17・お父様を倒した奴ならいるじゃない
イッヤーソンはゆっくりと歩いてくる。処刑人を前にした囚人になった気分だ。
「何してるのよ。早く逃げるわよ!」
美桜の声がした。
俺のスーツを掴み、肩を引っ張っていく。
「姫さん、いるのか?」
「いなきゃ、引っ張っているのは誰よ?」
グイグイと俺を動かそうとするが弱い力だ。一ミリも動かない。
「よく見えないんだ。メガネ持ってないか?」
「目のいい私には、不要のアイテムよ」
「ちっ、メガネっ娘の姫さんを見てみたかったぜ」
「ここを生き延びたら、それぐらいのサービスしてあげるわよ」
「服はゴスロリで頼む。頭はネコミミカチューシャを付けてくれ」
「変な趣味してるわね」
「どSな姫さんに似合いそうに思ったんだ」
「ムチで、あなたを叩いてあげようかしら?」
「そんなご褒美より、早く逃げろ」
「あなたを置いて?」
「そうだ」
日本刀を持とうとしたが、指に力が入らなかった。握ることすらできない。
「死ぬわよ」
「負け犬は死ぬまでだ。足止めぐらいはなってやるさ」
「今のヤクザじゃ、十秒も持たないわ」
「じゃあ、十秒で逃げろ」
「……三秒もないわね」
目の前。
イッヤーソンの足があった。
奴は立ち上がったまま、人形のような俺たちを見下ろす。
「かっかっか、ごっ、ごあん、ごあんしん……」汚い声を発する。「くださぁぁぁい、あささ、さわくんは、ころぉぉしは、しま、しませぇぇんよぅぅぅぅ」
俺たちを包囲するように、両手を地面に付け、顔を近づけてきた。
「あか、あかあか、あかさわくん、くんは、わたしの、体になるのですからぁぁぁぁぁ」
「姫さん。日本刀で俺を斬ってくれ」
体を取られるぐらいなら、死んだ方がマシだ。
「箸も持てない私に、なんて残酷な命令をするのかしら」
「銃でもいいぜ」
「私がそんなことしたら、澄佳になんて言えばいいのよ」
「私の愛するあなたのお兄さまは、かっこよく死んだと伝えてくれ」
「できるわけないでしょ」
イッヤーソンの手が開かれた。
動く壁で押しつぶすように、こっちに向かってくる。分かっていても、避けようがなかった。テレビの映像をみているかのようだ。ぺしゃんこにはしなかったが、俺の体をとらえると、ぎゅっと握った。
「こういう役目は金髪美女だろ」
「わたぁぁぁしは、お、おんなぁぁぁよりも、あかさわくぅぅぅんの、ほおおおがぁぁぁぁ、こふぶぅぅぅつなんでぇぇぇす」
「ホモは帰ってくれ」
「こ、ここここんなじょうきょぉぉぉでも、じょぉぉだん、いぇぇぇぇる、あかさわくぅぅぅんが、わたぁぁぁしは好きでぇぇぇすねぇぇぇぇ」
「口よりも、体が回るようになりたいぜ」
「わたしの、ものぉぉぉぉになればぁぁぁ、か、かんたぁぁぁんに、強よよぉぉくなれまぁぁぁすよぉぉ」
イッヤーソンの俺を掴んだ手が動いた。体を持ち上げようとする。
「ヤクザ」
奴の手があがろうとするとき、姫さんは両手をあげてジャンプし、イッヤーソンの手の上に乗った。
「馬鹿野郎。逃げろ」
「できるわけないわ」
俺を助けるべく、堅く握られた手を開かせようとする。少女の力だ。ぴくりとも動かない。
美桜は顔を上げ、イッヤーソンを見る。
「イッヤーソン。今すぐ離しなさい」
「お、おややややや。姫ささささ、さまはあかさぁぁわくんを、助けたいの、でしょうかねぇぇ。感動のあまり、なみ、涙が、でま、でま、でまま、ませんねぇぇぇ、ゾンビのからだじゃぁぁ」
「闇の王ガディスの娘である私の命令よ」
「がでぃすさまぁぁぁ、なつかしぃぃぃ、なま、なまええええを、きいたぁぁものでええすねぇぇぇ。もはや、あのおかたがぁぁぁ、存在しなぁぁぁい、いまぁぁは、あなたさまのぉぉ地位はぁぁガタおちぃぃぃ、命令なんぞ、無効果でありまぁぁすねぇぇぇぇ」
「そうね……でも」
なにかに気付いたのか、彼女の口が僅かに笑った。
「お父様を倒した奴ならいるじゃない」
空から隕石のような光の物体が降ってきた。
肉眼で確認できないほどのスピードを出して、イッヤーソンの額に直撃する。
パァァァァァーン!
激しい衝撃音がした。
土粘土のような頭蓋骨が割れて、中から輝かしい光を放っていく。
「おまえはぁぁぁぁっ! おまえはぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
光の物体は、頭部に打撃を与えた足を引っ込めると、くるりと一回転して、勢いを付けてさらに蹴った。
イッヤーソンの巨大な体が剛速球に飛んだ。
何百メートル先まで吹っ飛び、高架鉄道の上に墜落する。
イッヤーソンの手から抜け出た俺は、高々と宙にあがった。
五階ほどの高さから、アスファルトの硬い地面を目掛けて頭から落下していく。
このままでは死ぬと分かっていたが、体が言うことを聞いてくれない。ただ待つのみだ。
走馬燈のように俺の二十四年間の人生が回想されていく。
ろくな人生じゃなかった。
強くなろうと決心し、どんなに体を鍛えても、俺の理想とする強さにはなれずに苛立ってばかりだった。
結局、俺は弱っちいままで、あの人に守られる存在でしかなかった。
あの人?
誰だ?
いや、もう、考えるまでもない。
十年以上前。似たようなことがあった。
イッヤーソンのような巨大な怪物に捕まって、俺はこのように高いところから放り投げられた。
それを人間離れした女が飛んできて、俺のことをキャッチし、間一髪のところを助けてくれた。
体が軽くなった。
クッションのような柔らかいものが背中に触れる。誰かが、俺の体を両手でがっちりと支えてくれていた。男のものじゃない。細くて、柔らかい女の体。それでいて、懐かしかった。
ぼやけた視界からは、一人の女の姿が見えた。
あの頃と同じ光景を俺に見せていた。
「姉ちゃん」
結局俺は、姉ちゃんに守られる存在でしかないんだ。
着地する。光のオーラをまとった姉は、いたわるように、そっと俺の体を地面に下ろす。
そして、イッヤーソンの方を向いた。
背中。
尻の割れ目まである真っ赤な髪に、白と黒の、派手で肌の露出の高いドレス姿。
姉ちゃんの戦闘用衣装だ。かつてはこの格好で、どんな敵とも戦っていた。
命がけで。俺を守るために。
――鏡明はあたしが守る!
記憶のなかの姉ちゃんの姿と重なった。十代前半の少女じゃない。二十代半ばの大人の女性。
だが同じだ。
十年前に見たはずの、失われた記憶、そのままだった。
「夢じゃなかったんだな……」
畜生。姉ちゃん、ええケツしてるぜ。
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