84区 スタート

「まもなくスタート3分前です」

係員の声が遠くから聞こえて来る。


私は目を閉じて、ゆっくりと呼吸を吐きだし、吐き終わると目を開ける。


気持ちはしっかりと落ち着いている。


早朝もそうだったし、今アップをやっても、体はずいぶんと軽かった。

大丈夫、今日の私は絶対に良い走りが出来る。


自分にそう言い聞かせ、ベンチコートを脱ぐと、付添いの晴美にそのまま渡す。


「聖香、頑張ってね。しっかりと応援してるから」

笑顔で呼び掛けてくる晴美に、同じように私も笑顔で頷く。


ゆっくりと歩きながら、スタート地点へと向かう。すでに多くの選手が集まっており、色とりどりのユニホームを見ることができた。


その中でもとりわけ目立つ、上下蛍光オレンジのユニホーム。城華大附属の宮本さんだ。私は横を通る時に、軽く会釈だけする。宮本さんはちらっと私を見て、すぐに視線を元に戻した。


周りにいる選手全員が今から戦う相手だ。そのせいか、誰も喋ろうとする人はいない。それが余計にスタート前の緊張感を増幅させる。


県駅伝はスタート位置がナンバー順となっている。今年は35チーム出場で、横9人が全部で4列。もちろん城華大附属は先頭の列で、私は一番後ろの列だ。一番後ろに並び、前を見ると、蛍光オレンジのユニホームが随分遠くにあるように感じた。


「スタート1分前」

係員が拡声器で残り時間を告げる。私を含めた35人の選手はすでにスタートラインのやや後方に整列を完了している。


いくら緊張していないとは言え、このスタート前だけは話が別だ。私は左肩から掛けているタスキをギュッと握る。


このタスキをみんなに届ける。私がやるべきことはそれだけ。


タスキを握ったまま、心のなかでそうつぶやく。不思議とやるべきことを自覚すると、心も随分と落ち着いて来た。


「スタート30秒前」

短く息を吐き、気合いを入れる。


「スタート10秒前」

その言葉と同時に、私を含め一区の走者全員が数歩進み、スタート位置に着く。


会場全体が静寂に包まれ、空気の流れすら止まっているように感じられる。


そしてまた空気を流し始めるようにピストルの音が鳴り、私達は一斉に前へと進みだす。

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