第72話 情報屋ヨカテル 《上》△
*****
田舎の屋敷だった。
農家風のつくりだが、窓にはふんだんに硝子が使われて明るく、白壁の瀟洒な建物は細かなところまで手が入っている。一目で貴族の別宅だとわかる。
盗人にとっては格好の獲物だろうに、それにしては備えが行き届いてはおらず不用心に思えた。
トゥジャンは風にそよぐ黄金の穂を遠くに眺めつつ、案内されて最奥の部屋にたどりついた。
そこは屋敷の他の場所と違い、扉の外側にいくつもの錠がおろされた部屋だった。
妙に震えている使用人が鍵を全て開け、中に通される。
老師のつま先が廊下との境界を越えたとたん、中にいた何かが唸り声を上げた。
トゥジャンは手にした杖を軽く払い、飛び出してきたその《何か》を強かに打ち据えた。
「ギャッ!!!!」
甲高い声を上げて顔を押さえ、地面にひっくり返ったそれは子どもだった。
それも、幼い少女である。
娘は四つ足で何もない部屋の暗がりに逃げ戻り、歯の間から威嚇の音を漏らしながらトゥジャンを睨んでいた。その瞳が獣のごとく光っている。
身に着けたドレスは千々に裂けており、何日も入浴していないらしく体中からひどいにおいを放っていた。
「……哀れな。暫し眠っているがよい」
そう呟いた老師の杖が、床に簡単な記号を描く。青白く輝く記号を放つと、床の上を滑って娘を捕まえた。
真魔術による眠りの術が発動して、あたりの空気が冷たく凍える。
娘は瞬時に眠りに落ちた。
トゥジャンは彼女を抱え、応接間へと戻った。そこでは憔悴した顔つきの両親と、銀髪の老騎士、マジョアが待ち構えている。
若い夫婦はコルンフォリの貴族で、娘を連れ、人目を避けて別荘に移って来たばかりだった。
トゥジャンは静かな威厳に満ちた声音で彼らに訊ねる。
「何故このようなことに?」
顔色の悪い母親の代わりに、父親が応えた。
「《結社》に誘拐されたのです」
もともと家族は王都で暮らしていたが、外出した際、ふと目を離した隙に娘は攫われてしまっていた。
彼女を連れ去ったのは《夜魔術師》の秘密結社だった。
数日後、娘は発見されたが、人が変わったかのようになってしまい、昼夜の別なく暴れ回った。仕方なく、彼らは召使を数人連れて住まいを離れたのだという。
「何人もの魔術師や治療師を頼りました。宮廷魔術師に診ていただいたこともあります。……ですが希望のある返事はいただけず、そんな折、オリヴィニスの噂を聞いて、藁にも縋るようなきもちで御足労いただいたのです。お礼はいくらでもお支払いします。なんとか助けていただけないでしょうか……」
屋敷の中にはどこか重たい空気が漂っている。
王宮に仕える魔術師を呼んだとなると、紹介者や当人へと積んだ報酬も相当なものだろう。冒険者への依頼料などかわいいものだ。
「お前の見立てはどうなんだ。黙ってないで何とか言ってやれ」とマジョアは密やかに訊ねる。「それとも、精霊術師を連れてきたほうがいいか? セルタスにこの役はちと不安だが」
「その必要はない。娘は魔物の魂に憑かれている……。しかも娘の魂の存在が感じられない。もはや諦めて眠らせてやるほかなかろう」
しばしの沈黙のあと、堰を切ったように母の目蓋から涙が零れ、嗚咽が漏れた。
涙と絶望をどうすることもできず、トゥジャンたちは一旦屋敷の外に出た。
トゥジャンはどこか遠くを見つめながら言う。
「夜魔術師たちが急激に勢いをつけていることと、ベロウの存在はまず無関係ではあるまいな」
ベロウの名が出て、マジョアの眉間の皺はますます深くなる。
ふたりにとっては、それは過去からやってきた悪夢そのものだ。
「あれはアラリドだ。我らが見間違えるものか」と言い、マジョアは黙った。
庭先に使用人が現れた。
魂を取られてしまった娘をどうするかは、両親に委ねている。
