第70話 俺、ド緊張する

 昼食を採ることをメインとしたお昼休み45分は、あっという間に過ぎ去り、俺は入場門に並んでいた。昂る胸は、休むことなく高速ビートを奏でる。

 はぁ。すっげえ、怖ぇ。


 高鳴るビートの裏腹に、脳裏に予行演習の事が思い出される。

 隣で黙々と歩き、入場する五郎丸を抜こうとした刹那に地面とごっつんこ。

 あんなことは──もう2度と起こさねぇ。

 俺は歩いているのと変わらない駆け足をしながら、決意を固める。


「フッ。顔がかたいぞ」

 五郎丸から不意に言葉が投げつけられる。俺は鼻で笑って、それをひらりと交わす。

「余裕ですよ」

「コケるなよ」

「っ……。分かってるよ」

 片方の口端を釣り上げ、不敵に笑う。

「喋ってないで、コケないでよ」

 たしなめるように志々目さんが前から声をかけてくる。

「わーたるって」

 俺が嘆息気味に返すと、志々目さんはクスッと笑う。

「頼むわよ」

 振り向き、小さくウインクをする。

 ──似合わねぇ。

 体中から発される体育会系オーラが、色気も何もかもを吹き飛ばしているために、可愛らしい仕草が似合わない。

 普通にガッツポーズとかしてた方が似合うよな……。

 そんなことを思いながら、肩を竦める。

 そして視線を落とし、半ズボンの体操ズボンから伸びる脚を見詰め、頼むぞ、と心に呟いた。


 入場は終わった。横に並ぶ対戦相手たちの顔は、真剣に満ちており、外野から浴びせられる視線も強い。

 伊達に体育祭の花形と言われてないな。

 騎馬戦のような激しい歓声はない。逆に静寂が包んでいる。しかし、強い興奮が満ちている。

「や、やべぇーな」

 冷や汗が背中を撫でるように、ゆっくりと流れ落ちていく。

「お前でも感じたか?」

 緊張を滲み出した顔で告げる五郎丸に、俺はこくん、と頷く。


 そんなことを話しているうちにクラスの紹介がされ、スターターピストルが撃ち放たれた。

「始まった……」

 自分でも驚くほどに掠れ、割れた声である。

 パサパサに渇いた喉を癒すがために生唾を呑む。

 第一走者である竹島優梨たけしま-ゆりは、強く握ったバトンを右手に疾走する。

 蹴られる大地からは砂塵が巻き上がり、美しい、と言える程よい筋肉のついた脚が1歩2歩と前へ出される。

「やっぱり早いね……」

 前に座る志々目さんが、口を引き締めている。

「だな」

 唇が渇いて、皮が剥がれかけているのが舌先で触れたことにより理解する。

 心臓がバクバクして止まらない。

 走っている人たちは止まることはなく、ドンドンと次の走者、夏穂へと近づく。

「心配だ」

 思わず声が洩れる。

「私もだよ」

 志々目さんは苦笑で告げる。


 優梨はもちろん暫定1位で夏穂へバトンを渡した。

 左手で受け取ったバトンを右手に持ち替え、駆け始める夏穂。

「うわっ、やっぱりおせぇーな」

 先ほどの完璧、と言っても過言ではない優梨の走りを見たあとでは不格好な走り。

 だからやっぱり──遅い。

 後ろから攻めてくる薄赤色の体操服に身を包む男子。スポーツ刈りで清潔感のある男子生徒は、優梨ほどではないが綺麗な走りで夏穂に詰め寄る。

 たゆんたゆん、と揺れる夏穂の胸を見ないようにしながら俺は胸に手を当てる。

 ──頼む。頑張ってくれ……

 夏穂の表情は本気だ。しかし、薄赤色の体操服──1年生の男子生徒に抜かれてしまい、2位になってしまう。

 だが、まだトラックは半周近く残っている。

 息をつく間もなく、深緑色の体操服に身を包む女子生徒が整った走りをみせながら、夏穂に迫る。

「誰だよ、あれ!」

「知らないの!?」

 志々目さんが頓狂な声をあげ、隣から野太い声が届いた。

「俺らのクラスだ。上鷺望美かみさぎ-みみだ」

 上鷺……? 全然知らねぇーな。

「何キョトンとしてるの? 去年の陸部のエースだよ」

「はあぁぁぁぁ!?」

 驚愕の事実だぜ。

「まぁ、そんなに驚くなよ」

 不敵に、不遜に笑う五郎丸に俺は妬ましい視線を送る。

