第106話 帝都デゼルト《下》



 デゼルトの工房の主人は訪ねて来たマテルの姿を見るなり、意地悪そうに笑った。


「遠いところによく来たな。とうとうザフィリの工房を閉める気になったのかい? あんたがうちに移るなら大歓迎だ。いつでも席を開けさせるよ」


 工房はマテルのところよりも大きく、職人の数も仕事も多そうだ。

 流石に皇帝一族のお膝元、錬金術のせいで旗色は悪いが、お抱えの職人たちが仕事にあぶれるということはまだないらしい。

 しかしどのみち先細りになる仕事なのだということは、マテルはわざわざ指摘しないでおいた。


 主人の嫌味よりも、気がかりなことがあったからだ。


 フギンがひどくうなされていることに気がついたのは、デゼルトに到着した夜のことだった。

 眠りについてほどなくして苦しみはじめ、起こしてやろうと手を伸ばしたとき、苦しそうな寝息と共に寝言が聞こえた。


 ムニン……。


 人の名前なのか、土地の名なのか、それはわからない。

 デゼルトに近づいてからというもの、フギンの様子はいつもと少し違っていた。どこがとははっきりと言えないのだが、現実がおぼつかないような、ぼんやりとしたような眼差しをふとすることがあった。

 デゼルトの工房での聞き込みを終わらせたマテルは少し早めに大聖堂へと向かった。

 帝都ははじめてではなく、仕事のことで父親と、そして祖父に何度も連れられて足を運んだ土地である。

 大聖堂前の広場はいつも混みあっていたが、今日は特別だ。

 旅装姿の観光客が幾重にも人垣をつくり、広場を遠巻きにしているのを見て、マテルは何となく嫌な予感がした。

 広場で若い娘が大騒ぎをしているみたいだ、という話が聞こえて来る。

 その騒ぎの中心にいるのがヴィルヘルミナと他ならぬフギンだということに気がつくのに大した時間はかからなかった。


「フギン? まさかお前、フギンなのか……?」


 人混みの向こうに立っていたのはそれだけでなく、案内人たちと同じ赤いマントを着こみ、無精ひげを生やした四十代くらいの男が、フギンを見て呆然としている。

 そして男がフギンの名を呼んだ瞬間、ヴィルヘルミナの鞘から弾かれた矢のように刃が飛び出した。

 はた目からはまだ攻撃が届く間合いには踏み込んでいないと見えていたが、踏み込みのタイミングも、剣も、おそろしく速くて遠くに伸びる。

 それが《師匠連》に相応しい技なのかは知る由もないが、運動音痴のフギンにとって致命傷だというのは明らかだった。


「フギン!」


 叫ぶ声が聞こえただろうか。

 フギンは避けるというより倒れこむように地面に転がった。

 切っ先が翻ったマントを切り裂いて、明後日の方へと逃げていく。

 辛うじて避けられたのは、ヴィルヘルミナはヴィルヘルミナで、必死に利き腕を押さえ込もうとしていたからだ。


「やっぱりお前がフギンなんじゃないかっ!」


 第三者がフギンの名を呼んだことで、呪いが強まり剣が女神の加護を受けた鞘から離れてしまった。

 もう、剣を留めておいてくれるものは彼女自身の意志と腕力しかない。

 それも長くは保たないだろう。


「いいか、そのままじゃ隙が多すぎて一刀両断にしてしまう。三歩下がってもう一度地面に転がれ、いいな! せーの、でいくぞ! それとも、イチ、ニ、サンか? どっちにする!?」

「先に呪いを解く方法を教えてくれ!」

「無理無理。自分は魔法全般がてんでダメで、呪文を聞いただけでクシャミが出るくらいだ! そもそもお前、なんでこんな目に遭ってるんだ!? 実は極悪人とか、そういう良心が咎めない事情はないのか」