許しがあれば手伝うとも伝えている。
そろそろ、その結論が出た頃合いだろう。
*****
メルメル師匠が屋根から転げ落ちた。
そういう噂が街中を駆け巡った。
始めのうちは誰もがその噂を鼻で笑っていた。
オリヴィニスに住んでいる誰もが、すばしっこい鼠のように街を走り回り、屋根伝いに散歩する少年のことを知っていたからだ。
だからこそ、足に包帯を巻いて歩くメルメル師匠を目撃したとなると、その事実は驚きを通り越して恐怖をもって受け入れられるようになった。
黒猫が横切るとか、鴉が奇妙な鳴き方をするとか、不幸の前兆のように受け取られてしまったのである。
ある意味、レヴ王子の軍勢がやってきたとき以来の大事件である。
もちろん時間が経てば解決するだろうと、誰もが高を括っていた。
ただの捻挫だ。一週間もすればすっかりよくなり、また元に戻るはずだ……と。
だが、実際のところは、そうは問屋が卸さなかった。
一週間後、メルは常宿から荷物を引き上げて、誰にも何も告げずにふらりと消えてしまったのだ。
「これは何かとんでもない異常事態の前触れに違いない。何しろ、熟練の冒険者はメルをオリヴィニスの守り神って崇めてるくらいだからなァ」
「アトゥさ~ん、毎日毎晩、探りを入れるついでに飲んでってくれてありがとうございます。でもね、師匠のことについては何聞かれたって絶対に口は割らないっすよ」
カウンター越しに、みみずく亭の店主ルビノが困った表情を浮かべている。
閉店間際のみみずく亭でこのようなやり取りが行われるのは実に十四夜目であった。
「口を割らせるなんてとんでもない。俺たちは仲間の心配をしてるだけだぜ。困りごとなら力になりたいってみんな言ってるんだ」
「詮索とお節介は紙一重ってね」
「そうかい、ならコイツで決着をつけるしかないようだな……」
アトゥが立てかけていた剣を手に取った。
アトゥは言わずと知れた金板の若手冒険者。その若さにも関わらず《二刀》と異名をとるほどの剣の使い手ではあるが、ルビノはそれ以上の手錬れである。
……五分後、店の扉から勢いよく放り出されたアトゥが路地に転がった。
「また来るからな!」
捨て台詞を残し、剣を杖代わりにして帰っていく傷だらけのアトゥを二人が見送る。
「この街にはお節介焼きが多くて参るね」
「そうっすね」
客のいなくなった店内に現れたのは、ほかならぬメルである。
彼はいつもの革鎧を脱ぎ、少年らしい格好でくつろいでいる。
「それより師匠、例のアレはできたんですか」
ルビノがいつになく心配そうに訊ねる。
メルは難しい顔をして、カウンターの皿をどけて細工物をひとつ置いた。
それは鍵穴が取り付けられた箱で、盗賊ギルドで鍵開けを教えるためのものである。それもごく初心者向けの簡単なものだ。
メルは道具を取り出してそっと鍵穴に差し込む。
だが、いくらガチャガチャとやっても、鍵は開かない。
「…………ぜんっぜん、ダメみたいだ」
メルは道具を放り出してしまった。
ルビノは代わりにからくりを取り上げる。わずか数秒で、がちゃりと音がして箱は二つに開いてしまった。
故障でないと知り、たちまち渋面になる。
鍵開けはメルの得意分野だ。
しかし屋根を転がり落ちたのと時を同じくして、それもできなくなってしまった。
「やり方は、記憶にぼんやりと残ってるんだ。でも、全然体が動いてくれない」
「鍵開け、だけじゃないんですよね」
「今の僕は気配も消せない。忍び歩きもできないし、高いところにも登れない。あのアトゥから隠れることすら無理だと思う……」
「原因はいったい何なんですか?」
訊ねると、首を横に振る。
冒険者としての経験の長さに加え、こう見えて魔術の知識にも通じているメルですら全くわからないのだ。ルビノには見当もつかない。
