第59話 静かな夜の相棒【シュール】

「コーヒーの魔導書とかそういうもんがあるのか。いや、それならそれで早く言ってくれよなリーリヤ。俺がコーヒー好きなのお前も知ってるだろ」


「いつもなら、おかしい、なんで魔導書とコーヒーに関係があるんだよ。馬鹿なのか魔法使いは、って言ってるくせに。自分の好物だからって、調子のいいことだわね」

「そりゃお前、コーヒーは仕方ないだろう。あれはよう、人類の宝だぜ」

「そうかしら。私は紅茶のほうが好きだけれど」


 女子供には分からんのだろうな。

 あの苦味、あの酸味。そしてほのかに香る焙煎の匂い。ちりりと焦げた豆の油が発する香りというのは、煙草の臭いよりも俺に精神的な豊かさを与えてくれる。


 あぁ、コーヒー、俺の愛するコーヒー。


 朝となく昼となく、ついつい求めてしまう漆黒の魔性の飲料。

 旅の途中でたまたま飲んだそれに、どっぷりと漬かるほどにハマってというもの、かれこれ十年来。聞かれなければ言うこともないが、俺は大のコーヒー党である。

 ことコーヒーに関して、王国でも俺以上にこだわりのある奴はそういないだろう。


「自分で豆仕入れるくらいだものね。まぁ、おかげで落ち着いた午後を過ごさせていただいているわけだけれど」

「感謝してるならそれこそ教えてくれよ」

「だって、アンタに教えたらどうせややっこしいことになるって目に見えてるから」


 なんだよややっこしいことって。

 俺はどっかの誰かさんと違って、別に興味のある魔導書だからと言って、取り乱したりするようなことはせんぞ。


 仕事は、仕事だ。

 その辺りのけじめはきっちりとつける。今日だって、お気に入りの豆引きも、サイフォンも持ってきていないのだ。その辺りをちゃんと見て言って欲しい。


「マクシム、貴方ってば気づいている。今日、魔導書架に入ってから、アンタずっとニヤケ面だってことに」

「ははっ、何を馬鹿な。俺はいつだって、笑顔の似合う、さわやか司書補佐だったろうが。変なこと言うなよリーリヤ」

「やめて気持ち悪いから、ほんと、ウィンクとか」


 ははっ、こいつめ、言ってくれるぜ。

 悪いかよ。そりゃテンションだって上がるよ。世界のコーヒーについて、まとめた魔導書架とかそんなん、コーヒー好きが喜ばない訳ないだろう。

 どんなコーヒーだろうかね。仕入れているといっても、俺の安月給じゃ、大衆向けの安い豆しか買うことはできない。高級豆なぞ飲めるのならば、嬉しいのだが。


 いや、相手は紙でできたコーヒー豆だ。飲めるわけがないか。


 だがしかし、匂いくらいは楽しめるはずだ。


「ほらっ、微笑みコーヒーバカ一代男。ついたわよ、ここがコーヒーの書架よ」


 そういってリーリヤが足を止める。

 第五十一書架。コーヒーの魔導書の書架である。

 入り口はやはり他の魔導書架とそう変わらない。

 だが、扉の向こうから漂ってくる、このむせるくらいの焙煎されたコーヒー豆のにおいはどうだろう。


「俺、今日からここにずっと住むわ」

「やめなさいよアンタ。もう言ってる傍から変なこと言い出して」

「お前だって紅茶の魔導書架があったら、そこに入って暮らそうって思うだろう。そういうもんじゃないのか」

「そういうもんじゃないと思う。というか、私はそんな紅茶臭いところで寝泊りしたくはないわ」


 なんだよ紅茶好きじゃなかったのか。

 いや、紅茶よりこいつ、本が好きだったな。

 それが高じてこうして図書館に住んでいるというのに、人を頭のおかしいやつ呼ばわりとは。人のふりみてなんとやらという奴ではないのか。


 まったく、と、溜息混じりに呟いて、俺は扉の前へと出る。

 いつもは書架の扉を開くのはリーリヤの役目だが、今日ばかりは譲れない。

 俺はリーリヤに視線で許可を得ると、その扉を奥へと押し込んだ。


 途端、鼻をついたのは、濃い、コーヒー豆の香ばしい香りである。


 至福。


 あぁこの空気を吸っているだけで、俺はもう満足だ。

 このまま鼻の穴からコーヒーの香りを吸い込んで、鼻水にコーヒー成分を抽出して飲み下してやろうか。


 うん。

 流石に、自分で思ってて、その発想はキモいとは思った。


「あらいい香りだこと。蒸気を濾したらコーヒーになりそうね」

「そうだよな、普通そういう風に考えるよな」

「それ以外にどういう風に考えるのよ。って、あら、あそこ」