「良心の呵責なく殺そうとするな。俺はただの冒険者だ!」


 素直に三歩下がろうとした背中が、二歩目で聖堂の壁にぶつかった。

 もう後がない。いちかばちか――フギンが腰の小物入れに手を伸ばし、カードを引き出す。それと同時に短剣を抜いた。

 掌を薄く切り裂き、こぼれ落ちた血をカードで拭う。


「《燃え上がるもの。地獄の口より地上を訪う灰の申し子たちよ》……!」


 ヴィルヘルミナもまた剣の勢いを抑えきれなくなり、ばね仕掛けの人形のように飛び上がるとフギンへと斬りかかる。


「頼む、避けろ!」

「《精霊よ、寄りて来たれ》!」


 懇願と呪文とが重なりあう。

 フギンがヴィルヘルミナに向かってカードを投げつける。

 すると、銀色のカードは真っ赤に熱を帯びて、破片を撒き散らしながら炎を上げ、小規模な爆発を起こした。

 何も知らない見物人たちが悲鳴を上げる。

 だが、しかしヴィルヘルミナは投擲の軌道を読んでいた。

 いとも容易く軽く身をかわし、破片と衝撃をかいくぐる。

 そして放たれた刺突が、もはや身を守る術のないフギンを襲う。


 ――――その瞬間。


「えくしっ!」


 可愛らしいクシャミの音が聞こえた。

 その拍子に目標を逸れた鋭い突きが、聖堂を飾る獅子の像に突き刺さった。

 細かな破片が真っ青な顔をしたフギンの頭に落ちて来る。


「そこまで! そこまでだ!」


 ようやくマテルが見物人たちを押しのけ、フギンの元に辿りついた。

 マテルはヴィルヘルミナとの間に割り込むと、腰を抜かしているフギンを引きずりだして背中に庇った。


「マテル……、残念ながら俺たちでは敵わない相手だ」

「ああ、わかってる。だけど、この場は僕に預けてくれよ」


 マテルはおもむろにしゃがみこむと、地面に両手を突いた。


「うちの使用人が何か無礼を働きましたでしょうか、騎士様。私めはザフィリでしがない工房の主をしている者で、これはうちで使っている見習いです……デゼルトへは、取り引きついでに父親を捜しに参りました」


 フギンはマテルが次々に嘘八百を並べ立てるのを隣で黙って聞いていた。


「この子がフギンだというのは何かの間違いです。孤児で、台帳に名前がありませんので。調べてもらえればわかることです」

「何!? それは本当か? では、フギンというのは……!!」

「おそらく、父親の名前ではないかと。この子の名はムニンといいます」


 寝言で呼んでいた名前を出したのは、ただの思い付きだった。

 普通ならとても信じはしないような口から出まかせだった。

 もう駄目かと思ったが、暴れていた刃が少しずつおさまっていく。

 逃げるなら今しかない。マテルはフギンを抱え上げた。


「いまのうちだ。逃げよう」


 間の悪いことに、乱闘騒ぎを聞きつけた衛兵たちが広場に飛びこんできた。

 混乱する広場から、マテルとフギンはがむしゃらに逃げ出しはじめた。

 師匠連とかいう前口上が真実なら、ヴィルヘルミナがそのへんの兵士に捕まることはないだろう。

 むしろ、遮二無二逃げなければいけないのは、どちらかというとマテルたちのほうである。


「ふたりとも、こっちへ来い!」


 細い路地裏の奥から、案内人の男が手招きしていた。

 真紅のマントを着こんだ例の男だ。


「あんたは――――」


 誰だ、と問おうとしたフギンに先んじ、男は踵を返した。


「名乗るのはあとだ。あいつらに捕まるとろくなことにならん、ついて来てくれ」


 案内人は路地の奥へとふたりを誘う。

 ゴミや埃を踏みつけ、民家の横をすり抜け、どこかの邸宅の庭ではないかと思わしきところを横切り、木戸を開けて石畳の階段を降りると、窮屈そうな水路が見えた。自然のものではなく、ザフィリと同じに、地下にある浄水施設の一部が地上に露出しているのだ。