「迷惑かけて悪いね、ルビノ」
原因不明の不調を抱えた彼は仕事には出ずに、みみずく亭の二階に居候している。
元気なときのメルは、たとえ弟子の家の厄介者になることはあってもそれを悪びれることなどなかっただろう。
本当なら、アトゥに全てを暴露して助力を願ったほうがいいのかもしれない、とルビノは考えた。
こういうとき、ものを言うのは強さや経験の有無じゃない。
ギルドからの信頼も厚い《暁の星団》が動いてくれるのなら、それだけたくさんの情報が入ってくる。
そんなことを考えていると、メルが不意に凄んだ。
「アトゥに弱みをバラしたら……。冒険者証を置いて街を出て行ってもらうからね」
「はいはい、そんなに睨まなくても、わかってるっすよ!」
それにしてもこの状況はヘンだ。
そもそも、メルの存在そのものが奇妙と言える。
年をとらず、オリヴィニスの古老たちと同じか、それ以上に生き続けている。
いったい何者なのか誰もが知っているようで、本当は知らない。
ただひとつ確かなことは彼が冒険者として優れているというその点ひとつ。
それも突然揺らいでしまった。
(何か、悪い予感がする。アトゥさんの勘もあながち間違ってもなさそうだな)
皿洗いを続けながら、ルビノはひたすら、この異常事態を誰かが解決してくれることを祈り続けていた。
*
金糸雀亭のテーブルに珍しい顔ぶれが揃った。
顔ぶれどころか、暁の星団の全員とヴリオと傭兵上がりのノックス、精霊術師のセルタス、そして魔術師ギルドの重鎮ナターレ、弟子のピスティ、ロジエに、冒険者ギルドの受付係、エカイユとレピまでもが勢ぞろいしていた。
店の一番広い個室を借りていても、ぎゅうぎゅう詰めである。
「みんな、すまん! やはり俺では敵わない相手だった!」
部屋に傷だらけのアトゥが転がりこんでくる。
ある者は溜息を吐き、またある者は口汚く罵った。
アトゥは涙目になりながら「こっちは素手で剣を叩き割られたんだぞ!」と鞘から無惨な姿になった剣を引き抜いてみせる。
「流石、メルメル師匠の一番弟子」
「二番って、いるんですか?」
みんな口々に好き勝手なことを言いあい、感心するだけで、アトゥの心配をしてくれる者は皆無だった。
若者は、勝負に負けた上に得意の得物を折られた心の傷を抱え、ひとりがっくりと肩を落としていた。
「まあ、集団で囲んでも口を割るような人じゃありませんし」とエカイユが言う。
「魔術を使うのも反則っぽいですからねぇ」とレピが葡萄酒を舐めながら呟く。
優秀な冒険者であればあるほど不用意な発言は慎むものだ。
明日をも知れぬ冒険者稼業だ。口が軽いなどと知られれば、そいつと一緒に仕事をしよう、という者はいなくなってしまうだろう。
「とにかく、メルメル師匠の不調について、肝心のことは何一つわからなかったということでいいんですかね」
この場に限ったことではないが、セルタスが事実を告げるとたちまち気まずい空気が漂った。
何しろ、ここに集まっているのはメルの不調の原因を探っている者たちなのだから。
「……まあ、間違いじゃねえな。恩を受けてる身で返せないのはなんとも心苦しいが、ベロウってやつの正体についてはほとんど何もわからなかったんだ」
そう言ってヴリオは隣に座るノックスと何とも言えない様子で顔を見合わせた。
ふたりは《アトゥからの個人的な依頼》、という形でレヴの軍勢が陥落させたアールヴォレ城に潜入していたのだ。
「そっちの首尾はどうだ?」
水を向けられ、ナターレ師は不機嫌そうな顔つきになる。
彼女はセルタスから頼まれ、古巣であるミグラテールに探りをかけていた。
「こっちも似たようなものですわね。わかったのは結局……ベロウもアラリドも、おなじく天才的な死霊術師だった、ということだけですわ」
