シーン2 兄が天の岩戸に籠もること

 ところが、まる一日過ぎて、明くる木曜日。

 風向きは180度変わっていた。

 冬彦のモチベーションも、方向性も……。

 瑞希がその日の情報収集で得た成果は、芳しくもあり、また、そうでもなかった。

 葛城亜矢ほど才色兼備の少女であれば、男子生徒が放っておくわけがない。

 入学時から玉砕した男子生徒は数知れず。

 それに恐れをなして思いを内に秘めたままの者はどれほどいるか、見当もつかない。

 それだけモテれば、振られた男の逆恨みや女子生徒のやっかみがあっても不思議はない。

 だが、それも皆無。

 振ったときの対応も、そのあとのフォローも完璧。

 抜け目がない、といえなくもないが、そういった表現で評する者はない。

 いわゆる八方美人の嫌みがないのである。

 唯一、去年から噂のあった現3年生とも、どうやら今はそんな関係でもないらしい。

 つまり、冬彦にもチャンスがないと言い切れないわけでもないといえばない。

 だが。

 恋する少年は、帰宅するなり部屋に閉じこもってしまったのである。

 夕食にも出てこない。

 救いと言えば、部屋の前に置いた夕食は、全て片付けられていたことぐらいだろう。

 茶碗を回収しに行った瑞希は、閉ざされた部屋の扉を前にぼやいた。

「また天の岩戸か、徹夜やだな」

 何事も、一度経験してしまうと度胸が据わるものであろうか。

 以前のようにおろおろする一葉を「心配ない」となだめておいて、瑞希はひとっ風呂あびた。

 毎朝の日課と化した玉三郎とのバトル、そして新たに加わった亜矢に関する隠密行動で疲れた体を洗ってさっぱりした後、明るいオレンジ色をした薄手のパジャマにタオル一枚頭からかぶって、兄の部屋の前にアグラをかく。

「母さんには言わないからさあ、話して。何があったの?」

 しばらく返事がなかったが、瑞希が腕組みして座り込んでいる気配をドア越しに察したのか、冬彦は聞き取りづらい声でボソボソと語り始めた。

 聞こえないところを「はァ?」と威圧して繰り返させる。

 30分ほどかかって瑞希が聞き出した話を元にその情景を再現すると、次の通りである。


 ――放課後、部活が始まって間もなくのことだった。

 主役の退学が突然知らされた。

 当然、冬彦はあたふたしたが、すでに代役に決められていてはどうすることもできない。

 何事もなかったように始まった稽古で、有無を言わさずいきなり稽古に立たされた。

 全てのキャストが定位置につき、演出の指示で部長兼舞台監督が合図の手を叩いた瞬間、冬彦の表情は強張り、視線は宙を泳ぎはじめた。

 震える足は一歩を踏み出す先に迷い、かと思えば体は右へ左へと振れながら、舞台のあちこちを行き来する、

 片手に持った台本をたどたどしく読む声は上ずり、台詞は棒読みになる。

 稽古場のあちこちから失笑が漏れ、冬彦はその場に硬直した。

 その時である。

「今、笑ったのは誰?」」

 その場の空気を、静かだが厳しい声が一瞬で凍りつかせた。

 演出が手を叩いて芝居を止めるまでもない。

 全員が金縛りにあったかのように、一人の女生徒を見つめていた。

 その視線の先に立っていたのは、葛城亜矢であった。

「前へ出なさい」

 脚をまっすぐに揃えて立つ、端正な姿。

 タンクトップから伸びた白い腕は、豊かな胸の前で組まれている。

 だが、そのまなざしは鋭い。

 その一言で、稽古を見ていた数名の部員がふらふらと立ち上がり、言われるままに整列した。

 正直に名乗り出た部員たちに、微笑む長い黒髪の先輩は語りかけた。

「稽古中の仲間を笑うのは、絶対にやめて。大事な戦力よ。笑われた人は、二度と人前で話すことができなくなってしまうわ」

 ゆっくりと息をつきながら、部員全ての顔を見渡す。

「三好先輩が退学するなんて誰も思ってなかった。」

 その一言で、張りつめた空気は一瞬にして変わった。

 突然去って行った仲間を思う熱い溜息が、あちこちで洩れた。

「私も三好先輩は何があっても必ず舞台に立つと信じてた。」

 うつむく者もあれば、亜矢を真剣なまなざしで見つめる者もある。そこにあるのは、亜矢と三好の恋の噂を知った上での恥じらいでもあり、憧れでもあるだろう。

 だが、亜矢の声は決して終わった恋への感傷に酔ってはいない。

 自己批判の言葉が、一同の頬を叩いた。

「いざってときのための代役が務まる自信がある人もいなかったと思う。そんな中で背格好が似てる菅藤君に代役をお願いしたとき、本当にできるかどうか確かめなかったのは、上級生として私も責任があると思ってる」

 葛城亜矢が頭を下げると、長い黒髪が滝のように肩からこぼれ落ちた。

 静まり返った一同を前に、真っ直ぐ身体を起こした彼女は、凛とした声で一気に言い切った。

「そりゃ、急に1年生が主役になれば不安だろうし、面白くないだろうとも思う。そう思えるくらい、君たちがトレーニングしてきたことも知ってる。今回の公演でも、その成果を十分に発揮させてほしいと思ってる。だから、自分も仲間も大事にして。」

 その場に立ち尽くす部員たちを戻して、葛城亜矢は冬彦に向き直った。

「頑張ってね。期待してるわ」

 はい、とだけ返事して、冬彦は直立不動の姿勢を取った。その手を取ってバンザイをさせ、脇の下をくすぐる先輩。

 たまらず笑いだした冬彦につられて、稽古場にいた一同はどっと笑った。

 その声を背にして自分の立ち位置に戻る葛城先輩は、今度は冬彦の耳元で低く囁いた。

笑わせるのと、笑われるのは違うのよ、と――。


 冬彦の話を一通り聞き終わった瑞希は、たった一言だけを残して自分の部屋へ下がった。

「明日はちゃんと起きてよ。寝てるとス巻きにして学校まで引きずっていくから」

 その脅し文句が効いたのか、夜が明けると、冬彦は金曜の日の出と共にひとり黙々と朝食のパンをかじり、寝起きの一葉から昼食代を受け取って登校していった。

「冬彦くん、本当にひとりで学校に行ったかな?」

 本来の時間に朝食を作りながら、一葉はつぶやいた。

 大丈夫よ、とベーコンエッグを箸で裂きながら瑞希は答えた。

「自分でやると決めた以上はやるって、お兄ちゃん」

 一葉はしばし考えてから、尋ねた。

「ヒニクって知ってる?」

「あ、何かイヤミに聞こえた?」

「その皮肉じゃないの。虚実の『皮膜ひまく』って書いて、『ヒニク』と読むんだけど……」

 そこまで聞いた瑞希は、兄と同様に黙々と朝食を進め、一葉から弁当を受け取って玄関を駆け出して行った。

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