其の一/事件

一/事の起こり

曲者くせもの!」

夜も更け、人の行き来が少なくなった江戸の町に、鋭い声が響いた。

そこは川沿いで、立派な武家屋敷が立ち並ぶ静かな夜道。

叫び声が聞こえた屋敷の門には「毛利」とある。

声が響いて、二人の門番も慌てて屋敷に駆け込んだ。屋敷ではどたばたと足音がして、さらに怒鳴り声が響く。

「貴様!何奴なにやつ!……刃向かうか!」

この声は、毛利家の主人、惣左衛門そうえもんの声だった。

門番が庭にたどり着くと、主人が真っ赤な顔で塀を睨んでいる。

刀を抜いていて、肩で息をしている。腕から血が流れている。刀傷だ。

見ると、が塀を乗り越えようとしていた。

その男の、墨で染めたように真っ黒な着物は酷くボロボロで、血走った目でギロリと周りを見回す。

薄暗がりの中なので、パッと見ほとんど姿が見えない割に――その不気味な容貌は大変人目を引いていた。

その異様な風体に、門番たちも一瞬ギョッとして固まってしまう。

「待て!」

毛利家の主人がまた怒鳴るが、男はそのまま塀を乗り越えて姿を消す。

塀の向こうは隣の山本家の庭である。山本家もまた大きな屋敷で、騒ぎを聞きつけたらしき山本家の主人の酷く慌てた声が

「な、なんじゃ貴様は?!く、曲者!出合であえ!であ……ぎゃぁあっ!」

短い悲鳴と共に静かになった。惣左衛門は真っ赤だった顔を一瞬で真っ青にする。

「ぬ、おのれ曲者め、山本殿に手をかけおったか!」

こうなっては仕方ない、背に腹は代えられぬ。山本家に無断で入り込むことになるが、この場合責められることはなかろう。

「御免!」

そう言って、塀をよじ登る。固まっている門番にも怒鳴りつける。

「何をしている!お前たちもすぐに参れ!……一人は門の外へ!道沿いに逃げるやもしれん、絶対に逃すな!」

「は、はいっ!」

そうして一人は門の外へ。一人は主人と一緒に山本家の屋敷に塀を越えて飛び込む。


「山本殿っ!」

庭には…いない。どこへ逃げたのか。見回す。屋敷の向こう、!曲者を警戒しながら急いで庭を突っ切る。屋敷を回りこむ。そこには、着物の胸のあたりをぱっくりと切り裂かれて倒れた山本家の主人、寛十郎かんじゅうろうの姿が!

