ショートショート「おきよめのみず」
姉は、間違いなくツカれていた。
悪霊に憑かれていた、のではない。生活に疲れていたのだ。
姉が壊れた一室、その扉を開けて、私は確信した。
予想していたゴミの山は目に入らなかった。むしろ、綺麗な部屋といっていい。
だが、足の踏み場はない。
整然と並べられた、夥しい量のペットボトルが、床を埋め尽くしているからだ。
ラベルの無いボトルは、全て透明な液体で満たされている。
これらが全て、姉が主張するところの「お清めの水」なのだろう。
口数の少ない姉は周囲との交流を避ける傾向があった。
だから、姉の異常に気づいたときには、もう手遅れになっていた。
きっかけは、無断欠勤。万一の事態を想定した管理人は、馴染みの警察官を呼んで姉の部屋に踏み込んだ。二人が見たものは、ペットボトルで築かれたバリケードとその奥に籠城する姉の姿だった。姉は呼びかけに応じず、体からは異臭を放っていた。部屋から出そうとすると暴れ、吠え、ペットボトルで二人を殴り、水と罵声を浴びせつづけた。
バスルームに中身を流し込み、空のペットボトルを袋に詰めていく。
姉は隔離病棟に収容され、拘束着を着せられている。腕だけでなく体中に躊躇い傷がついており、自傷行為が余りに酷いと判断されたからだ。
それもすべて悪霊のせいだ、と、ベッドに括りつけられた姉は訴えていた。
あの部屋は呪われているの。悲劇は何度も繰り返すの。
だからこそ水が必要なんです。お清めの水、水を絶やしてはならないのです。
姉の抑揚のない絶叫は、睡眠薬が効力を発揮するまで続いていた。
この部屋は事故物件だ。
以前の住人が孤独死し、凄まじい異臭を放つまで気づかれなかった経緯がある。
だからこそ内装が真新しく、家賃が安く、にも関わらず借り手がいなかった。
もちろん姉には全てを説明したのだ、と言い募る管理人は、こちらこそ被害者なのだと言わんばかりの態度だった。そして少し怯えていた。狂った女に似ている私に。
最後の一本のキャップを開けたときには、既に終電を逃していた。
タクシーを呼んでまで、両親が子育ての失敗を詰りあっている家に帰りたくない。
ゴミ捨てと鍵の引き渡しは明日で構わないと聞いている。
フローリングに寝そべると、眠気はすぐにやってきた。
目覚めは突然だった。なぜ覚醒したのか分からず、手近な感覚を拾い集める。
倦怠感、暗闇、関節の痛み。乾燥した喉。なぜか全く動かせない手足。
鼻孔を殴られたような異臭と、部屋中から私を見つめてくる気配。
異常な状況に脳が軋みを挙げて回転する。この部屋の前の住人の異名。自然死と思えないほど損壊された遺体。内装を全て剥がさねばならなかった惨状の原因。
孤独な一人を食べ尽くし、共喰いを繰り返して全滅した十数匹の動物の存在。
姉の体中の傷。あれは、爪とぎの跡だ。
死してなお、飢えと肉の味を忘れられない猫たちが殺到してくる。
お清めの水に満たされたペットボトルはもうない。
腐った牙と血塗れの爪が、私に突き刺さっていく。
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