 ごみが投げ入れられ、夏場には悪臭を放つ細い水路に浮かべた小舟へと、案内人はフギンとマテルを詰め込んだ。

 そして思いのほか巧みな櫂捌きで、小舟は広場をあっという間に後にする。


「このまま地下水路に入るぞ。静かにしていてくれよ」


 鉄格子に空いた穴を潜り、船は真っ暗な水面をするすると滑るように進んでいった。





 案内人は水路伝いに自らの住居へとふたりを案内した。

 それは橋の下の桁にへばりつくように築きあげられた、街で一番貧しい粗末な板塀の家々のうちのひとつだった。


「さあ、くつろいでくれ。ここにゃ街の誰も近寄らないからな。明日の朝には、騒ぎは収まってるだろうし、じきに子どもたちも帰ってくる」


 どうみても不法占拠といった風体だ。

 入ってみると案外広い。

 長いテーブルの置かれた居間があり、間仕切りの向こうには粗末な寝具やシーツが無造作に並べられていた。

 男の言う通り、間もなく子どもたちがぞろぞろとやって来た。広場で見かけた緋色のマントを着こんだ幼い案内人たちだ。

 衛兵がやって来たことで商売ができなくなったのだろう。


「ガロの親方、今日はひとりもお客さんがつかなかったの」


 頭を垂れる少女に、《ガロの親方》は優しく声をかける。


「あんな大騒ぎがあったんじゃ、仕方ねえ。だからしょぼくれるな、ミュウ。飯を減らしたりやしないから――おいチアイ、客に盗んだもんを返してやれ」


 帽子をかぶった少年が、フギンの姿を見つけてビクリと肩を震わせる。

 案内人の少女と組んでスリを働いた少年だった。

 少年は躊躇っていたが、ガロが問答無用にその手から懐中時計をもぎ取った。

 時計をフギンに返し、少しだけ申し訳なさそうな顔を浮かべる。


「俺はここでこいつらの監督役をしてる。悪いな、綺麗な商売だけじゃ子どもらを食わせていけんのだ」

「密告するつもりはない。だけど、どうして助けてくれたんだ?」


 子どもたちは紛れ込んだフギンたちを一瞥すると、後は完全に無視をして、粗末な家で煮炊きの準備をはじめた。

 ガロはフギンたちを板壁に区切られた別の部屋へと連れていった。

 そこはガロだけのための個室のようだ。


「まずはじめに聞きたいんだが、お前さんは本当にフギンじゃないのか?」


 フギンが黙ったままでいると、ガロは眉間に皺をよせて複雑な感情をにじませた。


「…………いいや、フギンのはずがないな。俺が会ったのは三十年前、まだ十になるかならんかってくらいの年の頃だ」


  彼は粗末なベッドに手をのばし、枕元の小物入れから木彫りの人形を取り出して見せる。


「その頃、俺には家族がいた。親はいなかったが年の離れた姉がひとり……姉は幼い俺を食わせるために冒険者になった。といっても、荷物持ちの雑用係くらいのもんでな。優しい人で、はなから荒事なんか向いてなかったんだよ。そして案の定だ。ある日、仕事先から帰らなかった……くそったれな冒険者仲間は姉を置いてきぼりにしたんだ」


 淡々と話しているように見えるが、今でも辛い記憶なのだろう。

 人形を見つめるガロの瞳には、諦めと怒りが交互に滲んでいる。 


「フギンはそんな彼女をただひとり探して、遺品を持ち帰ってくれた冒険者だったんだ。カロルという名前に聞き覚えは……?」


 フギンは黙ったまま首を横に振った。

 マテルは二人の様子をじっと見守ることしかできない。

 おそらく……ガロが言っているのは、確かにフギンの話だ。

 きっとその頃から今と同じように暮らしていたに違いない。疑っていたわけではないが、やはり、フギンはごくふつうの人間ではないのだ。

 沈黙が流れた。

 それは三者三様に異なる感情をはらんだ沈黙だったが、もし誰かが何かを口にしていたとしても、なんの慰めにもなりはしなかっただろう。


 ガロは寂しそうに「そりゃそうだ」と呟いた。


「なにしろ三十年前の話なんだ。俺だって、案内人になって、子どもたちを仕切るようになった。フギンにだっていろいろあったはずだ……。いや、ほんとうに、あんたは凄くよくフギンに似てるよ。まるで生き写しさ。きっとあいつの忘れ形見だ、そうに違いない……見つかるといいな」


