいかなかった。


「私、責任をとって、ずっと澄佳の面倒みるからね。お嫁さんにしてあげるから~」

「これ以上、いわんといて、お姉ちゃんのメラメラ嫉妬した視線が怖いわー」

「あ、あたしは別に嫉妬など、してないし。そんな視線おくってもいないし」


 じと~っと睨んでいた姉は、両腕をくんで、そっぽを向いた。


「なによ?」


 俺の目線に気づいた。


「姉貴、可愛いぜ」

「気色悪い。見るな」

「本当に逆転してるのか?」

「なにがよ?」

「魔法少女が人間に変身してるんだろ? そんな感じはしないな」


 見かけは人間と変わりない。

 男勝りだが、美人といえば美人の、無駄な贅肉はなく、お腹周りは引き締まっていて、モデルとして活躍してもおかしくない体育会系の二十代の女性だ。

 特別な力があるとも、世界を救った大物にも見えない。


「そりゃ、バレないようにしてるもん。でもさ、うすうす感づいてたでしょ? あんた、不思議そうにしてたことあったじゃん」

「なんのことだ?」

「部活」

「陸上か?」

「そっ」


 姉貴は中学時代、陸上部に入っていた。

 中距離走を県大会優勝した実力者だ。

 オリンピックに出て、金メダルを取るのを夢にしていたのに、高校に入ってから、突然止めてしまった。

 あれだけ好きだった陸上をなぜやめたのか、ずっと不思議に思っていた。


「人間に変身しているといってもね」


 俺たちの会話を聞いていた響歌さんが言った。


「力を完全に押さえられているわけじゃないの。私がヘリコプターから飛び降りたのを見たでしょ? あれぐらいなんてことないのよ」

「100メートルを8秒台で走る女が出たらどう思う?」

「世界新記録間違いなしだな」

「異常よ。女子の世界記録は10秒49、男子でも9秒58。なのに急に8秒なんか出されたら記録がめちゃくちゃよ」

「たった1、2秒じゃないか」

「その1、2秒が、ゴーカートとジェットコースターぐらいに大きいの。とんでもないことなんだから」

「ドーピングどころの騒ぎじゃないわね」


 と美桜が言う。


「身体検査をされて、体の隅々まで調べられるでしょうね」

「陸上やるにしても、本気を出すことができないんだもん。そんなのつまんないじゃん。だーから、やめるしかありませんでしたー」


 姉貴の陸上への情熱は良く知っている。

 あっけらかんとしてるけど、当時は相当辛かっただろう。


「魔法少女なら、100メートル何秒だ?」

「3秒もしないんじゃない?」


 それはすごい。


「お姉ちゃんのスピード、ちょっとは分けてほしいなあ。私、どんくささ最悪ハイレベルやから」

「澄佳はそのままで可愛いの」


 響歌さんは今度は後ろから澄佳をぎゅっと抱きしめる。


「って、そのままじゃなくなったんだった、ん~」


 ズリズリと頬ずりをする。


「よかった。肌の色変わってるから心配だったけど、肌触りは変わりないわ。カサカサじゃない、つるつるだぁ」

「うわぁ、ひびねぇ、だからお姉ちゃんがメラメラ嫉妬モードになるからぁ、やめてけれ」

「嫉妬させちゃえっ」

「しないけど、いつまでベッタベッタしてんのよっ!」


 嫉妬した姉貴がひきはがそうとする。


「やーだ」


 と響歌さんは嬉しそうに抵抗する。


「うわぁ、お姉ちゃんたち、やめてー」


 澄佳の引っ張り合いになっていた。


「ゾンビになって、鈍足になったりしないのか?」

「イッヤーソンが大量生産させた出来損ないと一緒にしないで。蘇りの奇跡は成功している。頭脳や身体能力は本来の人間と変わりないから、普通に日常を送るぶんには、ゾンビだってバレることはないわ。ただ……」