 すると五郎丸は小さく肩を竦める。

「今のエースは竹島だってのに……」

 そんなことを聞いていない俺は頭を抱え、3位まで転落した夏穂に心配の目を向ける。

 コーナーを曲がり、残りはバトンタッチの場所までの一直線。

 3位になった夏穂の真後ろには、深緑色の体操服に身を包んだ男子が詰め寄っていた。

 モミアゲを刈り上げ、上を残した世に言うモヒカンという髪型の男子は、そのモヒカンをふさふさと揺らしながら夏穂と平行になる。

「夏穂……」

 その場でポツリと零す。

 想いを伝えるなら言葉にしなければならない。それは分かってるのだが、俺は恥ずかしさが勝ってつぶやくことしか出来なかった。

 そうこうしているうちに夏穂は抜かれ、4位に転落する。

 そしてようやくバトンタッチだ。


 前にいた志々目さんは、慣れた手つきで左手にバトンを受ける。

 そして20メートルのテイクオーバーゾーンをまっすぐ走り抜ける間に、右手にバトンを持ち替える。

 優梨と比べると誰もが劣って見える。それでも、志々目さんのは綺麗と感じた。

 女子の中では高身長である志々目さんの1歩のコンパスは、広く先ほど抜かれたばかりのクラスとの幅を縮めていく。

 優梨の時のような勢いあまる砂塵は巻き上がらないが、穏やかだがしたたかに砂塵が舞う。

 そして暫定2位である薄赤色の体操服に身を包む1年生女子の真後ろまで迫った。

 ほんのりと日焼けした肌に、南の空から容赦なく照りつけてくる陽光を浴びてきらめく黒髪。そして後ろに結った髪をゆらゆらと揺らしている。

 その背からは必死、という文字が浮かび上がってきているかのように感じられる。

 だが、それよりも遥かに強い意思を放つ背中の志々目さんは、あっさりと1年女子を抜き、残すは深緑色の体操服に身を包む五郎丸のクラスのみで、距離は4分の1となった。


 早まる鼓動がより一層に早くなる。バク、バクがバクバクバク、バクバクバクって感じだ。

 あぁ、お腹がいてぇ。

 俺は緊張のあまりに、締め付けられるように痛くなったお腹を擦る。

 刹那、五郎丸が口角を釣り上げる。

「緊張してんのか?」

「うるさいです」

 本当はうるせぇ、と言ってやりたいのだがガチガチの体育会系の五郎丸にそんなことを言うとあとが怖い。

「まぁ、安心しろ。この盛り上がりで緊張しない奴のがおかしい」

 トラックの内側から2番目のテイクオーバーゾーンに呼ばれる俺に、1番内側に入っている五郎丸が告げる。

 ちょうど、志々目さんが最後のコーナーから直線にシフトするところで、五郎丸のクラスの第3走者の背を捉えたところだ。

 それを見た各クラステントは、割れんばかりの大歓声が上がっている。

 そしてこれは──予行演習の時のシュチュエーションと全く同じだということも相まっている。

 立ち上がり日本語かどうかも確かではない言葉を叫ぶ者。口笛や指笛を鳴らす者。はたまた俺たちのリレーを息を飲んで見守っている者など。

 見方はそれぞれであっても、今日一番で盛り上がっているのは確かであった。



「さぁ、ラストバトルだ」

 ほんの僅かな差で五郎丸が先にバトンを受けた。

「ごめんっ!」

 志々目さんがそう声をあげながら、俺の左手にバトンを渡す。

 追いつけなかった、という言葉がバトン越しに伝わって来たような気がする。

 任せろ。

 背中でそう伝える。

 伝わるかどうかは分からない。でも、今の俺にできる精一杯だった。

 振り返ることはなく、全身全霊で駆け抜ける。肌に感じる風は、異様に冷たく鋭利な刃物で切りつけられているようだ。

 大地を蹴る足裏に触る小石すら近くに感じ、目の前にある五郎丸の背が永遠の果てにあり、触れることが出来ないと思えてくる。


 何なんだよ。ドンドンと離れていく五郎丸の背に嫌気がさす。

 どれほど歩を進めても届かなく、後ろから追い上げてくる足音が妙に大きく聞こえる。

 やばい。抜かれるのか。

 不安が心を蝕んで、脚が鉛のように重たい。

