146区 夏合宿:地獄篇

合宿初日から永野先生は元気いっぱいだった。


「こら若宮、ちんたら走るな。お前だけ一本追加するぞ」

「澤野、もっと積極的に若宮を追え。覇気がないぞ」

「大和、湯川! 2人だけで競っても仕方ないんだよ。2人で競って前を追え。今競って前を追うことが駅伝へと繋がるんだからな」


合宿初日の練習メニューは1000mを8本。間を200mのジョグでつなぐ。今年の合宿は永野先生のやる気が違った。正直言って初日からすでに泣きそうだ。


「てか……、うちはあれを殴って良いのよね」

6本目が終わった時に、葵先輩が息を切らせながら、私の背後で機嫌の悪そうな声を上げる。


葵先輩の言う「あれ」が何を意味しているのか、聞かなくても分かる。


広島から合宿の応援に来てくれた久美子先輩が、トラックの外の木陰でアイスを食べているのだ。


確かに、昨年別れる時に冗談で「合宿の時はアイスを食べながら応援する」と宣言していた久美子先輩。まさか本当に実行するとは。


久美子先輩なりのユーモアなのかも知れないが、このままでは本当に葵先輩が殴りそうだ。


だが、その後の7・8本目でかなり追い込んだ葵先輩には、久美子先輩を殴る体力は残っていなかった。


どうにか無事に練習も終わり、宿泊所へ帰って来る。今年の合宿も昨年同様、学校の施設を使い、食事は永野先生と晴美、久美子先輩が準備と言う形だ。


「脚が……脚がパンパンです」

部屋に戻ると朋恵が泣きそうな声を上げていた。少しは走れるようになったとは言え、私達との差はまだまだ大きい朋恵。


「この合宿での那須川の目的は脚をしっかりと作ること。お前だって立派な部員なんだし、少しでも戦力になれるように頑張ろう」


永野先生の指示で、朋恵だけ私達とは別メニューで走り込みとなっていた。


今日は午前中が2時間ジョグ。午後がクロスカントリーで18キロ走だったらしい。


部屋に戻ってしばらくすると、勢いよくドアが開く。


「お待たせ! 御飯出来たよ」

晴美が元気な声で私達を迎えに来た。


みんなでそろって合掌をして御飯を食べ始める。


「みんな体力がついた」

「確かにそうだな。去年は、初日から食事ものどを通らないと言った感じだったがな」

久美子先輩の一言に永野先生が感心しながら頷く。


「今年は御飯が美味しい!」

「ちょっと待て湯川。その言い方だと、去年の御飯が美味しくないみたいじゃないか」

「違いますよ。昨年は味も分からないほど疲労してたのに、今年は美味しく食べられるってことですよ」


どうも永野先生は、料理の腕を妙に気にしている感じがする。しっかりと、美味しい御飯を作ってくれていると思うのだが。


「そうだぁ! くみちゃん先輩、なんで総体見に来てくれなかったんですかぁ~! わたし活躍したんですよぉ~」

口をとがらせ、不機嫌そうな声を出す紗耶。


「修学旅行」

久美子先輩は、紗耶とは対照的に相変わらずの返事を返す。


あれ? 久美子先輩は2年の10月に東京へ修学旅行に行ったたはずだ。

もしかして2回目なのだろうか。


「しかも今度は沖縄」

ブイサインを出して笑顔になる久美子先輩。なんと、広島の新しい高校は3年生の5月末が修学旅行だったらしい。こう言うこともあるんだなと、妙に感心してしまった。


「それにしても、晴美は料理上手よね。あ、紘子もそうか。それに久美子さんも料理の腕が上がってるし……うらやましい」


昨年の文化祭で、料理がまったく出来ないことを証明してしまった麻子がため息をつく。


「こら。もう1人大事な人が抜けてないか?」

「そうなんですよね。永野先生が料理が出来るってのが一番意外です」


「いや、お前は私にどんなイメージを持ってるんだ?」


「え? 掃除とかすごく苦手そうで、部屋がゴミだらけで、洗濯も3日に一回程度。食事も外食かコンビニで済ますような感じですかね?」

麻子の話を聞いて永野先生は笑顔を引きつらせる。


「ほら、あれですよぉ~。どちらかと言うとあやちゃん先生、体育会系ぽいですから……。家事が出来ないという勝手なイメージが先行するんですよぉ~」


必死に言葉を選びながら、紗耶が先生をフォローする。紗耶がフォローするなんてかなり珍しい光景だ。いつもなら、こう言うことは葵先輩の仕事なのだが……。そう思い先輩を見ると、食べることに一生懸命で話を聞いていなかった。


食事中の葵先輩を、いつもの先輩と思ってはいけないようだ。


「だいたい、イメージでいったら由香里なんて詐欺だぞ。あんなに胸がデカいくせして、家事は一切出来ないからな。旦那が今の人じゃなきゃ、とっくに捨てられてるぞ」


永野先生は笑いを取るつもりだったのだろうが、私達は笑うに笑えなかった。

いつのまにか先生の後ろに由香里さんが立っていたのだから。


「だ~れが捨てられるですって? いいのよ? 4年前、綾子が年下の彼氏に捨てられたのを、ばらしてあげても。それも、理由があんな恥ずかしいことだって……」


「いや、もうばらしてるじゃん。何しに来たのよ由香里」


「あれ? メール見てないんだ。どおりで。一応副顧問だし、仕事帰りにアイスを差し入れに来たのよ。でも、綾子の分は没収です」


由香里さんは、手に持っていたスーパーの袋から一個だけアイスを抜き取ると、永野先生の隣に座っていた紘子に渡す。


「あ、しろくま。ちょっと由香里? ごめん。由香里は胸も無駄に大きくて素敵です」

しどろもどろになりながら、永野先生が由香里さんのご機嫌を取ろうとするが……。


さすがいにそれはダメなのでは……。


「ぶー! それはフォローになってません。残念でした」

由香里さんはしろくまのカップを開け、紘子に渡した袋からスプーンを取り出し食べ始める。


「私のしろくまが!」

悲痛な声を上げる永野先生。いや、どれだけしろくま好きなんですか?


「大丈夫ですし、先生。袋の中にちゃんと人数分ありますから。しろくまももう一つ入ってますし」

紘子の言葉を聞いて由香里さんは大笑いする。


「まったく。由香里は最低だな」

永野先生が口をとがらせつつも、袋からアイスを取り出すが、

「綾子先生。アイスは御飯を全部食べてからですよ」

と葵先輩に怒られ、うな垂れていた。

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