「天才的なんてものじゃありません」とピスティがうっとりした表情で言う。「ベロウ様は差別と偏見で研究が止まっていた夜魔術を復活させた大天才! 夜魔術復権の旗印であらせられます!」
「あなたは全体、誰の弟子なのかしらね!?」
ナターレの鉄拳制裁を食らい、ピスティがテーブルの外に放り出される。
面白おかしい喜劇の一場面というよりは、見る者が見れば肝を冷やさずにはいられない光景である。
しかしこれで、本当に最後の手が消えてしまった。
メルの過去について知っているのは、弟子のルビノを除けばマジョアやトゥジャンといった町の大人物たちだけだった。
「仕方がない、こうなりゃ最終手段だ」
この混沌とした会合のまとめ役であるアトゥは、そう言ってテーブルの真ん中に何も入っていない空の杯を置いた。
*
看板も出ていない、明かりもない閉じきった木戸を開けると、そこから光や無遠慮な酒のにおい、がやがやした賑やかな声が漏れ聞こえてきた。
入口に目つきの鋭い男が立っており、新たに入ってきた客のギルド証を確かめる。
狭い階段を下っていくとそこには思いのほか大勢の男女が集っていた。
とても上品な空間とは言い難い。
ここは金糸雀亭のちょうど裏手側にある、隠された空間だった。
護衛役の力自慢としてアトゥに連れて来られたノックスの目には、そこは賭博場のように見えた。実際、人々はあちこちのテーブルで賭けカードをやっていた。
「ここは《ヨカテルの店》だ。隠れた屋号は《黒鴇亭》。三十年ほど時を遡れば、冒険者ヨカテルといやあ、マジョアやトゥジャン、メルと並ぶ凄腕錬金術師の名前だった。今は引退して情報屋をやってる」
「情報屋?」とノックスは聞きかえす。
それは冒険者の街には相応しからぬ単語のような気がした。
「ああ。厄介な魔物の倒し方や生息地の割り出し、お宝が眠ってそうな遺跡の紹介、冒険者稼業に必要な情報をなんでも金で売ってくれる」
カードと酒を楽しむ人々に紛れて、壁にはヨカテルが扱う情報の一覧が張り出されていた。
オリヴィニスのギルドは優秀で、依頼時に必要な情報は最低限教えてくれる。
だが、それでも懇切丁寧に何もかもの面倒をみてくれる、といったものではない。
ノックスは《大陸西側を移動している魔狼の群れの詳細な位置、時価》《効果的な仕掛け罠や毒の調合、いずれも金貨三枚》といった貼り紙を眺めながら、これらの情報があれば仕事がどんなに楽になるだろうかと食い入るように見入っていた。
――その視界をアトゥが遮った。
「手っ取り早く稼ぎたいときはココを使うのも一計だ。だがヨカテルはギルド非公認の悪質な金貸し屋も兼ねてる。油断してると尻の毛までむしられる世界だぜ」
「では、なぜこんな店の場所を知ってるんだ?」
ノックスはおかしい気持ちで訊ねた。アトゥは声を潜める。
「ヨカテルの野郎は情報屋としての腕もいいんだ」
つまり、と苦い顔になる。
「メルの不調の原因が、レヴ王子の軍と一緒にきたベロウっていう女術師と、それから昔の仲間のアラリドにあるっていうことはヨカテルに聞いたんだ。大金を積んで」
ちょうどそのとき「アトゥ、お前の尻の毛なんか微塵も興味はねえぞ」というぶっきらぼうな声が聞こえてきた。
店の奥に、さらに階段があり、その手前に老いた男が立っている。
老いた男、としか形容し難い雰囲気の男だった。
針金のような印象の灰色の髪、乾いた砂色の肌、茶色のベストに紫のタイ。
足が悪いのか杖を突いている。
「そうら、真打ちが来なすった」
この老人が情報屋ヨカテルである。
強い酒の壜を片手に、そのにおいをぷんぷんさせている。
言われなければ、彼がかつての名冒険者であったことは想像もつかない風情であった。
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