39区 永野綾子の過去から今
確かに普段の言動や練習メニューから、なんとなく陸上経験者であるだろうとは予測していた。だが、ここまでの選手だったとは全くの予想外だ。
「あの。この時のインターハイの成績ってどうだんですか?」
「ああ。2位だ。ちなみに1位は今年の世界陸上マラソン代表の水上だ。ちなみに高校を卒業してから私も水上も同じ実業団に入ってな。練習ではよく競り合ったもんだ」
「え? 実業団?」
私の口から思わず言葉が漏れる。
なのに今は桂水高校で教員。
いったい先生の過去に何があったというのだ。
「順を追って説明した方が早そうだな」
永野先生の一言に全員が大きく頷く。
「私が陸上を始めたのは中学の時だ。中学は県で4位が最高だったんだが、阿部監督が誘ってくれてな。迷わず城華大附属に入ったよ。私が入ったころは、駅伝での全国制覇を目標として掲げててな。本当に毎日走ってばかりだった。レベルも高かったしな。でもそのおかげで、がむしゃらに練習していたらいつのまにか個人ではインターハイ2位になれるまで成長していた。駅伝も苦難はあったが、私が3年の時には念願の全国制覇も出来たし。ほら、これが証拠」
永野先生が広げたファイルには陸上雑誌の記事がファイルしてあった。
両手を上げてゴールテープを切る永野先生の姿がカラーで写っていた。
そのユニホームは今と変わらない蛍光オレンジの姿だった。
「私の陸上人生は事実上ここまでだったけどな」
ファイルを見ていた私達はその言葉を聞いて一斉に顔を上げる。
「いや、そんなに反応するなよ。高校の時に無理しすぎたのかも知れないが……。実業団に入ってから腰を壊したんだよ。それでも騙し騙し走ってたけど、結局いい結果が出なくて。9年前に事実上の解雇だ。当時はショックでな。辞めて山口に戻って来て、阿部監督のところにふらっと行ったら、『あなたはキャプテンとして面倒見も良かったし、教師が向いてそうですよ? 監督として都大路をもう一回目指してみてはどうですか?』って言われてさ。なぜかものすごくやる気が出たんだ」
何かを思い出したのか、永野先生はふっと笑っていた。
「でも、高校時代走ってばっかりだったから、大学に受かるまで3年もかかったがな。学費が安いからと、国立の教育学部に行こうとしたせいもあるんだが。まぁ、おかげで3年間のバイト代と実業団時代の貯金、それに奨学金で大学の学費を全て払えたがな。そして大学に入ってからはもう完全に普通の学生。陸上部とかにも入らなかったし、友達と飲み会やってバイトして、試験の前には慌てて勉強して。教員採用試験はどうにか一発で合格。そして、昨年から高校教師として桂水高校に赴任、現在にいたるというわけだ」
話終わると、永野先生は大きく息を吐く。
「え? 綾子先生って、まだ教員2年目なんですか」
「そうだぞ。なんだ? 大和知らなかったのか? 確かお前と北原が生物研究会に入った時に話したと思うが?」
久美子先輩も、手のひらサイズのパソコンのキーボードをタイプしていた手を止め、聞いてないと言わんばかりに首を横に降る。
「まぁ、いいや。というわけで、私の話は終わりだ。明日も早いんだしもう寝ろ。と言っても明日は楽しい午後練が待ってるがな」
その一言に私以外のメンバーは目を輝かせていた。
合宿中日の午後。私はプールサイドに座り、膝から下を水に浸けながらため息をついていた。
眼の前では、他の駅伝部員がまさに水を得た魚のようにプールではしゃいでいる。それを見ていると、彼女たちは水中生物なのかもしれないと本気で思ってしまう。
どう言う風の吹き回しか、合宿の練習メニューには最初からこのプールの時間が割り振られていた。それもわざわざ永野先生が水泳部の顧問に頼んで、この時間を空けてもらったらしい。
「聖香、早くおいでよ」
私が泳げないどころか、水に浮くことすら出来ないことを知っているはずの晴美が、笑顔で手を振って来る。
プールのせいで、晴美もテンションが上がりまくっているのだろう。一応私も学校指定の水着を着ているが、とても入る気にはなれなかった。中学校までのプールだとふちが一段高くなっており、そこに座ればお風呂に入るように肩まで浸かれたのだが、高校のプールにはそれがなく、泳げず浮けない私は立って入るのも面倒くさく思えてしまう。
「なんだ? 澤野は入らないのか」
「入りたくても泳げないし浮けないんです」
「別に立ってれば良いじゃないか」
私の真後ろから永野先生が声をかけて来る。
返事をした後で振り返り唖然とした。
ライトグリーンのブラとパレオに着替えた永野先生が、私の後ろに立っていたのだ。
「あの……。まさかとは思いますが……。入る気ですか?」
「当たり前だろ。そのためにわざわざ水泳部顧問の中島先生にお願いしたんだ。澤野。民間プールの入場料って、結構バカに出来ない値段を取られるんだぞ。それをタダで利用できるチャンスを生かさない手はないだろ」
私はあきれてなにも言えなかった。
つまり、永野先生がプールに入りたいがために、この予定は組まれていたのだ。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、永野先生は軽く体操をして、あっと言う間にプールに入ってしまった。
「プール最高!」
その声でようやく他の部員は永野先生に気付いたようだ。
一瞬戸惑いながらも、すぐにみんな笑顔になる。
なんだかこの状況だと、入らない自分の方が悪者と言う空気さえあるのだが……。
「せいちゃん。早くおいでよぉ~」
「そうだぞ、澤野。アイシングだと思って入っとけ」
「聖香。思い出はみんなで作った方が楽しいわよ」
まったく。みんなこういう時だけ積極的と言うか、団結心が強いと言うか。これ以上は断り切れない雰囲気だ。私はあきらめてしぶしぶプールに入る。
身長162cmの私ですら、脚がつくとなんとか肩が水面に出るくらいの深さだ。私より背の低い麻子と晴美にとってギリギリ顔が出るのみ。一番小さい紗耶にいたっては、水面からは口元から上しか出ていない。
だが、そんなことお構いなしに全員がはしゃいでいる。嫌々入ったプールだったが、確かに水は冷たくて気持ちよかった。
「さぁ、遊ぶわよ」
葵先輩が私の手を引っ張って行くが、泳げない私は一瞬溺れそうになる。
それでも永野先生を含め、7人全員が時間も忘れてプールで遊び、この日の午後は終了となった。ちなみに私達の誰よりも永野先生が楽しんでいたのは言うまでもない。
私は遊ぶと言うより、浸かっていたと言う表現が正しかったが……。
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