 見て、と、リーリヤが指を差す。

 そこには豹柄をした小さな獣が、カリカリと、枝に成っているコーヒーの豆を齧っていた。

 なんとほほえましい光景だろうか。

 コーヒーはこんな小動物さえも魅了してやまないのか。


「あの、猫、ジャコウネコって言うんだけれどね。あれのお尻から未消化のコーヒー豆が出てきて、それをありがたがって飲む連中がいるのよ」

「知ってるよ、コピ・ルアクだろう。高級コーヒー豆だよな」


 ちっと、舌打ちするリーリヤ。

 知ってたのねと呟くとそのまま彼女は俺から視線をそらした。

 知らいでか。コピ・ルアクを知らずにコーヒー好きなど名乗れるもんじゃない。


「なにもコーヒー豆を食うのは猫だけじゃない。象に食わせて造るコーヒー豆もあるんだからな」

「うげげ。やめてよ。幾ら高級でも、一度動物の体に入ったものなんて」

「体温でいい感じに熟成してコクがますってんだよ。そんな悪いもんじゃないぞ」


「えっ、ちょっと、待って、飲んだの?」

「飲んだよ?」


 えんがちょ。いきなり腕を十字に重ねると、ささとリーリヤが俺から距離を取る。

 そんな警戒せんでもいいだろ。飲んだのはまだこっちに来る前、大陸を旅していた頃の話だっての。もう体内に、一粒もそのときの成分などのこっとらんわ。


 というか、そんな態度失礼だろうが。美味しかったし、実際のところ。


「信じられないわ、信じられない。そんなもの、高級だからってよく食べるわね」

「お前らが虫食うのと同じような感覚だと思うよ」

「私たちだってなんでも虫食ってる訳じゃないわよ」

「そりゃ失礼。というか、猫や象くらいでなんだよ。世の中には、もっと珍しい製法で作られてるコーヒー豆がまたごろあるっての」


 たとえば、と、リーリヤ。

 こいつ色々知っている風を装っておいて、興味のないことには本当、とことんまでに無頓着なんだからな。


 仕方ないな、と、心の中で呟いて。俺は昔飲んだ珍しいコーヒーに思いを馳せた。


「そうさな、アレは確か南の方の都市を旅したときのことだ。霊峰に住んでいるという希少な原住民が、儀礼のために育てた幻のコーヒー豆というのがあって」

「なんで儀礼用のコーヒー豆が普通に飲めるのよ」


 じとり、と、リーリヤが俺をいぶかしむ目で見る。

 いやだって、それは、店主がそういっていたのだから。


「あとはそうだな。西の国のリアス式海岸のある地域で、断崖絶壁で育つコーヒーの木から採取した豆というのがあってな」

「コーヒー豆ってリアス式海岸みたいな切り立った土壌じゃ育ちにくいんじゃ。というか、湿度に弱いのよね、あれって」

「北の国ではな、永久凍土から出てきた原人の腹の中に納まっていたという幻の」

「そんな所でコーヒー豆なんて育つのかしら」

「極東ではなんとエルフの一族が育てたという、最高級のコーヒー豆をだな」

「あ、それ、たぶん私の親戚の農場のだわ。けど、幻とかそういう、たいそうなものじゃなく、普通によくある銘柄のだけれど」


 俺は力なくその場にひざを折った。

 なんだよ、それ。


 いや、うん、なんとなく、そうなんじゃないかな、って、思ってたんだ。


「ちなみに、親戚が造ってる銘柄はキリマンジャロだけれど」

「どれもこれも甘い香りの酸味が利いたコーヒーでした」

「盗賊のアンタが騙されるなんて、世も末な話ね」


 仕方ないだろう。だって、俺、当時はコーヒーなんて初めて飲んだんだから。

 いいものを飲んだことのない人間なんだから、よしあしなんて分かるわけない。

 だというのに、何を調子こいて俺はあんな怪しいコーヒーを。


「色々飲んできた今だから分かる。あれ、絶対偽者だよ。そこいらにある普通の格安コーヒーだよ。ちくしょう」

「まぁ、うちの親戚のは、一応無農薬だから、ね、そんな落ち込まないで」

「そうだな。さっき言った奴の中では一番美味しかったよ」


 あぁ、飲みたい、美味しいコーヒーが飲みたい。

 コーヒーとはまったく違う、頬を伝って流れてくる塩っ気のきつい液体を飲みながら、俺は若い自分の過ちを悔いた。


「泣かないの。もう、今度里帰りしたときに、一袋くらい貰ってきてあげるから。ほら、さっさと目的の本を探すわよ。マクシム!!」

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