刀がない所を見ると、無抵抗なところを袈裟に切られたのだろう。惣右衛門は慌てて駆け寄る。

「な……!」

そこには、異様な傷跡があった。

深くえぐれているのにもかかわらず、酷い状態だった。

傷の周りは腫れ上がり、少しまでする。

とてもまともな刀傷には見えなかった。

それはまるで、呪われた傷のようだった。


惣右衛門は真っ青だ。

「山本殿っ!山本殿っ!」

武士といえど、この太平の世。こんな大怪我を見ることなどほとんどない。

「山本殿!しっかり……!」

「うぐぐぐ……くせ者……!あちらへ……塀を越えて……逃げ……」

ブルブルと震える指で、山本寛十郎は屋敷の裏の塀を差す。

真っ白な海鼠塀なまこべい。さらには、草履で駆け上ったかのような真新しい泥の跡。

「おのれ……くせ者め!逃さぬ!」

惣右衛門は門番に寛十郎を任せ、すぐにその後を追う。

しかし、塀は高く、足跡の場所からそのまま追うのは難しく、近くにあった松の木を使ってよじ登り、塀の外に降りる。

塀の外には川が流れており、橋はかなり離れたところにしかない。

川沿いの道はかなり遠くまでまっすぐ伸びている。明るい時分なら遥か遠くまで見通せることだろう。

だが今は夜、暗くて見通しは悪い。

すぐ近くに蕎麦の屋台があり、鉢巻を巻いた主人が、塀を乗り越えてきた惣右衛門たちを見て腰を抜かしていた。

「おい、そこのお前!」

惣右衛門は蕎麦屋の主人に詰め寄る。

「今、ここに不審な男が通っただろう!」

蕎麦屋は襟を掴んで揺さぶられ、あわあわと頭を揺らす。喋るどころではない。とはいえ、黙っていたら切り捨てられそうな勢いである。

そして主人がやっとのことで答えた言葉は、にわかには信じがたいものだった。

「だ、誰も通りゃしませんよ!」

「なんだと!そんなわけがあるか!」

惣右衛門はさらに真っ赤になって怒鳴った。

「たった今、山本寛十郎殿が切られた!寛十郎殿を切った曲者は、そこの塀を乗り越えてこちらに逃げたはずだ!お前の目は節穴か!」

「と、とんでもない、旦那!あたしゃ今日は客も少なくて、誰か通りゃしないかとずぅーっと周りを見てたんです。誰か通りゃあ、気づかないはずはありませんとも!」

「なんだと……?」

「そ、それに……曲者だのなんだのと物騒な声がしやしたからね!いざとなりゃ川に飛び込んで逃げようと思って、あたしゃ山本殿のお屋敷の塀をずっと睨んでたんですから!」

「いい加減なことを申すな!」

「天神様に誓って本当ですよ!」

「……さては、実は貴様が盗人本人なのだろう!」

「ええっ!」

むちゃくちゃを言い出した惣右衛門に、蕎麦屋は慌てて釈明する。

「冗談じゃありませんよ旦那!あたしゃこう見えて悪いことは大嫌いなんです!蕎麦屋の矜持に賭けて、あたしゃ何も悪いことなんぞしちゃおりません!」

たしかに、蕎麦屋の主人は割と恰幅も良く、ねじり鉢巻に大きな前掛けもしっかりとくくられている。

ほんの数秒であの曲者がボロを脱ぎ去って着替えるのは無理がありそうだし、そもそもこの主人の体型ではあの大立ち回りは出来るはずもない。

「それでは、あの曲者はどこに消えたというんだ!」

「知りゃしませんよ、消えてなくなったならお化けか何かでしょう」

「そんなわけがあるか!それじゃあ、川はどうだ!何か物音がきこえたか!」

川と言っても今は水位も低い。降りようと思えば飛び込むほかなく、そうすると大きな水音がするはずだ。

「何も聞こえません。この人通りだ、魚が跳ねるだけでも気づきますぜ、人間が飛び込めば気づかないはずありゃあせん!」

「反対側に逃げた者はどうだ!曲者が逃げるのを見たはずだ!」

「だから!信じてくださいよ、そもそもこんなにまっすぐな道、隠れる場所もないでしょう。誰かが塀を乗り越えてくりゃ、絶対に気づきます!」

蕎麦屋は泣きそうになりながら言った。

「天に誓って、いや、女房に誓って、ここ半時ほどは塀を越えてきた人間なんておりやせんでした!」

嘘ではないようだった。少なくともこの蕎麦屋は犯人ではなさそうだし、犯人を見ていないというのも本当のように見えた。

「……それでは……あの不気味な男は一体どこに消えたというのだ……」

惣右衛門は、唖然として立ちすくんだ。


自分も確かに見た。

顔に黒い布を巻き、気味の悪い襤褸をまとった、血走った目。

足跡のついた海鼠塀を見ればわかる、高い塀を簡単に駆け上る、人間離れした身軽さを持った不気味な男。

そして、無慈悲にも無抵抗な寛十郎を切って捨てて、跡形もなく消えてしまった。

そして、寛十郎に残った、

一体これは何だ?

自分は、一体何を目撃したのだ?

そうこうしているうちに、ようやく役人たちが集まってくる。

「本当です、どうか信じてください!」

蕎麦屋は情けない顔で叫ぶが、目撃者の証言から蕎麦屋以外に犯人はありえず、とりあえず奉行所にしょっぴかれる。

「あ、あたしが何をしたというんですー!」

確かに、蕎麦屋が捕まったのは、役人たちの面子を保つためだけの理由だ。気の毒だが、まぁすぐに放免されるだろう。

こうして。

あやかしによる毛利家・山本家襲撃事件は、幕を開けた。


翌日、江戸はこの事件のことで持ちきりだった。

噂によると、犯人は化物であるらしい。


曰く、真っ黒な襤褸ぼろをまとい、光る目を持つとか。

曰く、六尺もある塀を猫のように簡単に飛び越す程に身軽だとか。

曰く、切られたところは血が吹き出ずに、すぐに腐ってしまうだとか。

曰く、とか。


……おかげで、江戸中の蕎麦屋は大繁盛することになった。

言うまでもなく、言いふらしたのはすぐに釈放された蕎麦屋の主人である。

何もしていないのにいきなり言いがかりをつけられ、一晩とはいえ牢に放りこまれたのだ。少しくらいはいい目を見ても罰は当たらないだろう。江戸の商売人は、転んでも只で起きたりはしないのだ。

奉行所としても、犯人が人間だとすると、矜持に関わる。それならいっそ、人の手に余る化物が犯人であったほうがいい。

瓦版は奉行所のお墨付きも得て大増販。結局、蕎麦屋と瓦版はが大儲けし、江戸の庶民は刺激的な娯楽――現実に起きた不気味な物語――を楽しむことになった。


一方、笑い事で済まない者たちもいる。

言わずと知れた、毛利家と山本家である。

毛利家、山本家、そして奉行所は面白おかしく書き立てられた瓦版を苦々しく思っていたが、もう一組、それを不愉快そうに眺める者たちがいた。

犬神夫婦である。

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