シーン4 少年忍者の暗闘と決闘の結末

――いくらなんでも、空を飛べるわけでもなければ、時空を超えて瞬間移動ができるわけでもない。

 どこぞの洋画のように、壁を蜘蛛のように滑って降りられるわけでもない。

 瑞希の隙を突いてその場を去った玉三郎。

 塔屋(校舎から屋上に突き出た箱状の部屋)に音もなく入って、鉄の扉を音もなく閉めた。

 足音を殺して階段を下りようとすると、同じくらい静かに上がってくる影がある。

 踊り場で玉三郎に気づいて微笑んでみせる、伸びやかな体をした黒髪の少女。

 葛城亜矢であった。

「お疲れ様です、先輩」

 立ち止まって、その行く手を阻む。

「通してくれないかな、急ぐんだけど」

 そう言いながら、亜矢はゆっくりと階段の真ん中を上ってくる。

「他を当たってください」

 それは丁寧だったが、しかし冷ややかな、玉三郎からの警告だった。

 扉の擦りガラスから洩れる日の光を背にして、亜矢を見下ろす。

 亜矢は止まらない。

「女に手は上げたくないんだけど」

 間合いが詰まる。

「足は別!」

 言うなり、玉三郎の脚が横薙ぎに一閃した。

 その線上にあった亜矢の端正な顔が、一瞬にして消える。

 亜矢は宙に浮いていた。

 しなやかな脚で玉三郎の顔面を撃ち抜く。

 だが、それは残像だった。

 階段のてっぺんに降り立つ亜矢を、階段の踊り場から玉三郎が見上げていた。

「顔はやめろよな」

「人のこと言えないでしょう?」

 亜矢は軽やかに床を蹴った。手に持った鍼が玉三郎に迫る。

 玉三郎は紙一重の差でかわして背後に回る。今度はその鍼が横から亜矢の首筋を襲った。

 垂直に降る銀色の光を残して、その姿が消える。

 それでも薙ぎ払う鍼は、亜矢の肩をかすめたかに見えた。

 だが、時すでに遅し。

 玉三郎は背中から羽交い絞めにされていた。

「胸の感触で色仕掛けか? 迦哩衆の女」

 鼻で笑う玉三郎の耳元で、甘い声が囁く。

「それは10年待つのね、坊や」

 待ってられるか、と嘲笑う玉三郎は、亜矢のしなやかな腕をすり抜けようとして「あれ」とつぶやいた。

 がっくりと垂直に倒れる玉三郎の上体を、亜矢が抱き留める。

 華奢な身体には少し重いかと思われる少年を、「やれやれ」と背中におぶった。

 黒髪の美少女は、ガニ股気味に腰を落とし、えっちらおっちらと階段を再び上り始める――。

 