「ただ?」

「魂は宿っていても、肉体は死んだまま。血液は流れてなくて、心臓だって止まっている。機能しているのは脳みそぐらいね」

「それで脳みそを欲しがるのか?」

「ええ、イッヤーソン作成のゾンビは、脳みそがもの凄く熱く感じるらしいの。それで健康な人間の脳みそを求めてしまう。澄佳は、ちょっと熱いぐらいのようよ。死んだ体を強制的に動かしているから、違和感はあるでしょうけど、そのうち慣れてくれるはず。澄佳は光と闇の力で守られているから、怪我をしてもすぐに回復するわ。その能力は人間の回復力より高いの。でも、ゾンビはゾンビだから……」

「うわあああああああああああっ!」


 姉貴の悲鳴。

 引っ張っていた澄佳の腕が取れていた。

 クネクネと動く手を見て、響歌さんは気絶一歩手前の蒼白状態になっている。


「こんなこともあり得る」

「大丈夫なのか?」

「さっき言ったでしょ、回復力が高いって」


 美桜は、澄佳の腕をとると、胴体にくっつける。


「おおっ、これはすごい」


 すぐに元通りになった。澄佳は感動していたが、姉貴と響歌さんは唖然としている。


「す、澄佳、痛くないわけ?」

「平気や。なんともなかったで」


 問題ないようで、ぐるぐると腕を回していく。


「簡単に取り付け可能よ。もし、失ったとしても、魔術を使えば再生できるから、私にいってね」

「顔をとることはできるか?」


 と澄佳は聞いた。


「出来るわ」

「そのまま体を動かすことはできるか?」

「出来るわ。さっきも腕、動かせたでしょ?」

「やった、ついに一発芸を身につけたで。よーし、早速」

「やらないでいい!」「やらなくていいです!」


 姉貴と響歌さんが同時に叫んだ。


「ゾンビなのもあって、体が腐りやすいのよ。太陽を長時間あたるとカサカサに干からびちゃうわ」

「女の敵やなー」

「そのために必要なのがあるんだけど、響歌、頼んだの貰ってきたよね?」

「え? あ」


 響歌さんは、思い出したようにバッグから何かを取り出した。


「ええ、闇の世界から取り寄せたけど、これでいい?」


 三角パック牛乳のようなのを美桜に渡す。


「いいわ。これは脳みそジュースなの。アンデット系の魔物の好物よ。三日に一度ぐらいはこれを飲んだ方がいいでしょうね」


 太いストローをさして、澄佳に渡した。


「飲むとどーなるの?」

「ゾンビにとっての栄養分がたっぷり入っているわ。乾燥を防げて、ツヤツヤの肌になるの」

「じゃあ、飲む」


 とチューと吸っていく。


「うまいのそれ?」と姉が聞いた。

「まずくなく、うまくなくや。ぎゅーにゅーをどろどろのぐろぐろにした感じや」

「ふーん、ちょっとそれちょうだい」

「あなたなら平気だと思うけど、普通の人間なら、青酸カリを飲むようなものだから、自殺したいならどうぞってところね」


 それを聞いて、姉は手を引っ込める。


「学校で飲まんほうがええなー」

「そーね、かっぱらって飲んじゃうバカが絶対にいるし」

「響歌。これを一ヶ月に十本取り寄せといて」

「いいけど、これ一本、かなーり高いのよねぇ」

「私が交渉するわ。取引する奴は分かってるし、タダで貰えるようにしておいてあげる」

「それはかわいそうじゃない?」

「世界を救った魔法少女に、金をふったくろうとするほうがおろかよ。タダでも高いぐらいだわ。ああ、あと、今回かなりの素材を使ったから、取り寄せといてほしいものがあるの。そのリストを書いた紙を後で渡しておくわね」

「はいはい」


 いつものことのようで、澄佳さんは二つ返事で了解した。

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