269区 覚悟
静寂が一瞬にして部屋を支配する。
その静寂は重く、この部屋にいる私達全員をゆっくりと飲み込んで行く。
まるで、透き通った水に黒い絵の具を垂らしたかのように……。
誰もが重く沈んで行く空気に抵抗出来ずにいた。
少なくと私はそう思っていた。
だが実際は違った。
この重たい空気をものともせず、彼女は明るい声を部屋に響き渡らせる。
「あの……。あずさちゃん、ランシャツ貸して。それと藤木さん、ランパン貸してください。昨日、お風呂の支度をしている時にわたし見ました。持って来てますよね。わたし、2人のユニホームを着て走ります。2人のようなすごい走りは出来ないかも知れないけど……。それでもタスキでみんなの思いを繋ぐのとは別に、2人の思いをわたしが背負って走ります。あと、あずさちゃん。いつも試合で使ってる大和さんの髪留めも借りれるかな? 先輩には怒られちゃうかもしれないけど、先輩のためにも頑張りたいから」
寝起きのため、朋恵のトレードマークとも言うべき三つ編みはまだ編み込まれておらず、肩まで伸びたストレートの髪と、いつになく真剣な眼差しが交じり合い、まるで朋恵が私の知らない別人のように思えた。
そんな朋恵の発言に、紗耶と梓はあっけにとられながらも、静かに頷く。
それがスイッチだったかのように、重たい空気がすっと消えた気がした。
「さぁ、大和さん病院に行きましょう。寒いだろうからベンチコートを着てなさい」
由香里さんは梓をベンチコートで包み、そのまま軽々とお姫様だっこで持ち上げてしまった。
まったく重そうなそぶりを見せず、由香里さんは梓を抱いたまま部屋を出て行く。
「あれ、重心のかけ方にコツがあるんだと。私も酔いつぶれた時、由香里にああやって抱きかかえられたことがある」
驚く私達に永野先生が説明を入れてくれた。
「私は部屋でメンバー変更の用紙を作成するから」
そう言って立ち上がる永野先生の足は、なぜか出入り口ではなく、部屋の奥側にいた紗耶の方へと向かう。
紗耶の真正面まで来ると、紗耶の頭に軽く手を乗せた。
「藤木、すまんな。お前の気持ちに気付いてやれなくて……。だがな、これだけは言わせてくれ。藤木がいない状態が一番ベストだなんて、私は一瞬たりとも思ったことはないぞ。いつも笑顔で部の雰囲気を明るくしてくれてるし、園村の代わりにマネージャー業をしてくれたり。本当に感謝している。だから、あんな悲しいことは二度と口にするな」
それだけ言うと永野先生は静かに部屋を出て行く。
紗耶はその場に立ち尽くし、声を殺しながら泣いていた。
「あの……。藤木さん、散歩に行きませんか? わ……わたし、急遽走ることになったから体を動かしておきたいし、出来れば4区のコースを詳しく教えて欲しいです」
朋恵は紗耶にお願いすると同時に、泣いている紗耶の手を引っぱって部屋を出て行こうとする。紗耶も特に抵抗することなく、コートを羽織って出入り口へと向かう。
「あさちゃん……。せいちゃん……。ごめん。後でちゃんとあずちゃんに謝っておくから」
紗耶は俯いたまま謝り、朋恵と一緒に部屋を出て行った。
その後、しばらく部屋には沈黙が続く。
その沈黙の中で、麻子が私達の顔をじっと見ていた。
「聖香、紘子、それにアリス。話がある」
麻子は出入り口を気にするような素振りを見せながら、私達に声を掛ける。
その声は真剣そのものだった。
「あたしがこれから喋ることは、もしかしたら結構ひどいことかもしれない。だからこそ、このメンバーにしか言わない。でもキャプテンとして、はっきり言わせてもらう」
まるで私達の反応を見るように、麻子は言葉を切って全員の顔を見る。
「正直言って、今のあたし達は崖っぷちに立たされている。いや、下手をしたらもう片足が崖から落ちてるかもしれない。勘違いしないでほしいのは、結束がどうとか、人間関係がどうとか、そう言う見えないものじゃないの。紗耶と梓も、あれくらいでヒビが入るような関係じゃないのは分かってる。あたしが言いたいのは現実的な問題よ!」
麻子が伝えようとしていることが何か分かる気がした。
「朋恵は確かに速くなったと思う。先週の3000mタイムトライでも、10分5秒を出して、自己新を更新している。それでも梓とのタイム差が25秒あるのも事実よ。ましてや城華大附属の4区は貴島祐梨。3キロなら9分35秒から40秒くらいで走るわ。つまり現時点で、4区で25秒から30秒の差がついてしまうと言うことよ」
麻子の説明に、紘子とアリスはかなり悩んだ顔をする。
「永野先生が言うとおり、今年はかなりの接戦になることは間違いないと思う。現にあたしも山崎藍葉に対して大差を広げられるとは思えない。まぁ、大差で負けるとも思えないけど。でね、何が言いたいかと言うと……。もちろん朋恵にも頑張ってもらう。それを差し引いても多分あたし達4人で、1人7秒くらいは貯金を作らないといけないってこと。それがどれだけきついことかはよく分かってる。昨日、永野先生が勝っても負けても5秒差って言っていた。つまり7秒と言えばここにいる4人全員が120パーセントの力を出さないといけないってことだと思うの。でも、その力を出さないといけないくらい、追い詰められているという現実も直視して欲しい」
麻子の訴えに誰もがすぐには返事を返せなかった。
少しの沈黙の後、紘子が急に表情を明るくする。
「じゃぁ、自分が慶に勝って流れを作ってみせますし。それに昨日永野先生が言っていました。あとはどれだけ勝ちたいと思うかって。自分はものすごく勝ちたいと思ってますし」
「アリスも勝ちたいです。はるみさんのためにも、さやさんのためにも、あずさのためにも」
紘子に続きアリスも強く答える。
まったく。なんとも頼もしい後輩だ。
「麻子。後輩2人がこう言ってるのよ。私達もやるしかないでしょ?」
私が麻子の顔を見ると、麻子も静かに頷く。
「そうね。それに、もしもあたし達が差を広げられなくても……。アンカーは聖香だもんね。きっとどうにかしてくれるって信じてるわよ」
「ちょっと麻子? 今の今まで良いこと喋ってて最後にそれ? 他人任せ過ぎでしょ?」
「違うわよ! あたしは本当にそう思ってるの。これでもあなたの走りにあたしは本気で惚れてるのよ! だから期待もしてるの!」
何とも恥ずかしいセリフを口にする麻子だが、目は今までと変わらず真剣そのものだった。その代り、耳は真っ赤になっていたが……。
とにかく、もう悩んでも仕方がない。
麻子の言葉どおり、崖っぷちに立っているのは事実だろう。
でも、だからと言って悲観的になることもないし、それぞれがしっかりと走ることに、なんら変わりはないのだ。
だったら、しっかりと前を見て進むしかない。
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