144区 姉妹喧嘩の結末

「失礼します」

土曜の職員室はなんとも静かだった。


こんな時、隣に晴美がいてくれたら心強いのだが、今日は家の用事があるからとお休みだ。


「永野先生。部室の鍵を返しに来ました」

先生の机に近付くと永野先生は机に伏せていた。


「ああ、澤野か」

気だるそうに私を見る永野先生。


「ちょっと、大丈夫ですか?」

「平気。それにしても変な所を見せてしまったな」

「いえ、別に気にしてませんよ。姉妹喧嘩なんて私だって何度もしてますから」

笑顔で答えて私は部室の鍵を永野先生に渡す。


「恵那には困ったもんだよ。あきらかにあの子は私の後を追ってるからな」

苦笑いをして永野先生が独り言のようにつぶやく。


「いいじゃないですか。誰かの目標になれるって素敵だと思いますよ。現に先生の高校駅伝を見た時、私達もあんな走りがしたいって思いましたもん」


「いや、恵那の場合は人生自体が私の後を追っているんだよ。母親から聞いたんだ。あいつの夢は城華大附属で陸上部に入って、実業団で活躍することなんだと」


「随分具体的ですね。でも、目標が明確っていいと思いますよ」

「まぁ、そこまでは良いとしても、そのまま実業団を辞めて苦労するところまで真似されたくないんだよ」

永野先生は自虐的に笑って見せた。


「いえ、必ずしもそうなるとは限りませんから」


「でもそうなる可能性もあるだろう。だからこそ、勉強はしっかりとやって欲しいんだ。勉強をしてなかったせいで、私自身、大学に入るのに苦労したし。だから恵那が陸上クラブに入ると言い出した時に、親に言ったんだ。学習塾にも入れて勉強もしっかりやらせておかないと私みたいになるって」


「そう言うこと、恵那ちゃんにきちんと話されました?」

「いや。言う必要もないだろ。まずは勉強をしっかりとしておけばそれで良いんだし」


「それ、永野先生の勘違いですよ。きちんと説明しないと絶対に伝わりませんよ」

一瞬、永野先生にものすごい形相で睨まれた。


それでも、私は言わななければならないと思った。


「私がそうでしたから。入部する時ちょっとだけ話題になりましたが、私が数々の高校の推薦を断った理由って話したことなかったですね。父から高校で走ることを反対されてたんです。陸上は中学まで。高校に入ったら勉強に専念するようにと」


私の話を聞き、永野先生の表情が驚きに変わっていく。


「当時の私には絶望しかなかったですよ。よりにもよって、城華大附属から推薦をもらったと報告したら、その言葉が返って来たんですから」


わざとらしく私は笑って続きを話す。


「何度も話し合ったけど、結局ダメでした。だから他に来ていた推薦もすべて断って桂水に来たんです。でも、当時の私には夢も希望もなかったですよ。駅伝部を見つけた時、やっぱり走りたいと思って、生まれて初めて父に口答えしたんです。その後で、父の気持ちを知りました。決して父も頭ごなしに部活を反対していたのではなく、私の将来を考えてのことだと知りましたけど……。結局、思いは言葉にして一から説明しないと伝わらないんだと思います」


私が話終わると永野先生はため息をつく。


「それに先生もそうだったみたいですけど、人間目標がないと勉強なんてしませんよ。私も最近ですよ。やりたいことがあって、そのために勉強しようって思ったのは」

私が笑顔で付け加えると永野先生も噴き出した。


「確かにそれはあるかもな。どうも歳をとって勉強のことになると、上から押しつけるようになっていかんな」


「まさに私の父がそうでしたからね。てか、よく考えたら、恵那ちゃんほっといて良いんですか?」


「ああ、それは大丈夫。大和から連絡来てるから。あいつは本当に面倒見が良いな」

私もそれに同意を示すように、何度も頷いてしまう。


「ところで澤野。やりたいことがあると言うが、それは陸上人生が終わってからやるのか? それとも、今度は自分の意志で推薦を断ってその道へ進むのか?」


「いえ、何を言ってるんですか? 私に陸上の推薦が来るわけないでしょ?」

私は笑いながら答えるのだが、永野先生は目を丸くしていた。


「お前それ本気で思ってるのか? 自分のことを客観的に見てなさすぎだろ」

永野先生が腕を組んでなにやら考え始める。いや。逆に聞きたい。都大路に出場して上位になったならいざ知らず、今の私の成績だけで大学や実業団から推薦が来るのかと。


「よし分かった。その点については、すぐに分かりやすい方法で説明してやろう」

永野先生が言い終わるのとほぼ同時に、職員室の入り口が開く。葵先輩と恵那ちゃんが入って来た。


「あら、聖香。どうしたの?」

「いえ、ちょっと永野先生に説教してただけです」

「そうなの? うちが今からしょうと思ってたんだけど。じゃぁ、いいか。はい、恵那ちゃん。さっき話したことをちゃんとお姉ちゃんに言うのよ」


葵先輩が恵那ちゃんの背後から、ポンと両肩を叩く。永野先生は葵先輩に何か言いたそうな顔をしていた。


「じゃぁ、永野先生。私が教えたことをきちんと説明してくださいね」

葵先輩の真似をして永野先生に冗談を言い、葵先輩と職員室を出る。


「葵先輩、恵那ちゃんになんてアドバイスをしたんですか?」


「簡単にまとめると、自分がどれだけ走るのが好きで、どれだけ綾子先生に憧れてるかを話してごらんって。てか聖香は先生に何を教えたの?」


「気持ちは言葉にしないと伝わりませんよって。あと、勉強は押し付けてもやる気にはなりません。それだけです」


「随分核心を付いてるわね」

葵先輩が私を見て笑う。


2人でそのまま自転車置き場まで来た時、葵先輩が「あ、そうだ」と私を見る。


「聖香。加奈子先輩覚えてる? 昨年まで城華大附属にいた」

もちろんだ。昨年1区であれだけ争ったんだ。忘れるわけがない。


そういえば宮本さんは今年から大学生か。


「加奈子先輩、城華大辞めたらしいわよ。いや、正確には入学を断ったと言った方がいいのかしらね。中学の時同じ陸上部だった子が、駅前の丸木文具店で働いてるのを偶然見かけて、本人から話を聞いたんだって」


にわかには信じられなかった。県高校駅伝の時は、大学でも続けると宣言していたし、都大路でも良い走りをしていた。それがなぜ突然入学を断ったのだろうか? もしかして、故障したのだろうか。いや、そうだとしても4年間あるのだ。時間をかけて治せば……。


「うちも加奈子先輩から直接話を聞いてみたいし、一緒に行ってみる?」

私は「もちろん行きます」と頷き、2人で帰り道に少しだけ寄り道をすることにした。

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