第39話
「いけない!」
言仁は、恍惚として立ち尽くしたままの上人の魅了を解こうとしたが、術が発動しない。
(封呪!)
いつの間にか、言仁の法術が封じられていたのだ。彼にこの様な事が出来る者は、皇国にはただ二人しかいない。
「御苦労様でしたわね」
背後からの声に振り向くと、いつの間にか
「油断はならないと、常日頃から言っているでしょう? 封呪は放っておけば、一刻 ※二時間 も経てば解けますわよ」
それを受けてしまった者は未熟として、封呪が解けるまでの間、他の学徒達が折檻を加えても良いというのが一門の慣習だ。
流石に、封呪されてしまったからといって、言仁に手を出す者はいないのだが。
「しかし、上人殿が! 魅了を! 早く解いて下さい!」
「あらあら、魅眼ですわね。でも、丁度良いではありませんの」
「もしや、上人殿がこうなる事を解って、わざと私を引き合わせた……」
「勿論ですわ。元々、転ばせる為にこれを弱らせていたのですけれども。貴方が島へ来ると聞いたものですから」
「何と言う事を! 私がこの忌まわしい力を好まぬ事は、師も御承知でしょう!」
言仁は、自らの眼に備わっている魅了の力を使わぬ様に心がけている。
周囲の者が皆、傀儡の様に意のままになってしまうのでは、孤独と同じ事だからだ。
皇配としての権力によって命を下すのとは訳が違う。
「必要でしたもの」
言仁が怒気を師に向けるのは珍しい事だが、
「それに貴方も、魅眼は封じていたのでしょう? だからこそ、力を探らせる事をこれに許したのですわね。それを無理にこじ開けたのは、これの側ですわよ」
「確かに……」
瞳を覗いて力量を測ろうとしても、並の術者であれば、言仁の魅眼を発動させてしまう事は無い。ただ、途方も無い力がある事が解るだけだ。
上人は、言仁の深淵を覗こうとして、心を囚われたのである。
「これは、貴方には大きく及びませんけれども、人間にしては稀な力がありますわね。才覚は
「そうですね。
もし、幼少の頃から
「上人殿が、私の魅眼の力に囚われる様に仕向けたのは、逆らう事を恐れてですか? 咎を冒したならばともかくも、恩義ある方ですよ?」
「恩義とは、人狼の童の件ですわね。それがあればこそ、小生は重く用いたいと考えているのですわ」
「ならば何故です?」
上人を高く評価しているならば、数日にわたって幽閉したあげく、言仁の力で魅了して心を奪ってしまったのは筋が通らない。
「和国遠征に際し、小生が立ちはだかる主な敵として考えていたのは、幕府や諸州の大名では無く、仏道諸派の勢力ですわ」
「仏法僧の一部は、法術を使う
「ええ。その中でも高野山は、最も恐るべき相手ですもの」
「ならば、高野山の主流から外れた立川流であれば、皇国としては同盟を組むには良い相手では?」
「皇国の信用を得た上で寝返り、貴方や
「なればこそ、まずは信を醸成する事が肝要かと私は考えます! 高野山よりも厚く遇し、民を慈しむ姿勢を見せれば上人殿もきっと……」
「これとて仏法僧ですもの。仏道を捨て、皇国に付く覚悟が出来ますかしら?」
「それは……」
言仁の期待を、
主流に反するとは言えども、上人は地位を築き上げた仏法僧だ。
これまで信奉していた物の敵に与するのは、流石に躊躇するのではないか。
「皇国の民を預かる身として、貴方はどう考えますの?」
「……
すがる様な瞳で正論を訴える言仁に、
「宜しいですわ」
「有り難うございます!」
「但し、条件がありますの」
「何でしょう?」
「魅了を解く前に、高野山の内情を包み隠さず話して頂きませんとね。素のままでは、隠し立てする事もあるでしょうし」
「師よ、何か御懸念でも?」
「ええ。小生が懸念している物が万が一、まだ高野山に潜んでいるのなら、皇国の、いえ、貴方にとっても脅威ですもの」
「ああ…… もしかして、あれの事ですか」
「確かに、高野山の”奥の院”で、未だ行を続けているという事にはなっていますね。しかし、七百年も前の人物です。伝承に過ぎぬのでは?」
「あれが諸州を行脚して、
「二百年、ですか……」
言仁もそれを聞き首を捻る。通常の人間ならば、とうに寿命が尽きている期間だ。
「あれが
人間の内、法力を生まれ持った
あまり知られていない知識の為、それを実践している
だが、
「茨木や大江党の者共は何と?」
「あれの逸話は風聞で知るのみで、直に相対した事が無い為に確証は持てぬとの事ですわ」
和国在来の
確証はないが、あり得ないとまでは言えないという処であろうか。
「私の様に、石化して時を超えているという事もありそうですね」
「ええ。石化の術は和国では絶えてしまっている様ですけれども、かつてはそれを使う者がいましたもの」
言仁自身、三百五十余年程も過去の生まれである。幼児のまま石化され、
石化の法術は、不老長寿と違い、使いこなせる術者が和国にいてもおかしくない。実際、言仁の実の祖母である、初代の時子は使えたのだ。
件の人物ならば、自身にそれを施す事も出来たかも知れない。
その可能性も考慮すれば、
「あれが…… 弘法大師こと空海が、今も生きながらえているのか、それとも滅しているか。それを確かめるには、それを知り得る高野山の高僧の一人である、あれに聞くのが一番と思いましたの」
「もし、生きているならば?」
「もし空海が存命で、皇国に膝を折らぬとあらば…… 滅する他ありませんわね」
和国に真言密教を広め高野山を開いた、弘法大師 空海。和国の行く先々で、法術によって民を救い続けたという空海は、彼自身が広く信仰の対象になっている程だ。
敵対すれば、
「
優しい口調だが、その瞳は冷たく光を放っており、言仁へ覚悟を決める様に迫っていた。
「ともかくも、疑念の件について上人殿に問いませんと……」
額から流れる汗を袖で拭いつつ、言仁は呆けたままの上人へと向き直った。
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