207区 聖香が忘れていたこと

「澤野聖香!! あなたいったい何様のつもりなのよ!」

遠くから名前を大声で叫ばれる。


私が声の主の方を向くと、周りにいる人達もそっちを注目していた。


声の主、山崎藍葉がこっちに向かって走って来る。

気のせいか、随分と機嫌が悪そうに見える。


「あなたねえ! いったいどう言うつもりなのよ! 説明しなさい!」


違った。

見えるのレベルではなく、あきらかに山崎藍葉は機嫌が悪かった。


「えっと……。まずは状況説明をして欲しいのだけど」


「あなたが昨年の県高校選手権の時に、勝負がしたいなら県総体で1500mに出て来いって言ったんでしょ! だからわざわざ1500mにエントリーしたのに! 肝心のあなたが県総体に出ていないって、どう言うことなのよ!」


「あ……」

そう言えば、そんな話をした気がする。

今の今まで、完全に忘れていた。

そうか、前にえいりんが荒れるかもと言っていたのは、これだったのか。


「なんて言うのかな。ほら、よく言うじゃない。人生そう言う時もあるって」


「あなたとの対戦に関しては、そう言う時ばっかりなのよ! だいたい、私と対戦したいって気持ちがきちんとあったら、県総体に出場しないって選択肢が出て来るはずがないでしょ。その辺どうなのよ澤野聖香!」


しまった。火に油を注いでしまったようだ。


まいったなぁ。「藍葉との対戦はまったく考えてなかった」って言ったら収拾がつかなくなってしまいそうだ。


と、城華大附属のジャージを着た人がこっちにやって来るのが見えた。

一瞬、知らない人に思えた。だが、それが間違っていることに気付く。

なんと、えいりんだ。


「さすが藍葉。朝一からエンジン全開なんですけど」

えいりんの声に聞き覚えがあったのか、紗耶と麻子、晴美が一斉に反応する。


「え? 市島さんかな」

「うそぉ。なんで? 熊本で会ったよねぇ~」

「なんで城華大附属のジャージ着てるわけ」

3人とも驚きの声を上げる。


しまった。えいりんが転校して来たことを、どうやら私はみんなに言い忘れていたようだ。


「やっほー。半年ぶりくらいだね。いやぁ、さわのんと直接対決したくて熊本から山口に転校して来ちゃった。ルールの関係で、半年間は試合に出場出来ないんですけど。ほら、藍葉早く行かないと阿部監督に怒られるわよ。だいたい、あなた本当にさわのんと対戦したいなら、私のように自ら出向いて行かないとダメよ」

えいりんは、まるでネコをつまむように、藍葉のジャージのえりをつまむ。


なぜか藍葉も急に大人しくなってしまった。

もしかして、本当にえいりんは藍葉を手なずけてしまったのか。


「じゃぁ、みなさんお騒がせしました。藍葉は私が責任を持って回収しますね」

藍葉のえりをつまんだまま、えいりんが笑顔で立ち去っていく。

藍葉も何も言わずに大人しく立ち去って行った。


「おい、澤野。市島が城華大附属に編入ってなんの冗談だ!」

私に問いかけて来る永野先生の表情は、珍しく真剣そのものだった。


「いやあ、それがどうも冗談じゃないみたいで。私も4月になって知りました」


「まったく笑えない状況だな……」

真剣な表情をしたまま、永野先生はため息をつく。私は、「えいりんってなんとも行動力があるなぁ」程度にしか考えていなかったのだか、実際はかなり深刻なことのようだ。


確かに、えいりんがと考えるより、2年連続で都大路を走った人間が。それも2年連続で区間賞を取った人間が転校して来たと考えれば、とんでもないことだと言うことに初めて気付く。


一騒動終え、全員でスタンドへと向かって行く。

階段を上がっていると、上から私の名前を叫ぶ声が聞こえる。

見上げると清木千夏だった。


「聖香! なんでエントリーしてないの! 勝ち逃げするつもり!」

しまった。千夏にも報告をしていなかった。


ただ、千夏の方は藍葉に比べれば随分とものわかりがよく、事情を説明するとすぐに納得してくれた。


「でもなんか気が抜けた! 聖香がいないんじゃ、他に張り合う相手もいないじゃない。それに聖香不在で県チャンピオンになるって、スッキリしないなあ!」

千夏はすでに優勝した気分でいるようだ。


まだ藍葉だっているし、もしかしたら凄い1年生もいるかも知れないのだが……。

なんとも大した自信だ……。

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