 ガロは人形をしまい、励ますようにフギンの肩を叩いた。

 そして、絞り出すような声音で「もし見つけたら」と続けた。


 ありがとう、と伝えてほしい。

 あのときは姉がいなくなった悲しみで辛く当たってしまったが、本当に感謝していると。


「すまないが、一人にしてくれ……」


 それ以上、ガロは何も語りたくなさそうに見えた。





 水路にかかった橋の下から眺めるデゼルトの街は、石造りの堅牢な牢獄のようだ。

 わずかに見える空は端の方が紫の炎のように揺らめいている。


「どうしてガロに本当のことを伝えなかったんだい?」

 

 かがり火がどんよりと曇った色をした水路にうつり、揺れるのを眺めながら、マテルは広場での騒ぎのことより先にそう訊ねた。


「あの人は俺が何者なのかということより、自分の気持ちに決着をつけたいだけみたいに見えた。そっとしておくのが一番だ」

「ふーん……。意外と、人のことを見てるんだね」


 フギンは掌の傷を手当てしながら、むっとした表情を浮かべる。


「見てるさ。お前がまた無茶をしたところもな」

「それは君も同じだろう。どうして剣で自分の掌を切ったんだい」


 フギンはあのとき、魔術の力であの場を切り抜けようとしていた。

 けれど威力の強いカードを失い、ヴィルヘルミナと対峙しながらの状態では、長い呪文詠唱ができない。


「精霊は金気と血の汚れをひどく嫌うんだ。威力の低いカードを暴走させるのに、そうするしかなかった」


 わざと精霊を怒らせ、強い力を流し込むことで金属のカードそのものを破壊させて攻撃しようとしたのだった。

 

「そんな小手先の技は何の役にも立たなかったけどな」

「なんであんなことになったか、覚えはある?」

「いいや、全く……」


 覚えはなくとも、危険な目に遭ったのは何かしら自分のせいであることを感じているらしい。その口調はどこか歯切れが悪い。


「もしかして君って、自分では覚えていないだけで実は悪人で、色んなところに恨みを買ってたりして」

「そうだとしたら、どうする?」


 急に水を向けられたマテルは目を丸くしてみせる。

 それは驚いているというより、おどけている様子だ。


「そうだね……旅に出て早々、しかもザフィリからこんなに近いデゼルトで、いきなり酷い目に遭って……僕はけっこう、ワクワクしてるよ」


 その言葉に嘘はない。心の底からそう言っていた。

 この一日であったことに比べれば、ザフィリで先行きの見えない仕事を黙々とこなし、職人たちの暮らしを立ててゆくことに悶々と悩む日々は退屈なものだ。


 しかしフギンにとってはどうだろう。


 こっそりと様子をうかがった《友人》は無表情でまるで知らない他人のようだ。

 長い付き合いとは言えないが、この旅で、マテルはフギンのことをたくさん知れるだろうと思っていた。でもそれは思い違いだったのかもしれない。

 時間が過ぎれば過ぎるほど、わからないことが多くなる。

 あるいは、そうするべきではなかったのかもしれない……。

 空気を変えるべくマテルは作り笑いを浮かべ、咄嗟に話題を変える。


「それにしても、君は三十年も前から今と同じようなことをしてたんだね。アルドルを探しに行ったときみたいにさ」

「アルドル……」


 フギンが呟いた。


「アルドルって、誰だ?」


 凍りつく、とはまさにこのことを言うのだろう。

 フギンに冗談を言っている様子はない。本当に《見当もつかない》という顔だ。

 マテルは少しの間、黙りこむ。

 そして言葉の先を見つけることができずに、頭上に星が輝くまで、身じろぎひとつすることができなかったのだった。






*****錬金術師協会*****

・帝都デゼルトに本部がある。錬金術師として登録すると、賢者の石の分配を受けることができ、業績を上げると分配される石もより多くなる。ここで働く《技師》は錬金術師たちの助けとなる人々のことで、必ずしも錬金術師というわけではなく、受付係のような事務方も含まれるのでややこしい。

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