 やばい……。

 頭の中にはそれしか浮かんでこない。

 そうこうしているうちに半周を走ろうとしており、クラステントの前を横切っている。しかし、聞こえるはずの声援が全くもって聞こえない。

 聞こえるのはほとんど真後ろにいる足音だけ。

 抜かれる。俺は……だめだ。

 刹那に真横に影が並び、直後にはその影は前を行っていた。

 何でだ……。

 頭がよく働く。

「将兄ッ!!」

 ──瞬間

 聞こえなかった声が届いた。その声はよく聞いた声で、心の中にあたたかに染み込んでくる。

「さっさと走って、1位になれっ!!」

 ハッキリと聞こえた。イリーナの声だ。


 母さんの葬式にも顔を出さなかったクソみたいな父親が、勝手に再婚して出来た義妹。

 最初は何とも思わなかった相手だった。だけど、一緒に暮らしているうちに大事だと思う様になっていた。

 情が移ったと言われればそうなのかもしれない。

 でも。俺は──


 脚が急激に軽くなった。鉛がバリバリと音を立てて剥がれ落ちたような気がする。

 そして瞬間に周りの音が耳に入り、大地を蹴る力が強くなる。

 風と同化するかの如く速さになり、先ほど抜かれたばかりの、薄赤色の体操服を着込む小麦色の肌の男子生徒を颯爽と抜き去る。

「うおおおお!」

「頑張れやァァァ!」

 テントからは様々な声が上がる。それが聞こえたことによる安堵が、俺の口角を緩める。

 周りからは微妙に微笑んでいるように見えるのだろうか。

 自分の顔は鏡を見ないと分からないので、ハッキリとは分からない。

 でも……、いまは楽しいって感じられてる。


 最終コーナーを曲がったところで、五郎丸の背に追いつく。

「はぁ……、はぁー。流石に速いな」

 荒ぶる息で五郎丸が話しかけてくる。

 やっぱり、手抜いてたな。

 何となく感じていたが、話しかけられたことでそれが確信へと変わる。

 先輩ではあるが、話す余裕もない。俺は、ここからは全力勝負ですよ、という意を込め、小さく鼻で笑う。

 その意図を理解したのか否かは分からないが、五郎丸は悪戯に口角を釣り上げる。


 一層の力を込めた脚についた筋肉が引き締まり、まるでスタートのような加速を見せる五郎丸。

 対して俺は、全力で走ってきたのでそのペースを保持する。

 俺が1歩進めば、五郎丸が1歩進む。文字通り、一進一退である。

 その間にゴールはドンドンと近づく。

 このままでは勝てない。

 不安が過ぎる。

「負けんなー!」

 また声がした。空耳でも何でもない。イリーナの肉声が俺の耳をつんざく。

 多分この場にいる誰よりも一緒の時を過ごしている。だからこそ分かる。今ごろ顔を真っ赤にしているだろう事くらい。

 その顔が脳裏に過ぎり、笑みが零れそうになるのを抑える。

 そして──

「うおおおおおおおお」

 全身全霊の咆哮をあげた。



「やっぱりコケるんだね」

 ゴールの少し後方。俺はそこに顔面からコケていた。

 でもいいんだ。今回はゴールしてからだし、なにより──

「勝ったんだ、俺たちは」

 仰向けに直り、黄昏るように秋の高い空をぼーっと見つめ、呆然とつぶやく。

「そうだね。流石だよ」

 そんな俺に夏穂は、優しく微笑み手を差し伸べた。

 差し伸べられた手を軽く握り、ほとんど自分の力で立ち上がる。

「完敗だ」

 そこに悔しさなどなく、サッパリとした表情の五郎丸が腰に手を当て告げた。

「そんなことないです」

 俺は小さくかぶりを振る。最後の直線は真剣勝負だったかもしれない。しかし、それまでは手を抜いていたように感じたからだ。

 それを告げようと口を開けた俺に、五郎丸は大きく咳払いをする。

 言うな、って事だろうか。

「負けは負けだ。お前は凄いやつだ」

 ちょんと肩に手を乗せてから、五郎丸は列へと戻った。

「カッケーな」

 その姿に思わずそう零していた。

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