155区 ただいま3000m障害練習中

翌日の午前。明彩大のトラックで行われる練習は3つのグループに別れる。


1つ目は、記録会に出る人達の調整メニュー。2つ目は記録会に出ないメンバーが合宿の仕上げとして、距離走を実施。そして、3つ目は私だ。


私は木本さんと2人きりでの練習となっていた。木本さんが、パソコンでコピーしたのであろう紙を読みながら、3000m障害について説明してくれる。


昨晩部屋に泊らさせてもらったが、木本さんは忙しそうにパソコンを操作していた。なるほど、このためだったのか。


「まず3000m障害は、8レーンの外側に水濠がある場合、トラックは1周422・96mとなります。えっと……、つまりトラック7周と約40m走るわけね。その間に障害物を28回、水濠を7回飛ばなければなりません。その障害の高さは女子で76・2cm。これは女子の400mハードルの高さと一緒ね。で、水濠は長さ約3・6mとなります」


グランドの隅に座って私は真剣にその話を聞く。そもそも3000m障害は、県高校総体で男子が走ってるのを何度か見たことがあるだけだ。


それも、その時は自分が走ることになるとは思っていなかったので、そこまで真剣に見ていなかった。


それを昨日木本さんに話したら、動画まで準備してくれていた。

昨年の世界陸上女子3000m障害決勝だ。


「イメージは掴めるだろうけど、あまり参考にならないかもよ」

前置きをして、木本さんはノートPCの動画を再生する。


それを見て、木本さんの言わんとすることがすぐに分かった。世界のトップレベルになると、障害に脚を掛けずに飛び越して行くのだ。さらには水濠も思いっきり遠くへ飛び、水に脚がほとんど入っていない。


少なくとも、私にこんなすごいことは出来そうになかった。


「まずは障害の高さに慣れることね。と、言うわけで400mハードルの高さに合わせてみました」


一台のハードルが私の前に置かれる。そう言えば、高校になってからは体育でハードルを飛ぶこともなく、部活でも使用しないため、随分と久々にハードルを見た気がする。


「これが、3000m障害と同じ高さよ。実際に飛んでみて」

木本さんに言われ、後ろに下がり助走をつけて飛ぶ。


久々にしては綺麗に飛べたと自分では思った。木本さんはどう思ったのだろうか。気になって、飛び終わると同時に木本さんの顔を見る。


「へぇ。牧村監督が3000m障害にした理由が分かった気がする。随分器用に飛ぶのね。驚いた。じゃぁ、次は……」

木本さんがハードルの少し向こうに横線を引く。


「これが水濠の終わり、約3・6mのラインよ。もう一回、今度はなるべく遠くへ着地するように意識して飛んでみて。まぁ、実際は脚を掛けることになるから、今よりは楽だと思うけど」

私は言われたとおり、遠くに着地することを意識して、もう一度飛ぶ。


さっきよりは確かに遠くに飛べたが、これを毎周出来るかと言われると疑問が残ってしまう。


まぁ、そこは木本さんが言うとおり、障害に脚を置いて飛べば違うのだろうか。


「あ、それから障害が近づいて来たら、速度を落として脚を合わせるのではなく、加速して合わせることを心掛けてね。本音を言うと水濠以外はどちらの脚でも飛べるようになればベストなんだろうけど……。さすがに今回は無理ね。えっと、澤野は左利きだから、右脚で地面を蹴って、左脚を障害物に乗せるようになるわね」


私は言われたとおりに加速して、ハードルへと向かう。最初の2回は上手くいかなかったが、コツを覚えると案外簡単に出来た。


と言うよりは、似たようなことを昔やった記憶があるのだが……。

ただ、それが何かは思い出せない。


「それにしても木本さん、随分と詳しいんですね。とても助かります」

「まぁね。私も大学2年生の時に出ようとして、練習したことがあったからね」

さも当たり前のように喋る木本さんの一言に、私は思わず動きを止める。


それに木本さんも気づいたのだろう。私を見て苦笑いをしていた。


「誰も澤野に話してないのね。まったく……。みんな人が良いと言うか、気にしすぎと言うか。私ね、実は2年生の1月まで選手だったのよ。自分で言うのもなんだけどさ、これでもS級推薦で入って、1年生からレギュラーだったし、1年の全日本大学女子駅伝は1区で区間2位だったの。でも2年生の12月に内臓の病気を患ってね。それが原因でマネージャーに転向したの。って、澤野。なんでそんな泣きそうな顔するの。私はマネージャーの仕事に誇りをもってるし、楽しくやってるの。むしろ、こうして部に残らせてくれた牧村監督や、マネージャーになっても昔と変わらず接してくれるみんなに感謝してるわよ」


説明しながら笑う木本さんの姿を見る限り、心の底からそう思っているようだ。


その後も、木本さんにアドバイスをもらいながら、何度かハードリングの練習を続ける。



そして、その日はやって来た。

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