 無謀な挑戦だったわね、と吹き出す亜矢に、瑞希はこめかみをぽりぽり掻く。

「面倒みなくちゃなんないバカがまた一人増えたわけね」

 亜矢はフェンスにもたれ、チャクラムを指先でくるくる回して弄ぶ。

「そのおバカさんって、もしかして、この?」

 玉三郎が口を挟む。

「お前に言われたくないな、その名前」

 口が減らないわね、と亜矢は苦笑した。

「全身麻痺のツボに針刺したはずなんだけど……君、確か中等部の白堂玉三郎君ね」

「獣志郎だ」

 首だけ持ち上げての抗議には知らん顔して、「玉三郎君よね」と確認する亜矢。

 瑞希は答えず、代わりに尋ねた。

「兄貴をどうするつもり?」

 亜矢は口元を押さえて、くすっと笑った。

「分かってるでしょう? 私が迦哩衆だって知ってるんなら」

「瑞希、肩の力抜いてやれ!」

 玉三郎が叫ぶまでもなかった。

 瑞希の手から、細く編まれた鎖が伸びる。

 まっすぐ飛んだ先端の分銅を、細身のトレパンの脚が低く跳んでかわした。

 放たれたチャクラムが瑞希の耳元をかすめ、急に垂直にホップしたかと思うと、脳天めがけて降ってきた。

 流星錘の鎖が引き戻され、瑞希の手元で回転する。分銅が下から上へ弧を描き、チャクラムを弾き返した。

 それを再び指2本で受け止めた亜矢は、瑞希の眼前に降り立った。

 背の低い相手が放つアッパーカットを、一歩退いてかわす。

「それが『おう』の型ね。次は?」

 腹に向かって繰り出される拳の連打を、巧みにすり抜ける。

「なるほど、『こう』の型か。それで?」

 揃えた両の掌が胸の辺りに押し出されると、後ろへ軽く飛んで衝撃を逃がす。

「女同士でセクハラ? 内臓に来る『おう』の型ね。」

 ものも言わず、音もなく踏み込む瑞希をからかう。

「明るいところでは意味がないんじゃない? 『かつ』の型は」

 力いっぱいの踏み込みと共に、横薙ぎの手刀が亜矢を襲う。

 亜矢は身体をさばいてかわす。

「いい『ざん』の型ね。まだ来る?」

 さらに踏み込んだ瑞希が、まっすぐ伸ばした背中を叩きつける。

 亜矢はくるりと回って逃れた。

「たいしたパワーね。『だん』の型でしょう?」

 瑞希は亜矢の腋の下に潜り、腕を掴んで頭上で捩じ上げる。

 だが、チャクラムを指で挟んだ手はびくともしない。

「これが『れい』の型? でも」

 亜矢の腕は、小さな手からすぽんと抜けた。

「甘い!」

 蹴り上げられたトレパンのしなやかな脚が、鞭のようにしなう。

 今度は瑞希が吹き飛ばされた。

 だが、無様に転倒したりはしない。

 制服のスカートがふわりと舞い、爪先が軽いステップを踏む。

 亜矢はふっ、と笑った。

「その型が『ひょう』? それなら」

 着地の瞬間を逃さず、指で挟んだチャクラムを顔面めがけて振り下ろす。

 瑞希は後ろへ、美しい弧を描いて宙返りする。

 亜矢の腕が届かない、ぎりぎりの間合いである。

「なるほど、それが『間殺まさい』……だけど!」

 チャクラムは飛び道具である。間合いは意味がない。

 しかし、瑞希の狙いはそこではなかった。

「いいの?」

 上目遣いでニヤリと笑う下級生に、サイドスローの体勢でチャクラムを構える手が止まった。

 大正期の美人画のような眉をひそめる。

その冷たく殺気を放つまなざしに声を震わせて、瑞希は告げた。

「その気になれば、見えるんだけど」

「え?」

 戸惑う亜矢に答えたのは、凍てつく瞳に立ちすくむ瑞希ではなく、倒れたままの玉三郎だった。

「わざと捕まってやったのさ」

 負け惜しみを、とでもいうような亜矢の一瞥など知らぬげに、玉三郎の自慢は続く。

「逃げようと思えば逃げられたけど、何しに来たかは察しがついたからね……」

「おだまりなさい!」

 一喝されるのとほぼ同時に、玉三郎は淡々とつぶやいた。

「捕まる瞬間にこれやらなかったら、あんな鍼にかかることなんかなかったさ」


 ――かすめた鍼は、かわされたわけではなかった。

 もともと、鳩摩羅衆は自分から人を傷つけたりはしない。

 だが、必ず目的は遂げる。

 セコく見当外れのことをしているようでも、常に二手三手先を読んでいる。

 さらに、鳩摩羅衆は手先が器用である。

 どうしても食っていけないときは、細かい内職をして細かい日銭を稼いで食いつなぐ。

 だが、一瞬の間にこなす技の速さは、どんな相手にも後れを取ることはない。

 吉祥蓮にも。

 そして、迦哩衆にも――。


 亜矢の肩で、タンクトップの縫い目がはらりとほつれる。

 その瞬間、瑞希の甲高い笑い声が屋上の固いコンクリートを叩いて響き渡った。

 放課後に帰宅を急ぐ、あるいは部活に補習に励む学園生徒すべての視線を集めかねないほど高らかに。

 抑えに抑えていた、勝利の笑いであった。

 亜矢は、しばし、その場に立ち尽くした。

 だが、年頃の娘が、露わになった自らの肩やブラのストラップや胸元辺りに気づかないわけがない。

 あちこちにきょろきょろと目をやったかと思うと、すぐに両腕で体を覆って力なくしゃがみ込んだ。

 どうやら、「肩の力を抜く」のは瑞希ではなく、亜矢だったらしい。

 玉三郎は、安堵のため息をつく。

「あれだけでよく分かったな」

「あたしにリラックスしろなんて、あんたらしくないじゃない?」

 瑞希は面白くもなさそうに答え、懐から鍼を抜いて亜矢につきつける。

 首をすくめて背中を丸め、起き上がることもかなわぬ相手に玉三郎が嘲笑を浴びせる。

「心配すんな、自分が思ってるほど、人は見てないもんさ」

 瑞希も小柄な体でささやかながら胸を張り、うずくまる亜矢を見下ろして言った。

「ここで待ってあげるわ、暗くなるの。夏は日が長いけど」

 だが、はかない勝利宣言だった。

 思わぬ闖入者が形勢を逆転してしまったのである。

「先輩? 葛城先輩?」

 あのバカ兄貴、の声を残して、瑞希の姿はその場から消えた。

 その気になれば千里の彼方まで逃げられるのが飛燕九天直覇流奇門遁甲殺到法なのだが、敢えて潜んだのは玉三郎が転がっている屋上の死角だった。

 玉三郎の体に覆いかぶさると、やがて二人がそこにいてもいないかのような空気が辺りを支配する。

 流派など関係ない。気配を消すのは、忍術のイロハであった。

 代わりに非常階段の鉄扉を開けて現れたのは、冬彦である。

「もうここくらいしかないんだけど……」

 いないな、と一人合点して足元を見た冬彦は、その場に硬直した。

 無理もない。

 憧れのセンパイがあられもない姿で目を潤ませてうずくまっている姿を見せられては……。

 冬彦はおろおろと辺りを見渡して、やがて肘を袖にひっかけながら難儀して脱いだカッターシャツを亜矢の肩にかけてやる。

 亜矢は震えながら屋上の角へと目をやる。冬彦が恐る恐る眺めた先には、もちろん誰もいはしない。

 とっくの昔に瑞希は自分の鍼で玉三郎の金縛りを解き、二人して姿をくらましていた。

 亜矢は羽織ったカッターシャツの前を合わせてしっかり握りしめ、うつむき加減に立ち上がって、ありがとうと微かな声を立てる。

 フレンチシャツ一枚の貧弱な上半身を真っ赤にして、冬彦は早足にその場を立ち去った。

 階段を駆け下りる足音が聞こえなくなると、亜矢は溜息ひとつ、流れる黒髪を掻き上げた。

 その髪が、屋上に吹く強い風に吹き乱されたかと思うと、立ち尽くしていた少女の姿も消えていた。

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